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【短編小説】蝶の舞う場所


「あちらのお客様からです」
清潔感溢れる真っ白いシャツに
黒のベストを着たバーテンダーが
カウンターにウイスキーグラスを差し出した。

頬杖を外して目の前のグラスを見やると、
そこにはウイスキーの海に浮かぶ
オレンジにチェリー、レモンピールが
短いステンレスで串刺しにされている。


はぁ、今日くらいは勘弁してよ。
今から初対面の気取ったナンパ男に
失恋話をしおらしく話す気にはなれない。
第一、あの夜11時を過ぎたころから
一挙手一投足の至る所から醸し出される
下心という名の気色悪い香りの香水を
浴びせられるのはごめんだ。

ため息半分に、右方に首を回すと
そこには白のタイトワンピースを身に纏い
スパンコールのネイルを輝かせながら
こちらに向かって丁寧に会釈する
ガタイの良い男性が一人、座っていた。

蝶が大きな羽を地面にそっと休めるように
彼のつけまつげが目尻と延長線上に並んだ時、
真っ赤な唇の左側だけクイっと上がった。

瞬時に脳内に集結した視覚情報が
思考の整理を妨げているところ、
新たな聴覚情報が飛び込んできた。

「えらいべっぴんさんが一人で飲んではったから」
落ち着いたトーンのしゃがれ声が
こちらに向かって話しかけている。
「よかったら、あたしと飲まへん?」

私が目をぱちくりしながら小さく頷くと
彼女は席を一つ空け、右隣に座ってきた。
白のワンピースが椅子に触れる時、
ローズのエレガントな香りが鼻に心地よく届いたので
例の不快な香りを嗅ぎ分ける私のセンサーは
一旦スイッチを切ることにした。

「それ、オールドファッションドっていうカクテルよ。
お姉さん、ウイスキーは飲める口?」
「好きです、ウイスキー」
「よかった」

そう言って彼女は安心したように微笑み、
自分のウイスキーを口元に運んだので、
私もありがたくいただくことにした。
メーカーズマークに特有の
華やかな香りとまろやかな味わいに
砂糖や果汁の甘みが口の中に優しく広がった。


「ここにはよく来るの?」
「そうですね。
飲まんとやってられない時、一人で来ます」
「あらあら、そんな日にご一緒できて光栄やわ」
彼女は親指と中指でナッツを摘まみながら尋ねた。
「それで?
今日お姉さんが一人でウイスキーを煽ってる理由
聞いちゃってもいいやつ?」
「聞いてくれます?」
「もちろんよ」
彼女はタイトなミニスカートを気遣いながら
身体をこちら側に少しひねった。

「これ、ほんとに嫌味じゃないんですけどね」
「うん、なによ?」
「私、美人ってよく言われるんですよ」
「あらやだ、めちゃくちゃ嫌味やないの」
彼女は手で口を隠しながら少し笑い、
その手で今度はグラスを撫でた。
「まあええわ、続けて続けて。
美人の不幸話ほどお酒が進むものはないわ」

黄金色の小さな海に溺れた
チェリーの救出を試みながら
私はうつむぎがちに話し始めた。

「男の人はね、みんな私のことを
キーホルダーにして街を歩きたがるんですよ。
綺麗な洋服着て、綺麗に化粧をして
綺麗な顔して笑うだけのキーホルダー。
結局みんなね、私っていう人間が入ってる
外側の華やかなグラスにばっかり興味津々で
肝心の中身の味は誰も知ろうとしてくれない」
彼女は何も言わず深く頷いている。

「それでね、
中身空っぽの美人なんかじゃないって
証明したくて必死に勉強して、
国立大学行って大手に就職したんですよ。
お金と時間はとにかく
内面磨きに注いできたんです私」
尚も彼女は何も言わず、
手元のグラスを見つめながら深く頷いている。

「それなのに…それなのに…
今日別れた男なんて、何て言うたと思います?」
眉を垂らしながら困ったように微笑む彼女は
そっと目を閉じながら首を横に振った。
「女の子なんやから、本なんか買ってんと
もっと服とか美容とかにお金かけたらええやん、
やって。
今まで少しずつ丁寧に注いできた
グラスの中身を片手でひょいって持ち上げて
逆さまにドバドバ捨てられたみたいな気分」


下手な合いの手ひとつ打たず
静かに話を聞き終えた彼女がやっと口を開いた。

「なるほど。ほんなら今日もドリンクが届いた時
その手の男やと思って絶望したんちゃう?」
「ええ、まあ結局は自意識過剰でしたけど」
彼女は豪快に笑って見せた。

「そういう男たちはな、
女性っていう生き物がどうして美しいのか
まだ分かってへんのよ」
「ですよねですよね、ほんま何も分かってへん」
ゆっくりと話し出した彼女が次に続ける言葉に
期待を膨らませながら私は待った。

「あたしはな、見ての通りこんな見た目やろ。
だからある意味、お姉さんと同じように
よう目立つ外側のグラスで判断される。
どんだけ魅力的なドリンクを作って待ったところで
バケモンのグラスには誰も
口さえつけてくれへんのやけどね」

そう言いながら彼女は切なく笑った。
その笑顔が悲しくて美しくて
彼女の瞼に宿る艶やかな蝶から目を離せなかった。


「劣等感とか悲しみとか絶望とか
そういうものが積み重なる日々の中で
美しくあろうとする生き物なのよ、
女性っていうのは」
この時、彼女の真摯で力強い瞳を初めて見た。

「陽気な女がグラスを煽る横顔より、
悲しんでいる女がグラスを煽る横顔の方が
よっぽど美しい理由は、
そういうことやと私思うんよ」
私をそっと包みこむ彼女の言葉が
じわりじわりと胸の中に沁みわたっていく。

「積み上げてきた知性や品性は
一生あなたを美しく輝かせてくれる。
男のために自分を下げたらあかんよ。
高い所で舞い続ける、気高い蝶で居続けるんよ」
私はぎゅっと唇を噛み、こみ上げるものを抑えた。


「お姉さんはやっぱりべっぴんさんよ」
尚も彼女を見つめながら私は返した。
「まだまだ、お姉さんには敵いません」

「楽しい時間をありがとう、ほんならね」
彼女はそう言って、重たいドアを押し開け
ハイヒールをカツカツと鳴らしながら
夜のネオンへと消えていった。


一人カウンターでグラスを飲み干し席を立った私に
バーテンダーが話しかけてきた。
「オールドファッションド、お口に合いました?」
「ええ、とっても」
「カクテル言葉は『我が道を行く』です」

彼女が座っていた椅子の背もたれを
私はそっと撫でてみた。
エレガントなローズの香りがまだ少し残っていた。


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