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着替えのときに気まずかった記憶


性自認の話をしています

自分の性別違和(というよりは自分の身体が女らしくなっていくのが嫌だった)時期の最盛期が中学生の頃なのだが、その頃は着替えの時間が苦痛だった。

女体が、すぐそばにあるのだ。

女体にょたい」と言うと途端に気持ち悪さが高くなるのだが、当時の自分はこれぐらいの下心を持っていた。
体操着を着る体育でも女性の下着を見ないようにしているのに、水泳の時間はそこかしこに全裸がいる。目のやり場に困るどころではなく、仕方ないから肌が触れ合ってもなにも考えないように心を無にしていた。自分の中学校は、更衣室がびっくりするほど狭かった。
男子と混じって着替えたかったが、そんなことできるわけもなく、仮に奇跡的に混じれたとしても奇異の視線を向けられたことだろう。先生に合理的配慮を申し出る勇気もなかった。
「自分は女でも男でもない」と、異端であることの自己申告などしたくなかった。時が経てばホルモンバランスが整って性自認が女になると信じていた。中学卒業まで整うことはなかったが。

高校生にもなれば、少し慣れてきた。好きになる対象が着替えていても、その光景が当たり前になり、ドギマギすることもなくなってきた。日焼け止めの匂いも、「女の子の匂い」ではなくただの日焼け止めだと認識するようになったし、なめらかな肌も、「女の子の肌」ではなくケアを頑張っている人なんだなと思うようになれば、女性特有の魅力ではないと思うようになった。

「紳士は自分の性別を利用して邪な気持ちを昇華させたりしない。俺は紳士になるんだ、そしてモテるんだ」と体育があるたびに言い聞かせていた。自分の性別を利用していい思いをしようとする人もいるのだろう。しかし、それは卑怯だ。見られている女性の気持ちを慮れば、そんな卑怯なことできるはずがない。
クラスメイトの着替えの場に居ることと、自分の「普通でいたい」「排斥されたくない」気持ちとの折衷案が、気まずい思いをしながら着替えることだった。クラスメイトの着替えを邪な気持ちで見ることはなかったので許してほしい。あの時は存在していてすみませんでした。

成人した今日では、自分の身体が女性であることや、思考や行動で女性的なところがあるが性別が女性だと言われたくはない面倒くさいところがあるところに納得している。結局のところ、好きになる対象が女性であるだけなのだ。性自認がどうとかではなかった、思考が幼かっただけだった。今なら知識があるから、それなりに落ち着いて考えることができる。

中学の頃は下着を見るのも恥ずかしかったな。ランエリーショップなんて誰かと一緒じゃないと入れなかったもんな。あの頃は、ランジェリーが女性の象徴だと思っていた。もちろんそんなわけはない。可愛い服を買うのと同じ思考なのだ、あれは。ブラジャーに魅力があるのではなくて、自分の好きになる人にたまたまブラジャーを付けている人が多いだけなのだ。そして、自分も買うなら可愛いものを買いたいと思うようになった。そうなってからは、一人でランジェリーショップへ入れるようになった。知識と思考の持ちようで衝動は抑えられ、自分の本当の気持ちが見えてくる。

答えが出ない時期というのは本当につらくて、今もつらいけど、自分の言葉で自分の気持ちを表されるようになるまでは、曖昧にしておいたほうが良いこともあるんだと思う。とにかく中学の頃は着替えがつらかった。

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