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永井玲衣 「 哲学対話と場の安全性」

「哲学」というと一見して、なんだかとっつきづらい大変なものというイメージがあります。しかし、鷲田清一によれば、哲学とは、なにも専門書を長い時間を掛けて読解するようなものだけではなく、「問う」という作業それ自体ことでもあるといいます。

そういった「問う」という作業にフォーカスを当てて、哲学を身近にしようとする営みに、「哲学対話」というものがあります。
今回は、この哲学対話について研究を行っている哲学者の永井玲衣さんに、哲学対話について、そして哲学の営みをセラピーの場面に接続しようとする「哲学カウンセリング」という営みについて解説をしていただきます。

「哲学とカウンセリングってどうかかわるの?」
そんなふうに疑問に思ったもいらっしゃるかもしれません。
以降では、その疑問を少しずつ解きほぐしていきます。


哲学対話とは何か

 近年急速な広がりを見せている「哲学対話」。喫茶店で見知らぬひとたちと集まり、まるでおしゃべりをするかのように気軽に哲学をする「哲学カフェ」や、学校で子どもたちと哲学的なテーマについて対話をする「子どもの哲学(philosophy for children / p4c)」、クライエントの「哲学的な悩み」を対話的に掘り下げていく「哲学カウンセリング(哲学相談)」などが含まれます。海外では「哲学プラクティス」と称されることもありますが、哲学的な対話を行うことを日本では「哲学対話」と呼んでいます。


そもそも哲学って?

哲学とは問いを見つけることである。問いを育てるものである。問いを表現するものである。いいかえると、あまりにあたりまえすぎてこれまで問われもしなかった前提、つまりは経験の初期設定から、そこにあるベーシックな思い込み(アサンプション)を一つひとつ発見し、それをいったん取り外して問い直すことである。それが壊れる怖さに怯えつつ、抗いつつ。」

鷲田清一『こどものてつがく ケアと幸せのための対話』

 そもそも哲学とは何か、という問いに対してはさまざまな答えがありえます。ですが「哲学プラクティス」をいち早く日本に導入した大阪大学の臨床哲学研究室の鷲田清一さんの哲学の定義が、哲学対話について理解するうえで最も役に立つかと思われます。前提を問い直し、思い込みを発見、そして問い直すことを哲学と呼び、それをひとびとと共に対話的に行うのが「哲学対話」です。

哲学と対話の必要性

 ではなぜ哲学が必要かと考えられるのでしょうか。一つには、わたしたちは思い込みやあたりまえがこびりつき、固まっている状態であるということがいえそうです。あたりまえが増えると生活はスムーズにはなりますが、疑問をもち、立ち止まって考えることは減っていきます。学校でも職場でも、当たり前を強制され、むしろ苦しくなることもしばしばです。そうした社会で生きるわたしたちにとって、哲学は凝り固まったあたりまえをほぐすリハビリとして機能します。これは、哲学カウンセリングと呼ばれる場でも特に重視される観点です。

 また、それを「対話」で行うということも重要です。わたしたちの思考にはそれぞれの視点や立場というフィルターがかかっているので、異なる他者とともに考えるからこそ、他者や自己を発見できます。当たり前が崩れる、というこわい体験も、他者と共にだったら、面白かったり心強く感じたりするものです。

どんなことについて対話するのか

 哲学対話では、主催者側で問いを設定することもありますが、多くの場合、参加者から、普段気になっていることや考えてみたいこと、当たり前だと思っているがよく考えると不思議なことなどを出し、問いをつくるところから始まります。たとえば、以下のような問いが実際に出ました。

高校生・大人
・なぜ働かなければならないのか
・顔を見ただけでその人のことを分かった気になってしまうのはなぜ
・エゴイスティックでない生き方はありえるのか
・愛とは何かを分かっていないのになぜ初恋だとわかるのか
・罪悪感とは何か
中学生
・年上になぜ逆らってはいけないのか
・運命は存在するか
・なぜ人を好きになるのか
・先輩はかっこよく見えるのに、なぜ姉はそう見えないのか
・なぜ学校に行くのか
小学生
・何のために生きるのか
・死んだらどこへいくのか? 魂はどこにある?
・過去の人物はほんとうに存在したの?
・「時間」ってどんなもの?
・なぜ友だちの人生を生きられないのか

 「哲学的な問い」には、自身の実存的な問いが現れます。知的遊戯としての哲学的な問いも当然ありますが(過去の人物はほんとうに存在したのかなど)、「なぜ生きるのか」「なぜ働かなければならないのか」など、抱えている悩みや苦しみが形になることがあります。むしろ積極的に自分が抱えているこまりごとを「問い」の形にし、カウンセラーと対話を行うのが「哲学カウンセリング」です。


