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虐待から母親を守るためにーーールポ「虐待―大阪二児置き去り死事件」をよむ

〇虐待の意味の変化


 虐待が医学の守備範囲だと知ったのは、医学部に入ってからだ。

 犯罪心理学という言葉をニュースで耳にするくらいで、そんな学問領域があるのかと完全に別物であるかのような理解をしていた。精神科の授業の中で虐待を取り巻く精神治療に関する話が出てきてからはじめて虐待について考えた。研修医で小児科を回ったときには、子供を診察するときに服を脱がせるのは虐待を見つけることも目的に入ると言われて唾をのんだ。

 これまで見てきたものは、報道の枠組みのなかでしか語られていないものでコメンテーターの「母親が悪い」といったセリフに妙に納得する空気を生み、誰かに事件の責任を還元することが前提での文脈でとらえているものばかりであった。

 公衆衛生を勉強し、社会経済的要因や社会関係資本に関しての知識が高まるにつれて、虐待や犯罪を起こしてしまう原因に社会的な力が影響することを科学的に検証した論文に出会う機会が増えた。責任とはいったい?という気持ちになりながらも、その複雑な問いの立て方も分からずに虐待について考えることをやめてしまっていた。


〇本屋での出会い

 今回、本屋でふとこのタイトルと帯が目に入り、ずっと眠らせていたものを見つけたかのようにこの本を読んだ。帯は、森達也さん、水無田気流さん、國分功一郎さんと有名な名前が並ぶ。


〇当事者性の欠如


 読み終えて思うが、この本が指摘しているのは虐待にまつわる「当事者性の欠如」と「おさまりのない責任感」である。

 ストーリーを読みながら、登場人物が多すぎることに気が付く。家系図でもつけてくれればよかったのではないかと言うほどに色んな人が登場してくる。しかも、それはいろんな場面での切り替えの中で次々に受けてが、変わる中での変更である。場面展開を回想する本人の発言と、それにかかわっていた人の発言が食い違う。食い違うのは、話の詳細や出来事に関する事ではない。話をすすめていく前提が大きく違っているのである。母親が何を考えているのかを問う人が登場しているが、その発言をみて、その発言内容をそのまま捉えている場面に溢れている。

 社会関係資本の文脈では、多くの人とのかかわりを意味すること(これは質的にも量的にも)を示している。実際に母親のまわりには、これだけの人が存在していたのである。

 質はともかく、量は十分なのではないかと思うほどである。

 これだけ存在していた人が、様々な場面で手を差し伸べようとしていた。でも、それは届かなかった。そこにあらゆる文脈は共有しているととれる。

 そして、ルポルタージュの中では、事件後に「なにかできなかったのか」という言葉で、みんな内省している。

〇子育てするのは親であるという空気

 所々に出てくるのが、「子育てをするのは母親である」という無意識な前提である。そうでないという考え方の人もいたのかもしれないが、やはり元夫の実家家族をはじめそのように考えている人がいる。本人は全く気が付いていないと思うが、本の中で児童相談所に苦情の電話をいれた人々もそうだ。子供を育てるのは母親、会社で稼ぐのは父親という高度成長期の価値観・美化された家族像をずっと引きずっているひとたちがたくさん登場する。

 自分たちの子育てはうまくいっていると思っている人たちは、その方法を無条件にいいものとして母親におしつける。時代が違うという反論は許されない。だって子育てに言い訳は聞かないのだという。子育てで手伝ってもあったことを当の本人は忘れているのだろうか。いや、知らないのだろうか。

 こどもを育てるのは地域や共同体である。元気な子供が成長することは共同体全体にとって重要なことである狩猟生活の時代では当然のことという価値観だった。それは眼に見えていたからだろうか。子供が成長する→狩りにでる→飢えがなくなる。誰かの成功は全体の利益だと分かりやすい社会システムになっていたのだ。

 今は、それがわからない。少子化で子供が減っても困らない。明らかに共同体としては損失がたくさん出ているにもかかわらず、税金が増えたGDPが減ったと自分とは関係ない数値に問題は吸収されていく。まったくもってシステムが大きすぎて問題が見えないのである。見えたときにはもう遅い。

 この事件がそれを物語っている。こんな中で、子供は社会で育てようという気持ちは醸成されない。だって認識できないのだから。それよりも目先の育児にかかる費用やキャリアの離脱、わかりあえない嫁姑問題など実感できるコストにまみれている。

 1人の人間にできることは進化していないにもかかわらず、周囲からのサポートは減っていく。子育てに関するトラブルは児童相談所に連絡しておけばそれでよい。むしろ面倒なことには関わりたくないと思う。時間を奪われる。価値観を押し付けられる。損をするなら、見て見ないふりをしよう。そんな空気が流れている。

