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SS『彷徨う田んぼ』

老人は今日も田んぼの横を歩いていた。細々した世界において、田んぼは貴重な真っ直ぐな場所である。
老人は全てを見てきた。大統領が銃殺されたのも知ってるし、大地震でも生きのびた。こどもはいる。孫もいるし、多分もうすぐ曾孫も生まれる。
長い雨が止んで、空気は洗い流され地球は輝いている。きっと高い場所から見てもこの場所はきらきらと光沢を感じさせるだろう。街が好きだった。あそこのコンビニはもともと友達の家だった。いつの間にか売り払われ、コンビニピザ屋コンビニ自転車屋を経た上であのコンビニになった。
田舎ではなかった。
高速道路も通り、大きいスーパーもある。電車も20分に一本は来る。交通量も多いのに、歩道がないのは不便だ。
老人は石垣に腰をかけた。たんぽぽが咲いていた。その後ろには新緑と青い空が広がっている。ああ、夏だ、と思った。同じような光景を見てこの前は春だと思ったのに、何が変わったのだろう。まだ肌寒くて足の先が冷えるような温度なのに。緑の濃さ? 青が濃くなった?それとも薄く? 分からないけれど、夏だと思った。
ピコンッと音が鳴った。どこから聞こえたのか。新生物か何かかなんてくだらないことを考えてみる。そういや最近はウシガエルの声を聞かなくなった。あの騒々しさの中に生きてきた老人は、世界から音が無くなったように思った。
奥さんは可愛かった。ニコニコと笑う姿は奥ゆかしさがあって、ああ、この人を守ろうと思った。あの日を思い出すと笑みがこぼれた。ピコンッ。あの人に会いたいなぁ。ピコンッ。
「おじいちゃん」
青年がたっていた。妻の横にいるべき自分の姿のような青年は息を整えながらニコッと笑った。そして、老人の横に同じようにして石垣に腰掛けた。
「君はいくつだい、名前はなんという」
眉毛を掻きながら青年は「21歳だよ、ソウです。秋山ソウ」
「ソウか……、字はどう書くんだい」
「想うと書いて想だよ」
「想くんか、いい名前だねぇ。きっとご家族は君のことを大事におもってつけたんだろうね。誰がつけたか知ってるか?」
「おじいちゃんだよ」
青年は老人に優しかった。いつまでも話し続けた。ニコニコとこの時間が幸せなものかのように振舞った。
「おじいちゃんはどこに行こうと思ったの?」
青年はまた優しく尋ねた。彼の慈悲はどこから来るのだろう。老人は田んぼの向こうを見ながら「どこだったかなぁ」と答えた。
「もう陽も暮れてしまう。妻の元に帰らなくちゃいけないから、失礼するよ」
そう言って立ち上がった老人の姿は少し不安を感じさせた。青年はまた眉毛を掻いた。
「おじいちゃん、一緒に帰ろうよ」
その言葉に老人はどれだけ救われた気持ちになっただろう。知る術はない。家に帰っても可愛い妻はいない。それを忘れられることはきっと少しの幸せだ。
「かあさん、おじいちゃん見つけたから一緒に帰るよ、ご飯なに?」
青年は老人の腕を軽く抱いて、歩き出した。老人は笑った。今日は焼き鯖だ。

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