哲学カウンセリング

 ここで「哲学カウンセリング」について軽く触れておきます。1980年代にヨーロッパで起こり、海外の哲学プラクティスでは一般的ですが、日本ではあまり定着していません。哲学カウンセリングは、そもそも古代哲学というものは、生活上の問題に応えるものであったし、治療的な意味をもっていたはずだ、という考えに基づき、そうした哲学のあり方への回帰と復興を目指します。『哲学カウンセリング』という日本でほとんど唯一の哲学カウンセリングについて書かれた本を著したラービは、以下のように言います。

「今日の普通のセラピーや薬物で治療される多くの患者は、本当は心理的な病気にかかっているというよりも、むしろ哲学的状況に苦しむ人々である」

 哲学カウンセリングは、クライエントが自分の中に隠れている仮定や感情を確認解明することを援助します。それは具体的には以下のようなものです。

「抽象や仮定のうちにある飛躍を発見認知すること、生活の中の意味や価値についての問いや倫理的問題に対処すること、所与の状況でなすべき「正しい」こと、行うべきよい決定や最もよい選択に関する問題を取り扱うこと、「いかに生活を送るべきか」という問いに対する答えを独力で見出すのを助けて貰うことによって「生活術」を学ぶこと、役割と責任を明らかにすること、さまざまな視点から問題を吟味する場合に助けとなる知的手段を開発すること、複数の選択肢を認識すること、メディアや科学技術や産業や現代の労働倫理や社会的ニーズなどのような緒システムのインパクトに対処すること、クライエント自身の価値と目標に沿う生活ストーリーを構成すること、クライエントが守っている信念と彼らが送っている生活との関係を批判的に吟味することなどである」(Raabe, p.21)

哲学カウンセリングのスタイル

 スタイルとしては様々で、問答型 / パートナー型 / 教育的アプローチ / 集団型などがあります。哲学対話と同じく「傾聴」が重視されますが、あまり共感はせず、原因を突き止めて考えようとしない事が多いようです。それよりも、クライエントが考えたいことを「共に考える」という探究的な態度が重視されます。また、悩みが解決されることよりも、こういう話をしても「大丈夫」と思ってもらうことの方に価値をおくこと、このことを話しても「安全な場なのだ」と思ってもらうことに留意することがポイントなのかもしれません。というのも「なぜ生きるのか」などといった問いはしばしば「そんなこと考えて変なの」「病んでる」「中二病」などと揶揄されがちだからです。こういった場は「安全ではない」といえますが、場の安全性とは一体何なのでしょうか。


場の安全性について

対話のルール
 哲学対話で重要視されるのは「場の安全性」です。探究が育まれるためには、場が安全である必要があるからです。その意味で、哲学対話は単なる「話し合い」「会議」「議論」「討論」とは異なります。結論を急いで目指したり、何か成果物を出すことを目的とはしません。それよりも、以下の点を強調することが多いです。

急がなくていい
・進まなくていい
・決めなくていい
・勝たなくていい
・意見を変えていい

このように、普段わたしたちが関わらざるをえない「場」とは、異なる場ということを意識します。

 場を安全にするため、そして普段の話し合いと区別するため、哲学対話にはルールが存在します。これは主催者によって異なり、何か共通の取り決めがあるわけではありません。たとえばわたしが主催の場合は、以下のようなルールを設定することが多いです。

1. 自分のことばではなそう
・まとまってなくてもいい
・誰かから聞いた知識やあたりまえは脇に置く
・急がず、自分の思考や感情を大切に

2. よくきこう
・相手のことばを真剣にとらえ(聞く)、
・100%の理解に近づけるため質問もする(訊く)
・自説に固執して相手を説得することは重要でない

3. 「ひとそれぞれ」から始めよう
・ひとそれぞれはあたりまえ
・でも「ひとそれぞれ」をゴールにしない
・だからあなたの意見が大切

 反対に、安全ではない場というのは、自分自身のことを感じたり見たりしにくくなっている場であったり、時間や成果物に追われ、じっくり考えられない、何かに急き立てられている場といえます。

安全とは何か

 「場の安全性」とは何なのかという問いは、世界中の哲学プラクティショナーの間で共有されている問いです。専門的な論文でも、実践報告でも数多く探求されています。

 誤解されがちなのは「安全」な場というのは「波風をたてない仲良しのグループ」という点です。違うと思ったら違うと言えるのが「安全」な場という考え方が基本です。ハワイの哲学者のDr.Jによれば、安全性には3つあり、身体的な安全、感情的な安全、知的な安全があります。この3つが揃ってはじめて、探究を育むことができるのです。

