戦火のアンジェリーク(14) 3.Wales ~ the UK
3.Wales ~ the UK
声を無くした天使
大人に成り立ての一人の少女が生きてきた時間は、人間の一生から見たら、ほんの僅かだろう。が、今までに自身が見聞きしてきた現実から、人間の戦争というものの真理を、漠然とだがアンジュなりに察していた。
人間が集まる所には、多かれ少なかれ、複数のカテゴリーや階層、理不尽に支配する者と服従する者が生まれる。倫理や制度も名ばかりで無意味……そんな世界で逆らう術も無いまま生きていくには、自分の意思すら抑え、滅し、流れ行くしか出来なかった。
一部の層が莫大な利益を得るために、全体が操られ、壊され、利用されていく。大半の層が得るのは、残骸、遺恨、悲哀、嫌悪、怨恨、絶望……そして、空虚。勝敗は無関係にそれらを与えられ、有無を言わさず享受させられる。
敗者側は、更に卑劣で屈辱的な仕打ちと、暗に支配下された暮らしを、子々孫々と背負わされるのだ。……そんな残酷で馬鹿げた状態が存在して良いのだろうか。
愚かだと理解していながらも、狂った何かから自身や大切なものを守る為、戦う理由に掲げた『崇高な大義』を成し遂げる為に、自らも狂わなければならない、苛烈な現世。
魔に憑かれた時は、更に『邪』な魔を以てしか、制する方法は無いのか。誰かを明るく元気にしても、更に強圧な闇が膨れ上がって、芽生えた希望の光を、呆気なく呑み込んでしまう……
――フィリップも、そうだったの……?
そんな風に考えた瞬間、身体中でずっと抱え続けていた、どうしようもない無力感と空虚な塊が、アンジュの胸奥からスコン、と全身を突き抜け……底に落ちた。
――……こんな、生き物らしく生きることすら赦されない世界に…… 破滅に自ら突き進むのが、当たり前の時代に……歌を……希望を、うたって……何、になる、というの……?
――どうにもなら、ない。何も、でき、ない……のに、なにも……『無い』、のに……!!
「!?」
重くフリーズした脳内を抉られるような激痛が、鋭く走り、カッ、と瞳孔が開いた。激しい吐き気と、息苦しさが胸を襲う。涙と冷や汗が吹き出し、自身の異変と危機を感じたアンジュは、助けを呼ぶ悲鳴を上げようと喉を押さえ、必死に声帯を開いた。
「……っ!? ――!!」
つけっぱなしだったラジオから流れる音声だけが流れる無機質な空間が、その場を物語っていた。唾液が零れるアンジュの唇からは、荒々しくも苦し気な呼吸音だけが、絶え絶えに、響いていた。
「シスリー!?」
深夜。仕事から帰ってきたジェラルドは、部屋に入るなり目に入った、テーブル近くに座り込み、喉を押さえたまま茫然自失状態になっているアンジュの姿に驚愕し、大声を上げた。
意識が朦朧としている彼女に何度も声をかけたが、返事はない。ぴく、と頭が動き、虚ろな眼は開き、呼吸も微かだがしている。しかし、一切、口を動かそうとしない様子に血の気が引いた。
緊急事態を察したジェラルドは、まずグレアム宅に無礼を承知で電話をかけ、詫びと状況を述べた。彼から夜間外来をしている診療所を聞き、電話をかけ、タクシーを呼び、脱力状態のアンジュを抱えながら乗り込む。怪我はないようだが、原因が全くわからない状況に、恐ろしさと共に、強烈な眩暈を感じた。
診察が終わり、耳鼻咽喉科、内科共に『特に異常なし』という結果が出た。専門外であるから断定は出来ないが、外因的な脳の障害か、強い精神的ショックを受けた事による、心因性による『失声症』かもしれない、と医師は述べた。
心当たりは無いか、と聞かれたジェラルドは、身が詰まされる思いだった。……ありすぎたからだ。ロンドンでの数々の苦行、兄の卑劣な所業、自分と二人だけで慣れない土地で奮闘する日々。そして、以前に聞いた親友というフランス人の男が、陸軍に志願したという事。そして、彼も今日知った、そのフランスが完全降伏したというニュースに加え、仏軍は壊滅状態という訃報……
