<文学 課題2 「伝達」と「表現」の関係>
文学 課題2:「伝達」と「表現」の関係 について論じる課題。
武蔵美通信の文化総合科目で履修登録した科目。文学部だった時のレポートなどを思い出しながら、任意の小説を選択した。
卒論のテーマに近いレポートとなった。以下レポート。
広津和郎『女給』における「伝達」と「表現」の関係
昭和五年の『婦人公論』に連載されていた広津和郎の小説『女給』には、小説として存在する以外に、小説の中に登場する人物のモデル問題について、出版関係者の間で揉め事があったという史実が残っている。これは、あるウエブサイトでは記述があったが、文献としては見つけられなかった。
発表は昭和初期である。この頃、大正から昭和初期にかけて「モダン・ガール」と称する女性の表象が起こっていた。職業を持つ女性たちを「職業婦人」と呼び、「モダン・ガール」の多くはそのような仕事を持つ女性であり、小説『女給』にも、そのようにして自分で職を探し、働きながら自立を目指す女性たちが登場している。女性解放運動家である平塚らいてうが「モダンガアル」について記すのは、昭和二年である。らいてうは、洋装で銀座を闊歩する女性たちについて、それはうわべだけの「新しい女」の姿だとしている。らいてうが『女給』に関する事件を知っていたかどうかはわからないが、知っていたとしても一笑にふしたのではないか。
広津和郎は、主人公「小夜子」の告白として文章を書いている。逸話によれば、これには女給にモデルがいて、作家は女給に彼女の人生を告白され、それを書いたという説も残っていた。物語は「小夜子」と「君代」という二人の女給の言い分を彼女たちの語りで進む。
文体は女性の語りとして馴染む。男性作家の作品であるがそこには「男性目線」を感じない。働く女性を間近で取材し、そのままの言葉を記したとしてもそれはかなり真実に近いようにも読むことができる。この小夜子の話ぶりに触れて、読者は自分が小夜子から彼女の人生にまつわるさまざまな困難を打ち明けられているように感じるだろう。そこにはらいてうの言う「うわべだけ」ではない、男性を相手にする「カッフェ」で働く女性の厳しさが描かれている。それは、現代でも未だあり得る男尊女卑やセクシャルハラスメント、貧困、女性同士の諍いなどあらゆる事柄が盛り込まれている。当時を生きていた広津和郎がこの事態を書かねばならぬとした意思とそのための丁寧な取材が想像できる。
小説は紛れもなく時代を「伝達」している。しかしそれは「伝達」を前面に打ち出しているわけではない。文学は「伝達」だけを主軸に書かれるわけではないが無論「伝達」の要素を携える。「伝達」すべきメッセージがそこにはこめられている。さらにそれは「表現」方法によって、伝わり方が変わる。例えば、伝えたいことがあったとしても、「AはBである」のような論文的表現方法では小説にはならないし、それは小説の役割ではない。
テキストには「伝達と表現という機能は互いに相反する方向を示」す*1と記されていたが「表現」は、「伝達」の役割を担うのではないかと一個人として考える。何かしら「表現」されたものは直喩であれ、比喩であれ、読者に何かを伝えるのは間違いない。
広津和郎のなめらかな文体が、小夜子や君代の人生を読者の目の前にスムーズに提示してみせるのは、おそらく作家の眼差しが女給側へと寄っているためであろう。そこには同情もうっすらと見えてくるように感じた。しかし、作家は女給の境遇や状況を具体的に、それがより読者に伝わるような表現で描いているだけで、社会的なメッセージをこの小説の中で提示しているわけではない。それはこの作品を読んだ読者それぞれが考えることであって、作家は状況における答えを書いているわけではないからである。主人公である女給たちの行為や女給に接する男性客のさまざまな行為についても、物語の中で誰かが「それは良俗に反することでは無いか」と言い募るテクストはない。登場人物の行為について作者は単に、その間で起きている出来事として書き連ねているだけである。提示されたものを読み取った読者が、この物語は何をどう伝えようとしているのか、そこに何かメッセージがあるのだろうか、と考えるだけのことである。無論、中には考えない読者も存在するだろうが考えないからといって、作家はそれについて気分を害したりはしないだろう。そこには道徳のような、あるべき常識や倫理は付け加えられない。
発表当時、モデル問題が起こり、モデルとされた人たちが憤り、事件となった。それは年数を経てゆくうちに物語の一部になり、たとえ事件の発端とされた小説だとしても、現代の読者にはそれを含めて全てが物語であり、逸話は小説を飾る一部でしか無くなるのではないだろうか。
今回、他の調査から縁があって広津和郎という作家を知り、小説『女給』を読んだ時、昭和初期の物語であるのに主人公の小夜子や君代は時間を超えてすぐ隣にいる人間のように感じられた。これは作家が取材した女性たちの人生が、嘘偽りなく本物で、生き生きしていること、その真実を作家はうまく汲み取って物語を構成したことで、現代にも訴える力を持ち続けているのではないかと考えられる。小説という文学芸術の普遍的な性質を感じた。
時代を伝達する役目はもちろん文学の中にはある。しかし、伝達されるであろうそのものは物語の中に浸透し、その中でのさまざまな要素と混じり、それだけが浮かんでくることはない。メッセージは表現の中で読者にそれとなく気付かれるように配置され、気付かれる場合もあればそうではない場合もあり得るのではないかと考察した。それが、筆者が感じる伝達と表現の関係である。(2200字程度)
課題を終えて:卒論の資料を探しているうちに出会えた広津和郎という小説家の作品が面白かったので、レポートのテーマに据えさせていただきました。作っていて楽しいレポートだった。講評も穏やかで、先生に感謝しました。