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冷やし中華

子どものころ、夏、家のお昼に冷やし中華がよく出てきました。市場(いちば)で売っていたものです。簡素な透明パックに、ゆでた麺、細切りの薄焼き卵ときゅうり。小袋に入った、酢醤油のたれとマヨネーズ。

当時、市場はまだ、街のあちこちに残っていました。家からバスで10分ほど乗っていくと、スーパーや映画館や飲食店の集まった賑やかな地域があり、その一角にあった市場に、冷やし中華を売る店はありました。

市場は、表通りから少し西に入った2階建ての建物の1階でした。建物の2階は成人映画を上映していて、市場の入口、2階に上がる階段の前にポスターが出ていました。私は時々、祖母や母に連れられてこの市場に行きましたが、幼かったわたしはそのポスターの意味は分かりませんでした。ただ、自分が何か衝撃を受けながらそのポスターの前に佇んでいた記憶が残っています。

市場の西北角が、冷やし中華を売る店でした。といっても冷やし中華が積まれていたのは店の端で、メインの商品はうどんやそばやラーメンの生麺でした。店主の前に、ガラスのふたがついた平たい大きな箱がいくつか並び、お客が注文すると、店主は箱のふたをガタリと開け、一玉ずつまとめられた麺を取り出します。店にはカウンターもあって、調理された麺類を食べることもできました。

店の片隅で売っていたこの冷やし中華ですが、とても美味しかったのです。たれとマヨネーズの混ざりきっていない、濃淡のある茶色の液体が絡んだ麺を口いっぱいに頬張ると、幸福感で満たされました。酢醤油だれの醤油辛さと酸っぱさ、少しの甘さがマヨネーズで丁度良い塩梅にまとまり、それによって麺の断面からあふれ出る質の良い小麦の香りと味を感じることができたのだと思います。そして、たれの絡んだ麺のところどころに、薄焼き卵のやさしい食感と甘さ、きゅうりの青いにおい。具はシンプルですが、それ以上はあの冷やし中華には不必要でした。

良い記憶はより美化されるのでしょうか。それでも、冷やし中華の美味しさは麺とたれで決まるという思いは変わりません。そしてあの味を思い出そうとするたび、市場の2階へと導く、少しカーブのかかった、絨毯敷きの薄暗い階段が目に浮かんできます。


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