ラジオでそれを聞いた直後、彼女に異変が起こったのだろう、と予測するには容易かった。夢を叶えるという大切な約束をした、という男の安否の危機。それを知り、自身の大切な一部を失った、いとおしい女……
ジェラルドの胸奥のあちこちが、じりじり、とちりつくように焼けた。
身内に緊急事態が起こった為、今日の仕事は休ませて欲しいと、ジャズバーの店主に詫びの連絡を入れたジェラルドは、まだ心此処に在らず、といった状態のアンジュを連れ、一先ず自宅のアパートに戻った。
ダイニングテーブルの椅子に座らせ、温かいミルクティーと菓子を用意し、とりあえず落ち着こう、とマグカップを差し出す。目の前の乳白色の湯気と、憔悴しつつも穏やかな彼を交互に見たアンジュは、こくん、と無表情に頷き、ゆっくりとカップを口にする。
『無理もない』とジェラルドは思った。訃報の内容もだろうが、こんな事態になるとは彼女自身、思っていなかっただろう。彼もまた混乱していて、未だに信じ難く、現状を受け入れられていない。
あんなに一生懸命頑張っていた彼女が、自分に嬉しそうにしていた彼女が、よりによって声を出せなくなった……歌えなくなったのだ。
紅茶を飲み終えたアンジュは、ことん、とカップを置くなり、俯いて微かに肩を震わせた。完全に光を失い、宵闇の海と化した瞳を、恋しい人に向ける。頬には一筋の滴が流れ、唇が上下に揺れていた。
「シスリー……?」
困惑の色が浮かぶジェラルドの顔をじっ、と見つめ、アンジュは吐き出すように、口を動かす。
『ジ・ェ・イ・ド・さ・ん』
「………!!」
『ご・め・ん・な・さ・い……!!』
おぼつかな素振りで絞り出すように、そんな切な言葉が、呼吸音と共に濡れた唇から零れる。たまらなくなり、ジェラルドは抱きしめた。ぐっ、と目を閉じ、痛んでいた胸奥を、一気に焦がし尽くす。
――謝らないでくれ……わかってる……
歌う事が、彼女の全てだった。歌えたから、生きていた。自分と出会う前から今まで、そうして辛い事や悲しい事を、一人で乗り越えてきたのであろう…… そんな天使に惹かれた自分。
どんなに妬ましくとも、羨ましくとも、そんな彼女の『生きる術』を形作っていた存在を、否定するなど――できない。
その夜。食欲の無い二人は、夕食もそこそこにして、早めに床につく事にした。向かい合っている目を腫らした彼女をジェラルドは案じ、一晩中、傍に抱き寄せて眠るつもりだった。しかし、セミダブルベッドのマットレスに座り込んだアンジュは、ゆっくりと左右に首を振る。
予想外の反応に、ジェラルドは拒絶されたようで内心ショックを受けたが、もっと堪えたのは、身につけることにしたメモ帳に彼女が目の前で書いた、一行の言葉だった。
『私は、あなたに優しくしてもらえる資格、ないです』
目にした瞬間、何を言っているのだろう、とジェラルドは唖然とした。自分と関わった事も原因の一つではないのか。他の男の訃報がきっかけで、こんな事態になったことを気に病んでいるのか……
ただの親友で、それ以上の関係でなかったなら、そこまで後ろめたく思う必要はないはず……と怪訝に思った。だが、アンジェリークという少女の、これまでの生き様を支えた存在なのは認めざるを得ない。彼女自身も、それを自覚しているのだろう。
それに対する、やり場の無い苦い嫉妬、どうしようもない無力感に駆られ、振り回されるのは、男としても格好悪い…… そんな複雑な感情を見透かされたようで、ばつが悪くなる。
「……俺といるのは、もう、嫌なのか?」
声色のトーンが若干下がり、悲しげな雰囲気に変わった彼に、アンジュは慌てた。引っ越しを終え、一緒に暮らし始めて、まだ数日だ。籍を入れるどころか、それらしい生活もまともに出来ていない。いつか彼が言った、あれ以上、身体を重ねてもいない。