「そこで対話と 探究が始まるためには、感情的にも、知的にもセーフである必要がある。知的にセー フな場所には嫌がらせはない。蔑み、傷つけ、否み、貶め、嘲ることを意図して発言 することも許されない。この場所では、輪になった他のメンバーに対する敬意が存在 する限りにおいて、ほとんどどんな質問も発言も受け入れられる。[…]誰であれ、理解していないのに理解したふりをする術を身につけている場合、あるいは、質問した いことがあるのに怖くてそれが聞けない状態にある場合、その人は知的にセーフでは ない場からの影響を感じている。知的にセーフであることは、探究が育っていくための地盤なのだ」(Jackson2001:6)

 知的な安全という言葉は聞き慣れませんが、たとえば納得していないのに前に進んでしまったり、「わからない」「待って」といえなかったり、常識や上下関係を優先させたりするような場が、知的な安全性を欠いている場です。こうした点に注意深くありながら対話をすすめていくことは、日常からすると少し変な場です。しかも、ファシリテーターひとりだけが注意するのではなく、参加者全員の注意が必要です。

高橋綾(2017)におけるセーフティ理解

 ハワイのDr.Jに影響を受けた高橋は「セーフティ」(高橋は「安全」ではなくセーフティという言葉を使います)について、以下のように考えています。すなわち、この場というのは、不和やネガティブな状態が存在しないということを意味するわけでなく、セーフであるということは、 たとえば「なにかを「言えない」と感じていることにまず「気づく」ことが第一歩」(高橋 2017:30)であり、「それらを自分が感じていることを認識することができること、必要であれば、対話のなかで他の人にそれを話すことができること」(Ibid)である、自己への自覚が可能であることです。

[…]それぞれの参加者が、自分の、身体的、感情的、知的コンディションによく注意 を払い、いつ自分はセーフでなくなるか、自分をセーフでなくさせるものは何かとい うことを自覚しつつ対話に参加すること、やみくもに自分の経験を他人に晒すのでは なく、テーマについてともに探究する上で、自分が語りたいこと、語るべきことは何 かということを自分のなかで線を引き、その線を引き直しつつ語るという、自分につ いての自覚を指し示しているのではないか、と思うに至ったのである」
(高橋 2018:112)

 セーフティという概念は「心理的安全性」などといった言葉で多く流布していますが、それがどのようなものなのか、そしてなぜそれがわざわざ「哲学」で重要になるのか、といったことはあまり十分には議論されていません。ですが高橋によれば、やはりそれは「自分で認識する」「問い直す」ということと、場のセーフティというのはセットであり、またそれが対話の中で行われるということを重視しています。


安全な場をつくるための奮闘記

哲学対話は常に安全か?
 ここまで哲学対話と安全性との関係について書いてきましたが、わたしが経験してきた哲学対話の事例を使って、その奮闘を紹介したいと思います。当然哲学対話は常に安全な場ではありえません。むしろ、以下に普段の場が安全ではないか、そしてそれを意識することが難しいかを思い知らされる場でもあります。ファシリテーターを務めていても「どうしよう」と思うことが多々あり、その場で何もできなかったり、むしろ危険な場にしてしまうこともあります。

事例1:差別的な発言、暴力的・攻撃的な発言がある
 参加者が、差別的な発言をしたり、暴力的・攻撃的な発言をしたりすることがことがあります。これはもっとも探究を阻害する瞬間の一つでもありますが、それを指摘すると「これは”哲学”的な”探究”なのだから、必要な発言だ」という正当化がみられることもたまにあります。実際、過去の哲学者たちの古典といわれる著作の中には、明らかな人種差別や女性差別が見られることも少なくありません。

たとえば、実際にそのような発言があった場合どのような態度をとりうるのか、以下にまとめてみました。

case1 口が滑ったり、うかつに行っている場合
・それぞれ過去に使ってきた言い回しや言葉遣いがあるため、本人も発言後にそれに気がついた場合、ファシリテーターは軽く指摘する

case2 発言者が差別と気が付かずに発言する場合
・頭ごなしに押さえつけても発言者は納得しないことがほとんど
・差別的な発言に対して「どうしてそう思ったのか」「なぜそう言えそうなのか」という問いにすること
・ファシリテーターだから介入するのではなく、同じ輪の中で探求する参加者として、その発言について意見を言ったり、問いを投げかけたりすることもできるかもしれない。
・場合によっては、ただ間違った知識をもっているに過ぎなかったり、発言者が考え直すきっかけになったりと、様々な可能性に開けることも
実際にあった事例

