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私は、自己承認欲求の塊なので。

892人。これは、私のSNSの総フォロワー数。
Instagram、Twitter、Filmarks、note等
あらゆるSNSに私のフォロワーがいる。
私は有名人でもなんでもなくて、
ただの大阪在住のOL。
そんなただの一個人の私の自己表現は、
892人の人たちに届く。
892人の人たちに晒される。

SNS上に個人がアカウントを持ち、
写真や絵や映像、言葉など様々な表現を
世の中に対して自由に放てる時代。
あくまで一自己表現の場であったはずのSNSも
「いいねボタン」の存在により、
そこは称賛や共感を求める
自己承認欲求に溢れた空間になっている。

こと私も、自己承認欲求の塊だと自負している。
誰かに共感してほしくて称賛が欲しくて
今日もこうしてnoteに言葉を綴る。
noteを始めて4か月、これで20投稿目になる。
投稿ボタンを押すときは毎回ドキドキする。

表現者というのは常に、
自分が生み出した作品への
他者の評価に怯えながら生き、
それでもまた表現し続けるという宿命がある。

この表現はまっすぐ人の心に届くのか?
意図せず誰かを傷付けてしまわないか?
世間知らず、イタいと馬鹿にされはしないか?

おそらくこれらの懸念はすべて、
既に発生してしまっている。
どんな天才の作品においても例外は無いと思う。
万人に愛されるものなど存在しない。

母の影響でなぜか好きになった尾崎豊。
彼も同じような不安と戦っていたようだ。
彼の死後に公開された
ドキュメンタリーで観たワンシーン。
当時若者のカリスマ的存在だった尾崎は
最高のパフォーマンスで観客を沸かせ、
ライブ終了後の楽屋で大人たちも彼を褒め称える。
しかし尾崎は独り

「俺の想い、ちゃんとみんなに届いてんのかなぁ」

高ぶる興奮の合間に、
不安そうな声を漏らしていた。

彼の死の真相は私には分からない。
しかし少なからず、
自己の表現が世の中にどう届いているのか
その計り知れない恐怖と戦い続け、
自己を保てなくなったのだと私は思っている。

私は尾崎豊のように、
広く世に愛される作品などまだ生み出していない。
素人がプロのまねごとをしているレベル。
しかし私も、小さな一表現者として
「認められない」恐怖と戦いながら書いている。

先日、私の書いた文章を
友達の友達が読んでくれたらしい。
初対面のその人にこんなことを言われた。
「なぁなぁ、なんでこんなの書いてんの?(笑)
書いたやつ声に出して読んでみてや、ほらほら(笑)」

顔がかーっと熱くなって、
「いや、恥ずかしいしやめてよ~」と
ヘラヘラ笑って返した私。

あぁ、これが世の中の声の一つなんだなと知った。
この先私が書き続けて、
私の書いた文章が多くの人に届けば届くほど
多くの人の批判や嘲笑が耳に入るのだと感じた。
ビビりで気にしいの私は、正直怖いと思った。

本気でプロになりたいなら、
批判も受け止める覚悟が必要らしい。

それでも私は今日も書いている。
批判以上の承認が欲しくて書いている。
今はとにかく書いている時間が大好きで
まだまだ辞めたくないから。これからだから。

昔は、一つの自作エッセイを
世の中の人たちに読んでほしければ
雑誌編集社や新聞社に何通も作品を送り続け
そこで編集者の目に止まり
それが出版されて初めて
世の中の目に触れる作品になる時代。

今は、こうして一個人がSNSアカウントを持ち
自分の表現や作品が
こんなにも意図も簡単に世に届けられる。
こんな時代なんだから、
表現をしない言い訳を見つける方が難しい。

私はこれからも、このSNS社会に怯えながらも
最大限の恩恵を受けて、表現し続けたい。

さて、あとボタン一つで私の作品が世に届く。
誰の心にどんな風に届くのか、
ドキドキしながらボタンを押す。

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