何もかも、ようやくこれから……そんな矢先の事態だったのだ。申し訳なくて、居たたまれなくて、この場で消えてしまいたい位だった。しかし、傷つけてしまっては本末転倒と、ふるふる、と今度は勢いよく首を振る。
そんな彼女を複雑そうに見つめ、ジェラルドは、メモ帳を握った細い腕を取った。
「……何を気にしているのか知らないが、俺がそうしたいから……するだけだ」
無意識に瞳孔が開いたアンジュの胸奥が、ぐぐっ、と締め付けられた。宵闇の海の瞳に、微かな淡い光が射したが、胸に広がる甘い痛みに、泣き声を上げる。
――どうして、この人は、こんな私に、こんなに優しくしてくれるのだろう……
「……とりあえず、今日は何も考えないで、休もう。疲れただろ」
こくり、と頷き、アンジュは躊躇いがちに、彼に少しずつ寄り添った。ジェラルドはゆっくりと腕を回し、壊れ物を扱うように、そっと彼女を抱き寄せる。そのまま全てから護るように、温かな毛布で包み込んだ。
そんな物言わぬ優しさに、アンジュは心の中で何度も彼に詫び続け、泣いた。
――…………
『歌えない自分は、どうやって生きていけばいいのだろう』と、声が出なくなってから、アンジュはずっと思っていた。そんな自分に何の価値があるというのか。それしか、なかったのに。今は歌うどころか、話す事すら、出来ない。
昔から、いつも、大切な人の負担にしかなれない。何故、自分はこんなに弱いのだろう。強くなりたい。なりたかった……
生きていく為に、そんな思いは抑え込んで、ずっと封じてきたのかもしれない。頭も、心も、自身を卑下し、蔑む感情で、今は溢れかえっていた。そのまま、そんな負の概念に呪い殺されるのではないか、それならそれでよいかもしれない……と思う位に……
一週間程、アンジュは自身の変化や様子を見ていた。食欲不振や疲れやすさはあるが、家の中で軽い家事をしたり、買い物に出かける程の体力はあった。しかし、就寝後に悪夢にうなされ、次第に不眠気味になってしまった。そんな日は、触れられるという事に、ジェラルドからすら怯える様子を見せる。
そんな反応に、彼は内心ショックを受けたが、ますます心配で堪らなくなった。なるべく彼女を一人にしたくなかったが、昼過ぎからも仕事場に赴き、カフェ営業の業務も請け負う事にした。本来なら、アンジュも何か仕事を探して、家計を助ける予定だったのだ。
そんな状況を耳にし、心配したグレアムは週一で二人のアパートに訪問し、サポートしてくれるよう、夫人に頼んだ。
こんな風に色んな人に迷惑をかけて困らせているという状況が、アンジュは本当に辛く、自責する毎日だった。何もできない、何も知らない、何も持たない、無力でこんなにちっぽけな存在だから、こうなったのだと……
どうしようもない喪失感と渇望するような焦燥感が、時折、アンジュを襲う。身体の内側から、何かが崩れ、消えていくような、そのまま無に帰してゆく感覚。
自身を痛めつけ、粗末に扱い、そのまま闇に投げ出して消えてしまいたい…… そんな衝動に誘惑され、支配される時もあった。悪魔が耳元で囁いたか、何かの黒魔術にでもかかったか……
今まで知らなかった、そんな刺々しい自分の心が――とても、怖かった。
次第に、孤児院の院長やロベルト、そして、フィリップに似た風貌の人間を、町中で見かける度に、眩暈と激しい息苦しさが、アンジュを襲うようになった。
それらが頻繁に起こる事を恐れ、外出の回数が減り、部屋に閉じ籠りがちになった彼女が、ジェラルドは心配で堪らなく、もどかしい無力感に打ちのめされていた。
こんなに苦しんでいる、何よりも大切な、好いた女に自分は何も出来ないのか。彼女にとって、自分は何なのか。自尊心をへし折られてばかりだ。
「俺にできる事は……何も無いのか?」
ついに、彼女本人すらわからないであろう問いをぶつけ、困らせてしまい彼も自己嫌悪に陥った。
