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ショートショート89 「イイオンナ」

 とある平日の黄昏時、いきつけと言うほど足しげく通っているわけではないが、仕事が早く片付いた日はコーヒーを楽しみにくる喫茶店で、その日も私は一杯のコーヒーを楽しんでいた。

 暦は9月に移行したものの、まだまだ暑さが厳しいこの季節だが、私は喫茶店ではホットを頼むと決めている。

 香りが立ち昇る感覚が強く、リラックス効果が高い云々と、何かと理由をつけてはみるものの、その実、湯気をくゆらせながらゆったりと目の前の一杯を愉しむ、そんな自分に酔いに来ているのかもしれない。

 小ぢんまりとした店内は、その日珍しく満員で三席ばかりのカウンターのたまたま空いていた一席に案内される。

 左右間隔がさほどないため、隣の会話が否応なしに耳に飛び込んでくるが、大声で話すような野暮なお客もいないため、それはBGMの一部として店内に融け込んでいく。

 隣にいるのは、スーツ姿の若い男女だった。

 年の頃は三十代前半といったところだろうか。

 今年五十歳になる私から見れば、若者である二人はカフェラテとアイスコーヒーのグラスを傾けながら、主に男が喋り、女はうんうんと相槌を打っている。

 漏れ聞こえてくる内容から、職場への不満を語っているのだと分かった。

 自分のパフォーマンスが正当な評価を得ない、結果を出しているのに社内での待遇が良くならない、などなど。

 この手の愚痴というのは輪廻のように世代を越え、業種を変え、語り手を変えて、連綿と受け継がれていくのが世の理なのだろうか。

 社内で中堅と言われるポジションになり、任された業務はソツなくこなせて結果も出始める頃。

 とはいえ、世の中や会社全体が視えるほど達観しているわけでもなく、上司の評価と自己評価のギャップに悩む人間は少なくない。

 こういう手合いはきっと、そこそこ優秀なのだろうが、増長したプライドで扱いに困る。

 分かってないと烙印を押された上司からしても、扱いづらい存在なのかも知れない。

 さて、隣に座る女性はというと、会話の内容を聞く限り、恋人関係にあるわけではなさそうだ。

 職場の同僚と言ったところか。

 仕事終わりのこの時間に、二人で喫茶店のテーブルに向かい合っているあたり、お互い憎からず思っているのだろうが。

「俺は、やっぱり人に使われるのは性に合わない」

 だとか

「いずれ起業しようと思ってる」

 など、よくシラフで語れるものだと思ってしまう暑苦しい男性の弁に

「それだけ自分を持ってるって、えらいよ」

 などと相槌を打ちながら、男性を乗せていっている。

 刺激すると面倒なので、話を合わせていると言った風でもなく、男性の言葉に圧倒されていると言った風でもない、余裕のある対応だった。


 サラリーマン一筋の人生を送る私からすれば、そんなに甘いもんじゃないぞと苦言の一つも呈したくなる、若さゆえ無知ゆえの希望に満ち溢れた、悪く言えば、地に足のついていない男性の言葉を、うまくいなして、乗せている。

 これは敵わないなぁ。

 結局、男はおだててもらわないと頑張れない生き物なわけだが、彼女には的確にその欲求をくすぐり、満たしていく力がある。

「ね……、うまくいったらさ、私雇ってよ」

 彼女の言葉にすっかりその気になっているらしい男性は「あぁ、いいよ」と、答えている。

 男性よ、キミの敗けだよ……。

 ビジネスを始めるなら、彼女がスナックでもやった方がいいのでは。

 そんなことを思ったが、全くもって余計なお世話だなと気づく。

 フッと自嘲すると、私は少し冷めたコーヒーに意識を戻し、二人の会話を環境音へと戻した。


<了>

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