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『アウシュヴィッツのチャンピオン』 収容所を舞台にした物語は数多いが、どうして本作にこれほど胸掴まれたのか自分でもまだよくわからない

もう10年以上前になるだろうか。アウシュヴィッツ収容所を訪れた際、今なお「Albeit Macht Frei(働けば自由になる)」の文言を掲げ続ける門をくぐり抜けた時の、あの表現しようのない気持ちは忘れることができない。『アウシュヴィッツのチャンピオン』はその門がまさに設置された当初、この収容所の開設期の物語だ。この門をくぐれば、遺体焼却炉から立ち上る煙か灰にならなければ、もはや外に出ることは不可能ーーーよく聞かれる言葉だが、本作でたびたび映し出される雪のように白い粉が舞う場面は、これと呼応するものと言える(亡くなった者を夜空の星になぞらえる場面もある)。一見すると何の捻りもないそのままの表現にも思えるが、本編中にこれが何度か繰り返されることで、観る者の心に彼らの生きた証が降り積もってくるかのようだ。

『アウシュヴィッツのチャンピオン』は優れたボクシング選手だった男がこの収容所で看守たちの余興にも等しいリングに立つことになる物語。実話がベースになっているという。無敗で勝ち続け、仲間たちに報酬のパンや医薬品を配り続ける主人公は、いわば地獄の中における英雄である。しかしもちろんそれだけでは終わらない。90分ほどのこの映画の中で刻々と状況は移ろい、主人公の中での「戦う理由」もまた非常に切実なものへと変わっていく。

主人公は序盤、収容所の中で一人の青年と出会う。青年は他の者にスープを奪われ、手にした食物もとっさに他人へあげてしまう。「どうして人に譲るのか?なぜ自分が生きることを考えない?」と問いただすも、青年は何も答えることができない。かと思えば、銃殺の危機に直面した時、ふと詩の一節をそらんじてみせる機転も持ち合わせている。本作には途中で「天使」という要素が何度も登場するが、後から考えると主人公にとってこの青年は、まさにこの天使に近い存在なのかも知れない。

アウシュヴィッツやビルケナウ収容所を舞台にした映画は数多い。実話をベースにしながら、それを90分の物語にするために大きく脚色が施されている点も多少頭に入れておかねばならないだろう。それでもなお私が本作に引きこまれる理由は何なのか。後から思い返すと、多くの映画が何かを伝えようと、描くこと、足すことばかりに心を尽くす中、本作は逆に多くの余分なものを削ぎ落としていたことに気づく。引いた上で残ったものを確実に伝える。はたまた省略して観客の想像力に委ねる。そういった信頼関係がどこか機能しているように感じた。

その理由として、我々は気付けば主人公の過去も、青年の過去もほとんど何も知らないし、彼らはベラベラと語ったりもしない。誰も現在を生きることだけに必死なのだ。その状況の中でリング上では肉体や拳の白熱したぶつかり合いが描かれ、なおかつ、場面が変わると前述のように、人間の肉体が煙や灰となったかのようなイメージが繰り返される。この対比。そこで主人公は戦う意味を静かに握りしめるーーー多くを語らず、わずかな研ぎ澄まされた身の動きで観客の心を最大限に突き動かしてくれる何かが本作にはあるのだと思う。

*写真は、筆者がアウシュヴィッツ収容所(オシフェンチウム博物館)を訪れた時のもの。


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