――自分のせい。自分が苦しめた。自分は無力だ。何も出来ない……
『生きる』って何だろう……とアンジュは悩み、耽る。食べて、呼吸をして、大切な人と暮らしている。今時世、それだけで十分に幸せで、尊い事だ。
だが、私は、何故、生きているのだろう。その大切な人に寄りかかっているだけの、ただのお荷物ではないのか……
自身を占めている強烈な孤独感、自己否定感が、一瞬で消し飛ぶ位の何かがほしい。決して揺るがない確かなもの、満たされるものが欲しい。
いや、遥か昔から、生まれてからずっと……欲しかったような気もする――
部屋の外の世界は、相変わらず暗く殺伐としたニュースで溢れている。中の世界も、また異なる哀しい状況だ。
――覚悟はしていたが、まさか、こんな荊の道になるとはな……
自嘲気味に、ジェラルドは心の中で苦笑した。
★心乞う最上は
アンジュが声を消失した事件から、一ヶ月程が過ぎた頃、季節は初夏になっていた。欧州から孤立した英国は、未だ先行きの見えない、濃く真っ暗な空気だけが漂い、いつ余命宣告が下るか分からない渦中のような、絶望的な時流が襲っている。
それは、ウェールズの田舎町にひっそり暮らしている、若い恋人達も同じだった。アンジュの口からは、未だ、微かな音すら出ないでいる。
しかし、人間とは不思議なもので、初めは二人共に困惑と悲観を抱えながら過ごしていたが、少しずつ、そんな暮らしを諦め半分、受け入れつつあった。基本的に無音、無言の時間ばかりだったが、それにもだいぶ慣れた。
ジェラルド自身が、それほど多弁でなかったのもあった。アンジュとの意思疎通や連絡は、筆談と彼女の唇の動きを読む事で、どうにかなっている。
だが、あれからずっと、彼女の表情が固まったまま、微笑みすら見せなくなった事が、彼には、一番堪えた。
そんなある日、ジェラルドは休暇をとり、少々遠方の町の役所まで赴いた。例の『良心的兵役拒否権』の申請をしに来たのだ。婚約者同然のパートナーが病気である身なら、尚更、自身まで危険に晒す訳にはいかない、と考えての事だ。
審査が通るのを願うばかりだったが、それはアンジュも同じ……いや、今の彼女には、ある意味彼以上に切実で、悲壮感の占める心境だった。
――ダメだったら、どうしよう。怖い。怖くて堪らない。彼が、激戦地へ行く……
――この人まで消えていなくなってしまったら、どうしたら良いの……
考えただけでも、身震いする位に恐ろしい未来だ。想像すらしたくない。
――私は、全然、大丈夫じゃない。あんなに歌を褒めてもらっても、全然、立派じゃない。偉くもない
――こんなに、どうしようもなく弱くて、みっともない位にすがっている、脆い人間だったんだ……
その夜。奇妙な静寂の中、久しぶりに二人でゆっくり夕食をとる。簡素だがジェラルドの好物を作ったのだ。久方ぶりに見る嬉しそうな面持ちで、シチューを平らげていく彼を、アンジュは切ない思いで見ていた。
――あと、何回、彼とこんな風に過ごせるんだろう……
――こんなに穏やかな日々も、終わってしまうのだろうか……
いつものようにシャワーを浴び、共に床につく時、アンジュは思い詰めた様子で、ジェラルドの手を取った。
「どうした?」
何か言いたい事がある時は、軽く身体に触れる仕草を合図にしていた。が、いつも以上に神妙な気配が気になる。
『……おねがい、が、あります』
頬をペールピンクに染め、ゆっくりと唇を動かし、そんな事を告げる彼女にジェラルドは身構えた。こんな風にアンジュが何かをねだる事など、ほとんど無い。頼られたのは嬉しいが、ぴん、とした緊張感が、仄暗く漂う。
「……何だ?」
返答した瞬間、アンジュはしゅる、とネグリジェの胸元を絞っている、細い紐をほどいた。そして、膨らんだ綿素材のスリーブ部分も緩ませ、ずり下げようと必死に指先を動かし、もがいている。
