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『関西弁で読む遠野物語』その3|昔話の本質っていうのは

ーー「山人(やまびと)」は、すごく深い断絶があるお話ですよね。里の娘をさらって、何人も子どもが生まれるんですけど、みんな殺してしまう。こういう話をどう受け止めたらいいんでしょうか?
 
『遠野物語』って、禁忌とかタブーを言わんとしているものではないんですよ。子どもに聞かせるのに教訓を見出すとか、何かを禁止したり、あるいは何かを勧めたりとか。それを、わかりやすく伝えるっていうことのために昔話が伝えられてきたっていうわけでは全くないんです。
繰り返し言ってることやけど、世の中の腑に落ちなさとか割り切れなさみたいなもの。昔話の本質っていうのは、ある種、世界の複雑さとか、人生や社会の複雑さ、感情の複雑さみたいなものとちゃうかな。もちろん、勧善懲悪ものもいっぱいあるし、仏教説話なんかは因果応報みたいな話になってくるねんけど、民間伝承の話は、そういうものとは違って、ただ、残酷に終わってしまうとか。
逆にいうと、断絶とか差別とかっていうものを無視しちゃいない。そういうものも含んで世の中は成立してる。だけど、断絶を推奨してるわけではなくって、今の社会でも、ちょっと何か変われば、その人を理解できないという人、全く文化も言論も言葉も違う人がいる。もちろん、そういう人ともコミュニケーションを図っていけばいいに決まってるねんけど、物語の世界の人々にとって、共同体を守るために外の人との戦いをしてきたやろうし、そういうものがあるという「現実」そのものを伝えてるということかもしれへん。
 
ーー現実のままに受け止める。今日はイベントの予定がこういう形になってしまったんですけど、コロナのせいで。今、非常に特異な「現実」の中にいますよね。そういう時に、いろんな感情が顕になることがあるじゃないですか。差別感情とか、日本人ってこんなんやったんかなってガッカリするところがある。
 
「山人」の残虐さみたいな話もあったけど、民俗社会に生きてる人は、共同体が生存圏の単位ではあるわけで、境界の外から来る人に対しては警戒もしつつ、山伏とか霊能者みたいな、外部の人がもたらす信仰、考え方、技術とかっていう新しい情報を積極的に取り入れてた。
どういう神様が御利益があるとか、例えば、東北のどこへ行っても熊野神社がある。和歌山のね。実際に行った人もいるし、熊野漁民の持ってる舟の漕ぎ方とか、信仰とともに技術を同時に伝えてもらった。そういう意味では、見えない境界っていうのを、はっきり持ってるけど、意外と外から来るものを取り込むっていう意識も持ってる。『遠野物語』に白子(しらこ)の話があるけど。東北は、すごく早くから北方民族もいたし、キリスト教もかなり普及してた。どっちかというと、都会の方がそういうものに対してアレルギーがある。関東大震災の時に朝鮮人虐殺なんてまさにそうやけど、あれかて、近代の話。目の前の事実っていうことで言ったら、ああいうことを日本人はしてしまう。
それは、近代化、都市化したことによって共同体単位での貧富の差ができたことで、弱い人がより弱い人に対して暴力的になってしまう。現在におこった貧富の格差。災害が起こった時に社会の問題っていうのが露呈する。
 
近世以前にもいろんな話がある。災害からの復興とか言った時に、江戸時代なんてトップダウンで、ここは復旧させるんだっていったら、こうしなきゃいけない。例えば、浅間山の噴火があった時に、村の人が半分くらい亡くなった。それで、村を何とかするために、残った人だけで家族を再構成して、耕す人を作って。それをみんな納得して、すごく短い期間に再興したっていう話がある。それがいいかどうかは、一概には言えないけど。
今のことで言うと、民間から、もうちょっと、こうしようっていうようなことが、全然、起きない。
ライブハウスも補償を強く求めるっていうようなことばっかりで、大きな動きにならへんやないですか。僕なんかは、元々、クラシックが好きな人です。声楽家なんて本当困ってる。プロの人でも全く無収入になった。僕にとっては両方の音楽に親しみがあるんやけど、それが全然、交わってない。あっちはあっちで、こっちはこっちで、お互いに困った困ったって言ってて、お互いがどうなって、どうしてるかっていうイメージを持ってない。今は、上から何かしてくれるのを期待したって、全く無理やし。
 
ーー『死者の民主主義』(トランスビュー刊)に、若者が、休む日が欲しくてお祭りを始めたっていう話がありましたよね。
 
あれなんか、まさに典型的な話やね。江戸時代のある時期に、都会の文化を自分たちでやってみようみたいな、余裕が出来てきた時代ではある。江戸でなんか流行ってる、誰か見てこいって。で、見てきたら、すぐ、そこの舞台で歌舞伎をやるみたいな。芸能と信仰っていうのは非常に近いものがある。例えば、病気が流行ってると、それには、こういう神様が効きますよみたいな。じゃあ、そういうのうちの村でも祀ったらええんとちゃうかみたいなことが、上手く、面白くオーバーラップして。
だから、ある程度、生産高が上がってきたなかで、もっと遊びたいと。遊ぶ時間を取るためには、なんか口実つけなきゃいけないっていう時に、こういう神様をお祀りする日を作りますっていったら、上の人は文句を言えない(笑)で、どんどん、どんどん神様を村に持ってこさして、その祭りの日をいっぱい作るわけです。
あれ、すごい面白い話。で、それ自分たちで自発的にやってんやけど、流行っていうのは過激でラディカルなね。江戸東京なんかは、これが流行ると次の流行りにいく、みたいに流行が移り変わっていくんやけど、村の遊びに対しては、一旦、流行ったものを祭りだすと、いつまでも祭りやってて、流行神が、どんどん積み重なって祭りばっかりになってまう。ま、笑い話やけど(笑)
現代のビジネスに置き換えると「休み取れない」みたいな話になってくる。もちろん、現代社会にそのままを結びつけられないけど、口実だってええんとちゃいますか。芸能、歌舞伎とか、そういうのを自分たちでやるために、準備から終いまで、祭りをやりたいから休みますって。
今だと有りえへんけど、神様に奉納するためやったら誰も文句は言われへんやろって、すごく、頭いいし、目的がまた、ええよね。芸能のために休むのって。権力者の面目も潰さないようにして、うまく休むっていう。日本人って、そういう面白いこともやってきたんです。

『死者の民主主義』(トランスビュー)はこちらから
https://cotachi.thebase.in/items/27016016

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