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【12日目】処刑台立ったひとには青空が見えるだろうか 靴下は白

一番自殺を考えていたのは、小学生の時だった。
そんな中で、映画を見た。


小学四年生、不登校にもまだなれていない頃だ。
バイキン扱いをされるようになっていた。
何かを触ると、「感染する」「汚れた」なんて言われて避けられる。
そう思うなら関わらなければいいのに、
幼い邪悪さはあえて触って、ギャーギャーいうことを楽しむ。

わたしは小さい頃から、アトピー性皮膚炎を持っていた。
赤ちゃんの時の写真は少ない。
赤く爛れて、血に塗れていたらしい。
小さい子供は掻くのを止めることはできない。
残っているわたしの写真は、とても可愛い。
母が本当に頑張って治してくれたからだ。
それでも、今も顔は真っ赤になるし、腕などもひどい時期もある。
汗をかくと一瞬で痒くなってしまい、どうにも我慢ができない。
それでも、ちゃんと人間の皮膚に戻れたのは母のおかげだった。

だけど、そんなことは小学生にはわからない。

「アトロピー」「アトロピー」と
揶揄される。

それが本当に嫌だった。
なぜ、「アトピー」と言わないのだろう?
それはいつまで経ってもわからない。
だけど、「アトピー」と言われるより「アトロピー」と言われる方が嫌だった。
何かものすごく嫌なことを言われている気がした。
それは、日本人を「Jap」と言ったりするのと同じだったのかもしれない。
あえて別の言葉を使うことで貶めようとしている。
小学一年生からそんなことを考えつくなんて、本当にすごい。
人間の本質の中に、差別意識は統一された基礎があるのかもしれない。

もちろん、アトピーは感染しない。

音楽室では席替えが行われた。
わたしの隣になると男子達がギャーギャーと奇怪な声をだすようになった。
黒板とピアノが前にあり、半円状に三列、椅子が並んでいた。
一番後ろの右端になった時に弾けるように何かが起こった。

それをわたしは思い出せない。

わたしが怒って椅子を倒したのか、
それとも、男子達が椅子を投げたのか。

何かがあった。
いつものようにバイキン扱いをされて、
悲鳴が上がった気がする。

その後に、わたしは学校に通えなくなった。
毎日嫌で、辛くて、休んで、次の日は無理やり行って、
「ズル休み」などと罵られ、無視されたり、過剰に反応されたりして、
保健室に逃げ込んだ。

完全な不登校になるには時間がかかった。
母達も通って欲しがったし、先生達も不登校という事実を作りたくなかったから。

毎日、休む連絡をして連絡帳を同級生のAに託していた。
そして、それをAが学校終わりに持ってきてくれる。
わたしたちはそれも苦痛だった。
母は毎日連絡をすることが、わたしはAが来ることが。
「もう行かない」と伝えてもなお、毎日、先生から使者としてAは送られてくる。
その中には「明日は来てね」なんて書かれたプリントが入っている。
毎日毎日、それをやらされていたAはキレた。
もう嫌だって、キレた。

そりゃそうだ。
しかし、その怒りはわたしに向けられてしまう。
先生の偽善でしかないのに、わたしたちに向いてしまう。

それでより一層追い詰められたわたしは、
ぼーっと布団で眠っている時に天井にある服をかける棒を見て
「ああ、あそこにロープをくくったら死ねるかな」
と考えた。

「死ね死ね言ってくるんだから、本当に死んだら自分が悪かったって思うかな」

よくある思考がわたしに渦巻いていた。

その日も学校を休んだ。
母は「映画を見に行こう」と言った。

一本目は『ツレがうつになりまして。』だった。
堺雅人演じる夫(ツレ)が鬱になって、仕事を辞めて、宮崎あおい演じる漫画家と共に戦うエッセイをもとに作られた映画だ。
ツレは、自殺をしようとする。
喧嘩をしてしまった時に。
主人公はそれに焦って泣きながらロープを外し、二人で泣く。

二本目は『ヒミズ』だった。
内容はあまり覚えていない。
染谷将太演じる主人公が父親を殺したんだったと思う。
わたしが覚えているのはただ一つ。

ヒロインが家に帰ると両親に
自殺のための首吊りマシーンをつくられていた。
「あなたは死ぬのよ」と嬉しそうに笑っていた。
そのシーンが怖くて、脳裏に焼きついた。

映画を見た後にショッピングモールを歩いている景色をやけに覚えている。
平日の2時ぐらい、人の少ない空間。
オレンジ色の床に黄色い線が描かれている。
母は前を歩いていて、わたしはその後ろをついていく。
休日のショッピングモールでは想像もできないほど、静かな時間だった。

死ねないな、そう思った。

わたしは、死ぬほどの勇気がない。

死んだって、どうせどうにもならない。

ただ、前を歩く母がひどく悲しんでしまうだけだ。
家族が壊れてしまう。
そう思った。

母のことも大好きだった。
兄のことも。
父のことはあんまりわからない。

それでも、わたしは愛されていた。

わたしを愛する人たちを、
わたしを嫌う人たちのために悲しませるほど、
わたしは追い詰められていない。

逃げる方が正義だ。
無意味だと思った。

死ぬことは、怖い。
鮮明に怖い。

どうしてあの時、母はわたしとともに『ヒミズ』を見たのだろう。
どうしてあの映画達を選んだのだろう。

トラウマになった。
明確なトラウマとして、存在する。
教育上、絶対に良くなかったと思う。
何かが歪んだと思った。

だけど、その毒はわたしに生存本能を刺激し、生き延びることを選ばせた。

きっと、母はそのことを知らない。
知らなくていい。

その後、「絶対に学校には戻らない」と宣言したわたしに折れた教師は、
適応指導教室のことをやっと明かした。
手に入れた情報に喜ぶとともに、内緒にされていたんだと怒りも少しあった。

適応指導教室に通えば、出席したことになる。
そして、勉強を少しずつ教えてくれる人もいる。
基本は自学自習だが、教育大学の学生が支援できてくれたりもする。

それでも、わたしは生き延びた。

今に至るまでに「ああ、あの時死んでおけばよかったのに」と何度も思ったことがある。大量にある。
それぐらい、わたしの中でいちばん死と近かった瞬間だったのだろう。

死んでいたら、こんな苦しみなかったのに。
そんな出来事ばかりの人生を、今後もずっと生きていくのだろうな。

小学5年生になり、通えるようになったけれど、私は二度と音楽室に踏み入れられなかった。

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