そんな彼女の所為に、ジェラルドは唖然とした。一瞬、何が起きているのか解らず、思考が止まった。彼女の鎖骨付近や肩が次第に露になっていくにつれ、状況をようやく理解する。白い素肌が映った瞬間、どくん、と血流が巡り、心臓が一気に跳ね上がる。
「……何、してる!? やめろ!!」
止めさせようとしたジェラルドは、彼女の両手首を強く掴む。アンジュは構わず、いとおしい胸元に自身の体を強引に委ねた。彼が激しく狼狽えているのは判る。しかし、切々した激しい想いが、渇望が、身体中に溢れ返って止まらない。
今じゃないと、ダメだった。今、この人に触れて、抱いてもらわないと、心が、自分全てが死んでしまいそうだった。
公的な縁は無くても、こんな歪な形でも、いつ、どんな火の粉が降り掛かるか分からない、こんな危うい時代だからこそ、衝動的で、刹那的なやり方でも……良かったのだ。
この酷な世界で、自分は生きていて良い、濁流の中でも生きてゆける、という絶対的で確かな力を与えて欲しかった。はっきりと、この身体全てに染み付くように、差し出して欲しい……
誰でも良い訳じゃない。この人だから、特別なこの人だから……したい。出会ってから少しずつ知って、もらった優しさを、深い想いを、もっと味わって、感じて、返したい……
胸元の紐が緩みほどけ、アンジュのなめらかなデコルテと細い肩が露になり、はだけた。そのまますがり付くようにジェラルドの腕を握り、切羽詰まった面持ちで見つめる。そんないじらしくも扇情的な光景に、喉に詰まっていた熱い塊が、ごく、と下っていった。
「……シスリー? いい、のか……?」
アンジュは反射的に小さく頷き、腕を握った細い指に、更に力がこもる。意を決したような、波打つ宵の海の瞳を彼に向けてくる。
『このまま、あれ以上をして欲しい』と、おそらく彼女は願っているという、突然の状況に動揺し、ジェラルドの思考が錯乱する。
他の男の訃報がショックで声を無くし、他人に触れられる事に過敏になった彼女が、何故、今、ここまで自分を求めるのか、ジェラルドには理解できない。
何故、急にこんな……? 自分は何も力になれないのではなかったのか……? 自虐的に視線を反らし、顔を背け、訴えるように呟く。
「……だめだ……傷つける、かもしれない」
共にロンドンから避難し、同じ部屋で寝泊まりして暮らすようになってから数ヶ月。一度も最後までは身体を重ねていない。引っ越す際、秘かに用意した避妊具も使っていない。
彼女の痛んだ心身を案じ、多忙さによる疲労と理性を利用し、必死に男の性を抑え、今日までハグやキス以上の手は出さず、ジェラルドはずっと耐えて来たのだ。
そんな中、このように突然、強く求められている状況。切実さと恥じらいの交じる面持ちで、必死にすがりついてくる今のアンジュは、男を惑わす小悪魔のようにさえ見えてくる。
しかし、宵の海と化した瞳は、憂いていても変わらず澄んでいて、無垢な幼子のように清かった。だからこそ、余計にいとおしくて堪らない。が、同時に、ひどく痛々しかった。細身の身体は、微かに震えている。
このまま手を出してしまったら、彼女を完全に壊してしまうのではないか、と躊躇う。今の状態が、更に悪くならないかが、気になった。どうしたら良いか判らないまま、ジェラルドは一呼吸し、言いにくそうに忠告をする。
「……喉……声、を発しないと、辛い……かも、しれない……」
『それでもいい』と言うように、ふるふる、とアンジュは赤らむ顔を振った。胸元に擦り付けていた額を上げ、困惑と葛藤が浮かんでいる彼の頬に、恐々と自分の唇を、柔くあてた。
他人への挨拶、家族間の親愛のキスやスキンシップすら、まともにした経験に乏しい彼女は、恋人へのキスの仕方など……全く分からない。だから、いつもジェラルドが自分にしてくれていたやり方を、真似たのだ。
