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Twitterのリツイートは”悪の凡庸さ”をより強化したのか。疑似科学と科学のあいだで。

難しい。科学だと思っていたことがフェイクであったり、きわものだと思っていたものが本当だったりする事例をたくさん経験してきた。

でも

経験から何かを判断することは間違いを誘発しうる。

目の前で起こったことは激しくバイアスの問題を投げかけてくる。

眼に見たものだけを信じていたら、間違えなくていいところで間違えてしまう。

疑似科学(科学の顔をした偽物:フェイクや陰謀論の類)と科学の境界線はこれまで歴史的にいろんな人が論じてきている。

反証可能な命題を取り扱うものが科学であるという認識がある。※1

すなわち、聞いた人が検証できるものを取り扱っているのが科学である。

科学論文の多くは、方法を記載している。どの集団にいつ何をしてどうだったか。というものである。それを明確にしているからこそ、あとでそれを正しいものであるかを検証することができる。

でも、疑似科学は、「それを疑っているものがいると力を発揮できない」という発言をするというのだ。

私は疑似科学を完全には否定しない。しかし、この問題は解決しなければならない社会課題であると思っている。

悪意をもってして私利私欲のために誰かを気づ付けようとする姿勢や何かを売りつけようとする姿勢は批判されやすい。しかし、本当に気を付けなければならないのはフェイクニュースのリツイートなど無自覚なものである。

ハンナ・アーレントは悪の凡庸さという言葉をみつけた。※2

悪とは、無自覚なのものである。

ユダヤ人を惨殺したナチス党員は、自分がやっている行為な何を示すのか無自覚であった。大衆がやっているという理由で、人類史上もっとも人道に反する行為が完成した。

歴史的にみると、世界の様々なユダヤ人迫害はフェイクニュースが起点となっている。ペストが流行したときも、ユダヤ人入浴する習慣を持っていてそれが、感染予防に寄与していたことをわからずに、ユダヤ人の仕業であるという思想が流通し、ユダヤ人は各地で殺されている。※3

フェイクニュースは拡散されやすい

SNSにおけるリツイートが悪の凡庸さをより凡庸にした。

本当に気を付けなければならないと思う。

反証可能であることを条件に情報を出し続けなければならない。

反証可能であるということはその情報リソースを示すことである。

もしくは、斡旋的な記述を避けることも有効だろう。

そんなことをトレンドを見ながら考えている。今年も勉強しよう。


※1 科学哲学の冒険 サイエンスの目的と方法をさぐる (NHKブックス) 戸田山 和久(著)

※2 エルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告【新版】ハンナ・アーレント(著)

※3 パンデミックを生き抜く 中世ペストに学ぶ新型コロナ対策 (朝日新書) 濱田 篤郞 (著)



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