 当事者としての自分を失っていることに気が付いていない人が何かあれば母親を批判する。自分はいろんなひとに育てられてきたのであろうという想像力は欠如している。

〇おさまりのない責任感

 二つ目に共通するテーマは、「おさまりのない責任感」である。母親は、自分の親からあけられた心の穴を抱きながら、子育てをしていく。自分の子供を見る目は、自分自身を見る目と同化していく。自分の幼少期のさみしさを子供に与えたくないという緊張感がさらに自分自身を追い詰めていく。

 子育てが上手くいっていない自分はただの敗北であり、親から愛されなかった自分を根本から否定することになる。そう思い込んでいる母親が街には溢れている。そして、それは眼に見えない。

 虐待をした母親は、社会が醸成している「子供は母親が育てるものだという空気」に自分自身が巻き込まれていることを自覚しない。むしろそこに正義感を持って養育している。でも、社会構造的に上手くいかない。正義感に従って自分から苦しい状態を選ぶ。

 それを周りは表面的に捉えて、がんばっていると美化していく。それを美化している周囲の人間は、その美化による緊張の増幅に寄与していることをまったく自覚できていない。

 母親は目下の生活を営む中で、性の商品化や非正規雇用の増加など日本社会の変化に大きく飲み込まれていく。どんなに努力していても、わらをもすがる思いであっても、すべて空振りに終わる。悪循環を断つことができない状況や、その状況自体を悪循環であると思っていないとともにこの問題は我々の日常に潜んでいる。

 「おさまりのない責任感」は母親に向けられて、机上の空論と化す。責任とれるのか?という言葉は、自分に向けられていることを自身は理解せずに使用している。

〇虐待を再考する

 虐待は闇が深い。全員が自分のことだと思っていないことにその恐ろしさの本質がある。資本主義の中心性に醸成されていた価値感に異を唱える中で、あらたな共同体の価値造成を見なければならないと思う。

 虐待にかんする意図的な殺意があったかという問題で、精神分析の結果、責任能力ありとされた診断が重視され、懲役30年という罪になっている。この罪が社会に認知されれば、果たして虐待は減るのか?甚だ疑問である。

〇虐待から母親を守るために

 得をする・損をするということの実体化を呼ぶ仕組みを考える必要があるだろう。子供を地域が育てることがいかに自己利益につながるか?ということを体感する仕組みが社会にできなければ、自分以外の子供を自分の子供のようにして育てようという気持ちにはならない。

 自己利益を最大化することが板につきすぎた大人たちは、どこまでもブレーキが利かない。どこかにぶつかったら、相手のせいだという。いつかその口が閉ざされてしまうほどの事故が“自分に”ふりかかってくると思わない。

 社会のつながりを改めてデザインする場はここでも重要となってくるのだろう。社会的処方箋の取り組みは社会とのつながりがない高齢者を対象としたものに限らず、虐待の問題をも取り込んでくれるのではないだろうか。そこに現れた人がもし悪いやつだったらだれが責任をとってくれるんだ!と言う人を救うための場を町に生み出していく必要があるのだと思う。それは、地域のお祭りや学校のイベント、趣味の場として発揮される。母親にとっての癒しや力の抜きどころを社会が受け止められるようなシステムを考えなければいけないのだろう。

 ただ、社会階層によって経済的な余裕のある家と貧困家庭が同居する空間で果たして、その協力体制が生まれるかどうかははなはだ疑問である。格差社会がもたらす、分断の被害者を子供にすることで成り立つシステムの出口を見つけるのは難しい。

 自分に近しい人が自分よりも得をしている状態に会うととてもうらやましいと思う。それを相対的剥奪と呼んで取り扱っているが、コミュニティーが仲良くなり、相対的剥奪がうまれればその継続性が危ぶまれる中にある現実を理解しておかなければならない。

〇この本への批判

 唯一、大きな指摘があるかと問われれば、以下を挙げたい。その判断のプロセスに関して、殺意なしと判断した側は、精神鑑定のプロだという記述があるが、精神判定をした人がどんな人かという記述は余計だと思う。事件検証にどのような精神病理があったかだけに注目すればよい。

 これは、ルポルタージュの中で同意することができない点である。事実に敬意をもって記述していく姿勢を肩書を重視する語り部で誠実さは損なわれると思う。確かに、症例数や経験は重要であるがそれを記述する姿勢は別の話としてとらえる必要があるだろう。

〇まとめ

 上記に見てきたルポの根本に2つの問題が存在する。「当事者性の欠如」と「おさまりのない責任感」が補い合うようにしてその悪魔を膨張させる。

 ついには虐待を引き起こす。その現実をしっかりと理解した上で、この本の読者全員が、この問題を自覚しない限り、留まることを知らない悪魔は、目に見えないところで天使である子供たちを苦しめ続ける。

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