秘かに、ずっと綺麗だと思っていた、彼の首筋のライン、襟足の髪の毛、耳たぶ…… ずっと惹き付けられていた箇所に、精一杯の好意を込め、軽く啄むように、何度も、何度も拙いキスをした。
それに気づいたジェラルドは、激しい羞恥と衝動に襲われた。反発心を刺激する可愛らしい悪戯、又はいじらしい愛情表現にも感じる、彼女の誘い……
努め鎮めていた情欲が煽られ、一気に膨れ上がり、揺れ動く。脳内が熱く燃え、意識を甘く蕩けさす。既に、途切れ途切れだった理性が、今にも彼方に飛びそうだった。
「……やめろ!! 本当に、するぞ……!?」
慌てて彼女から身体を離し、半ば脅かすように渾身の最終警告を放つ。が、『いい』とアンジュは思った。
彼と出逢ってから少しずつ知った、不器用だけど深い優しさ。触れ合うようになってから教えてもらった人の温もり……満たされていく想い。それら全てを、今、身体中に沁み渡る位に……自身全てで感じたい。そんな飾らない自分そのままを、生まれたままの姿を、まるごと求めて、受け入れて欲しい……
若葉色に揺らめく瞳を見つめ、優しい警告を発した彼の口元を、ゆったりと合わせ塞ぐように、おぼつかな仕草で自身の唇を、柔く重ねる。が、自意識と羞恥が途端に働き、急いで離し、目を伏せた。
刹那――熱くなっていた頬が、急にひやり、とし、少しかさついた柔らかな何かで包まれた。ウッド調の香が鼻腔を擽る、と同時に、ずっと乞い求めていた感触が、口元を被う。覚えのあるいとおしい温かな重みに、そのまま身体が圧され、視界が仰向けに反転した。
背に感じる、安価なマットレスのまだ慣れない反動。頭部を髪ごと撫で上げる、節くれた長い指の感触。繋いだ大きな掌。すぐ傍で耳に響く粘のある水音と、ざらついた柔らかな刺激。しがみつくように掴んだ、広い肩……
あの海辺を離れて英国に来てから、アンジュが見つけた好きなものの中で、今、自分を包み抱いている全てが、一番温かくて、尊い存在だった。
最も、しあわせだと思った瞬間。甘やかな高鳴りとぬくもりに満たされ、安心できると感じる行為……
今までよりも性急に衣類を剥がし落とされ、露になった質感の異なる素肌が触れ合い、荒々しく撫でられる。お互いの身体に唇をあてていくにつれ、艶やかに鳴るリップ音、湿度を含んだ息が吐かれていく音が、響く。
だが、口から声は出なかった。落胆する反面、どこか諦めもあったアンジュは、甘痒い刺激に反応して深く零れる吐息と繋いだ指先に、切々とした恋情を込めた。
一方、ジェラルドは、時折、蘇る意識と理性の中で、以前と同じように、彼女の甘く愛らしい……声が聴きたい、と切なく願った。この行為で少しでも戻るなら……と、そんな一縷の希望を、触れる指や舌先に、激する欲と共に込める。
そんな彼の思いを知らないアンジュは、生まれて初めて身体中を駆け抜ける、しあわせな痛みと気もち好さに、戸惑いながらもひたすら耐えていた。だが、やはり、抑えた声すら出ない。
しかし、荒くも深い呼吸音に交じり、弦の上に小鳥が留まった刹那のような、ほんの微かな音が、唇から漏れた事に、アンジュは気づいた。生理的なものとは違う、よろこびの滴が、眼から零れる。――嬉しかった。こんな形でも、こんなやり方でも良かった、と……
その吉報を、ジェラルドに伝える術は無い。艶な猛りを昂らせていく彼は、おそらく気づいていないだろう。積もり詰まっていくいとおしさと共に、汗ばんだ彼の背中にしがみついた指先と、未だ絶え間無く溢れる熱い吐息に、高鳴る歓喜を込めた。
幾度も密着し、重なり繋がる度、優しくしてくれる度、逆に激しく求められる度、必要とされている気がした。自分も、この世界の一部になって良いと認められたような……生きていて良いと、ひりひり、と身体中に沁み渡る位に刻まれた気がしたのだ。
――ああ……そうか。私は……ずっと……
――目に見えない『証』が、何よりも、ほしかったんだ……