ある沖縄の小学校。さまざまな環境にある子どもたちが集まる中、ひとりの児童が「ともだちってなに?」という対話のさいに、家族と友達のちがいを述べ、家族について以下のように発言した。
「血がつながっていない家族は偽物の家族だ」
場は不穏な空気に包まれ、それぞれが「いや…」「ちがうよ」などつぶやくが、誰もその児童に対して議論をしようとしない。発言した児童のみが、無邪気に手をあげたまま「偽物!偽物!」と繰り返している。

 児童本人は誰かを傷つけるつもりはなく、ただ自身の信念を繰り返しているだけのように思えます。ですが、明らかに参加する他の児童は不快感をあらわにしていました。そんな中、ファシリテーターは、場が「安全ではない」ことを察知し、ただそれを流してしまうのでもなく、隠蔽するのでもなく、また「そんなことを言ったら傷つく人がいるよ」などというのでもなく「血がつながっている家族だけが本当の家族なのかな?」と問い返し「お父さんとお母さんは血がつながっていないけど、家族じゃないの?」と「**反例**」を提起しました。すると児童は「お父さんとお母さんって血がつながっていないの?!」と驚き、意見を変えるということが起こりました。

このことからわかること
 哲学対話は、差別的な発言や、場を安全でなくする発言がでたとしても「問い」にしたりそれを「吟味」するということが可能な場であるともいえます。実際、児童の信念は無知に基づいており「反例」という批判的思考アプローチを行ったわけです。ですが、これは喜ぶべきことだけでは当然ありえません。差別的な発言が出てしまい、それを時間をかけて「吟味する」ということ自体が暴力的なものになりうることもあることを十分に考える必要があります。時に「いじめとは何か」「同性を好きになってもいいのか」といった問いを設定し、場が十分に育っていない状況で哲学対話を始めてしまう、というような事例がありますが、無知に基づいた発言や、差別的な発言が多く飛び交う場それ自体が、悪意がなかったとしても、非常に暴力的な空間になることは留意すべきです。


事例2:ファシリテーターを「教師」的な立ち位置だとみなし、積極的に発言・権威的な知識の披露を求められる
 哲学対話ではファシリテーター(哲学者)は教師や医者ではないので、フラットに同じ探求者として対話に参加する必要があると考えます。これは哲学カウンセリングであっても同じで、問いの前ではみな平等であり、ともに真理に貢献する存在として輪に入ることがほとんどです。そのために哲学対話では輪になり、時に「pネーム(philosopher name)」といって、身分や立場、普段の所属を変えた名前で参加することもあります。たとえば、普段のままだと「◎◎先生」と呼ばれてしまうので「ちぇる」「ソクラテス」など名前を変えるわけです。また、利害が絡むような問いではなく「死んだらどうなるか?」など哲学的で抽象的な問いを行うことで、関係性がフラットになることも多くあります。他にも「質問」のハードルを下げ、互いに問い合うことによって探求が進めるように促すこともあります。

 こうしたことからわかるのは、ファシリの立ち位置だけでなく、普段のパワーバランスを引きずったまま対話を行うとほとんどの場合うまくいきません。この場が、そういった関係性から抜け出ようと努力する場であるということを何度も説明する必要があります。そのため、あえて関係性をフラットにするために哲学対話を行うという場合もありえます。ですが当然のことながら、輪になり哲学をし、pネームを使い、いくら理念を説明したからといって、即座にパワーバランスがなくなったり、フラットな関係になるわけではないことも忘れてはいけません。


安全な場ってなんだろう

 哲学対話の実践者で「安全な場」ということにとりわけ注意を払っている人というのはそこまで多いわけではありません。時に傷つけあってもどんどんと探究をすべきである、という立場の人もいます。ですがわたしは、参加者が互いに「安全に探求できる」ことに気を払っている状態こそが、哲学対話を育てる重要な契機であると考えています。そして気を払っている対象は、相手であり、自分であり、そしてそれをまるごと含めた場に対してです。
 もちろん、何度も言うように哲学対話がユートピアではありません。むしろ哲学対話は「哲学の探求」ができる場所という位置づけだけでなく、探求しやすい場、すなわち「安全な場とは何か」ということを常に考え続ける場として考えられるのではないでしょうか。

永井玲衣



参考資料

・Jackson, T. (2001) “The Art and Craft of Gently Socratic Inquiry”, Costa, A. (ed.). , San Val.Developing Minds
Raabe, Peter B. (2001) Philosophical Counseling: Theory and Practice, Westport, Conn.
高橋綾(2017)「哲学対話とスピリチュアルケア」, Co*Design. 1, 25-44 頁.
高橋綾・ほんまなほ(2018)『こどものてつがく ケアと幸せのための対話』, 大阪大学出版.

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