『幸せ』も『愛』という名の存在も、世界のどこかにあるということだけは、何故か知っている。なのに、どんなものかは分からない。どうしたら手に入れられるかも知らない……
遠退く意識の中、そんな風に耽っていた彼女を心配そうに覗き込み、見つめてきたジェラルドと視線が繋がった。彼の翡翠色に揺れる瞳を見て、ふと、子供の頃に読んだ『青い鳥』という童話を、アンジュは思い出した。
幸福を運んでくるが、簡単には見つからない。青の翼を持つ、そんな幻の鳥は、実は自分達のすぐ傍にいた。そんな前向きで夢あふれる物語が、アンジュはとても好きで……憧れだった。
あの頃は……いつも一人で歌っていた場所……あのターコイズグリーンに煌めく、美しい海辺がそうだったように思う。思えば、ジェラルドの瞳の色に似ていた……
――今は……この人が、青い鳥だわ
それなのに、どれだけ日々を一緒に過ごしても、優しくしてもらっても、満たされるのはほんの一時で、また次を求めてしまうのは……何故だろう。挙げ句、『すぐに消えていなくなってしまうのではないか』と、その幸せの鳥を閉じ込めてしまいそうな自分が……恐ろしい。
見つけたのに、こんな近くにいるのに、いないような錯覚。永遠に乞い求め、さ迷い続ける……そんな終わらない放浪のような旅は、何時まで続くのだろう……
執着なのか、依存なのか、独占欲なのかも分からない。――全てかもしれない。
『すき』……今、はっきり分かるのは、それだけだった。
――淡い夏の日射しが、室内に入り込む。朧気な意識の中、先にアンジュが瞼を開いた。すぐ傍に温かい胸板がある。程好く肉付いた固い腕が、彼女の身体を包むように回されていた。
気怠い体を少し動かし、上向く。乱れたブルネットの髪、同じ色の扇状に伏せられた長い睫毛、すっと通った鼻筋が、深い寝息と共にあった。今更ながら、心が甘くときめく。
――私、すきな男、と……初めて……
昨夜、自分が彼にねだった事を思い出し、途端に羞恥でいたたまれなくなった。やたら熱いのは、気温のせいじゃない。腕枕にしてくれていた方の手の、節くれた長い指を、そっ、と合わせ握る。下腹部には、しあわせな痛みの余韻が疼いていた。
――うれしい……の、に……
心の空洞は埋まっていない……そんな自分が悲しく、改めて嫌になる。だが、僅かな光を感じた瞬間は、しっかりと覚えていた。
再び一ヶ月が経ち、北の英国もようやく夏らしさを迎えた。暑くなると人は開放的になるというが、アンジュは異なる理由で、精神的に突飛出るようになっていた。
あの初めての夜以来、人の温もりが無性に恋しくて仕方なくなったのだ。その相手が、好きな男だから尚更だった。求めてもらえるなら、いっそのこと性的な欲が理由でも良い……とまで思い詰めていく。
必要とされるなら、こんな自分の身体でも良いなら、まるごと差し出して構わない…… そんな偏った衝動が募ると、彼にせがみ、もっと触れてほしいと求めた。
引かれて嫌われる恐怖よりも、そんな恥ずかしい言動や情けない心を、無条件に受け止めてくれる一時が、欲しかったのかもしれない……
あの時。ほんの微かな『音』が喉から出た事を、アンジュから筆談で知ったジェラルドは、良い方に向かったならという一縷の希望と、彼女へのシンプルな情欲から、可能な限り応えていた。
しかし、あの行為にどんどん溺れていく彼女と自分が、少し怖くもあった。避妊はしているが、依存的になっているのが判る。そんなやるせない思いを紛らわしたく、ジェラルドも晩酌の回数が増えていた。
――…………
初めて感じた『好き』って、どんなだっただろう、と自嘲的にアンジュは振り返る。昔は、相手が自分を好きでなくても、ただ、傍にいて、話せるだけで安心出来た……
だが今は、自分を受け入れ、求められる喜びを知ってしまった。『甘えて良い』という赦しを、生まれて初めてもらったような……気がする。
――私は、ただ、愛されたくて、それだけの為に生きてたの……?
――ある夜。晩酌を終えたジェラルドと、カウチでの日課の筆談中、最近の彼女を心配した彼に、少し迷った後、アンジュはそんな思いを吐露した。
『私は、私が、嫌いです』
「な、に言……」
『弱くて、何も無い……できない』
「…………!?」
絶句する彼に、自嘲気味に続けてアンジュは書いていく。
『歌も……役に立って、認めてもらいたかったから……頑張ってただけ』
『誰も、救えなかった』
次々に綴られる、後ろ向きで悲観的な言葉……悲痛な面持ちで、彼女からペンとメモ帳を取り上げ、ジェラルドはそのままきつく抱き寄せた。
「……俺は、救われた、と言っても……か?」
アンジュの宵の瞳孔が開く。初耳で、知らなかった彼の奥底の声。
「初めて会った夜……一小節の歌が、良かったと言ったのは……嘘じゃない」
あまり世辞を言わない彼の賞賛は説得力はある。が、彼女には半信半疑だった。
「『ポピーの涙』……俺は聴いた。が……あの歌を歌いたい、と傷ついても願う君を見ていた時から…… この世も、そんなに悪くないのかもしれないと、初めて……思った……」
アンジュの心の空洞に、柔らかな綿が詰められていく。
「それでも誰か……そいつが褒め、認めないと……君は、救われないのか……!?」
「辛いなら、歌わなくていい。歌いたいなら歌えばいい。君が、選べばいい……生きていてさえくれたら……君が、君でいてくれたら…… 何故、そんなに……卑下、する……」
激していく反面、掠れていく彼の真摯な想いが、アンジュの心に入り込み、切に滲みた。目頭が痛くなり、一筋の滴が流れる。関を切り、次から次に、熱い水が零れる……
ジェラルドが、どうしてこんなに自分を大事にしてくれるのか、アンジュにはずっとわからなかった。だけど、今は信じたい……信じてみたいと、強く願う。
きつく抱かれた腕の中で、嗚咽すら出来ないまま、肩を震わせ、アンジュは静かに泣いた。こんなに心が動いたのは、何時ぶりだろうか。
今なら、出せるかもしれない。かつて無い喜びの勢いで、今、一番口にしたい言葉……彼の名を、呼びたい。
「……っ、は」
「シスリー?」
大好きな人の悲しげなヒスイの瞳を、しっかりと見つめ、アンジュは口を開け、ぱくぱく、と必死に動かす。首を抑え、喉奥から、音を出そうとした。今、一番、口にしたい言葉を。
「……じ……ジェ……」
「…………!!」
掠れた音と共に、歓喜と希望が射した。しかし、彼女の濡れた唇からこぼれるのは、短い呼吸音と深く苦しそうな吐息だけだ。苛立つように、小刻みに首を振り、胸を叩き始める。
「……っ!!」
涙を流しながら、必死に自分を喜ばせ、安心させようとしているアンジュが、次第に痛ましく、辛くなる。堪らなくなり、ジェラルドは再び抱き寄せた。
「いい。もう、いい……無理、するな」
焦りたくない。今より悪くなる位なら、このままでいい……
「……さっきの言葉も……忘れてくれ」
動揺し、戸惑ったアンジュは、怪訝そうに小首を傾げる。ようやく呼吸が整った口元を、ゆっくりと動かす。
『なぜ、です、か……?』
「……酔っ払いの、戯言だ」
ジェラルドは酒に弱くはない。晩酌で呑んだのも、節約の為に水割りのウイスキーをグラスに一杯だけ。呂律も回っていない。が、酔った時のように頬が赤らんでいる。
そんな彼を見ているうち、切なくもいとおしさで苦しくなったアンジュは、泣き顔のまま、少し微笑を浮かべた。
久方ぶりの彼女の微笑み……ジェラルドは驚き、突然の贈り物をもらったような気分になった。少しずつでいい、元のアンジェリークに戻ってくれたら……
「……眠ろう」
傷ついて、傷つけて、苛立ちで腹ただしくなる時もある。なのに離れたいと思えないのは、こんな風に、互いからしか吹かない風が、心を不意に温めるからだ。
それを手放し、離れた後の自分がどうなってしまうのか……彼らには想像できない。する事自体に怯えている。
『傍にいたい』『触れていたい』という、不規則だが頻繁に訪れる、ちぐはぐな小波。それだけを頼りに、先行きも逃げ場も見えない海面に揺蕩う。そこで、二人で食べて、眠って、息をする。それらが、今を生き抜く、唯一の術だった。
たとえ、そこが焼け焦げた荒地に、やがて変わるとしても。
↓次話
#創作大賞2023