「見えない」という言葉の難しさ
私はずっと、「見えない」という言葉と、「見ることができない」という意味の間に、違いを感じてきた。
言語化はできないのだが、見えない、と、見ることができない、は、私の中では明らかに違う。
それは、「視機能使用困難状態」だから、という事情とは、少しばかり違うような気がする。
私の場合は、視覚の問題は先天的にあった。
ただ、ヒトというのは、自分の器(身体)以外を経験したことがないので、身体の状態は他人のそれとは比べようがない。
しかも、私の場合は、症状が未知数の脳障害があり、それによって、あらゆる問題を脳性麻痺によるものだと思われてきた。
その上、幼い本人は自分の状態が他者とどう違うのかもわからず、困っていることも言語化のしようがない。しかも自分の身体の状態で毎日毎日生活をするわけなので、無理やりにでも慣れていき、その身体で外界に適応しようとする。そして、周りの子どもたちが当然のように行っていることは自分にも可能なものだと思い(身体の状態はきっとみんなも同じなのだと思い)、必死で適応する方法を編み出すと同時に、誤魔化し技術も長けていく。
私の場合は、他にも心身環境ともにあらゆる問題が重なって複雑化を極めていたので、身体の視機能の異常が原因でどうやら日常生活あらゆるところに支障を起こしていたことにすら、気付いたのはここ数年内だった。
不思議に思われるだろうと思う。
そして、ここばかりは、体験でしかわからないだろうと思う。
いや、体験でも自分に何が起こったのか起こっていたのか、良くわかっていないのだから。
同時に、これは例えばなのだが、もし、視野や視界の一部に欠損が起こっているような場合、晴眼者のかたがたは、これを「視野が明らかに一部分だけ穴が開いたか紙が貼られているかのように真っ白や真っ黒になっている」とでも思っていないだろうか。
疾患や症状によっては、もしかしたら、実際にそういう症状があるかもしれない。晴眼者にも良くある閃輝暗点などは、まるでそういう状態であるという。飛蚊症などにしても、実際網膜上に汚れが浮いていたら、視界の風景に黒や白の汚れがついたように見えるわけだから、もしこれが大きければ、視野の一部を「隠す」形になるだろう。
しかし、視覚障害の多くの「見えていない」状態というのは、そのようなはっきりとわかりやすいことではない。
「視覚」というのは、「見る」という認知現象は、以前の眼球使用困難症関係の記事や五感のしくみの関係の記事でも何度も書いてきたが、「脳」で見ている。外界の景色を景色として「認識」しているのは、目ではなく脳なのだ。
そして、我々は、その一瞬に視界に入っているすべてを「見えて」などいない。常に、その時見たいものを見たいように変換翻訳して見て(見てというより、判断して)いる。
何が言いたいか。
「目に入る情報」を認識するときには、常に脳による補完や補正が入るのだ。
そして、先天性であれ後天性であれ、「ヒト」は自分の身体の状態しか体験できないため、自分の見ているものを「景色」だと思い込むし、生活に適応させられるような「見え方」をするよう、脳が調整する。
もう一つ別の角度から説明をしてみよう。
我々ヒトの目には、必ず「盲点」がある。これは、眼球の後ろ側のいわばカメラのレンズの一部に穴が開いていて、そこに視神経が集約して後ろに繋がっている…つまりはコード(視神経)を通すための穴なのだが、ここに穴が開いていないとコードを別の次の機械(脳)に繋ぐことができないので、この穴はなければならない。が、穴がある部分だけは、視細胞がないことになるため、この部分には外界の情報はうつらない、ということになるわけだ。
しかし、例えば片目を閉じて、自分の視界を堪能してみていただきたい。
自分の自覚で、盲点の位置は、見つからないはずだ。
どこか、視界の景色に穴が開いているだろうか?
開いていないはずだ。視界の景色に穴があって自分の盲点の位置が常に「自覚」されていたら、気になって生活が難しいだろう。(笑)
しかし、盲点を確かめる方法はある(これも難しいが)。
片目だけ開けて、一点を見つめ(焦点を固定させ)た状態で、誰かに、視界の中で手を(例えば人差し指だけ立てた状態で)、あちらこちら動かしてもらうのだ。必ず自分は一点を見つめたまま。すると、どこかで、なぜだか相手の指先や手の一部分が見えなくなる位置がある。そこ(眼球の位置的にはそこと対角の位置)に盲点があるということになる。
しかしながら、わざわざこんな方法でもしなければ、盲点の位置など、盲点の存在すら、通常はわからない。
その相手の手の一部がなぜか見えない瞬間があっても、どうして見えないのか、理解できないだろう。なぜなら、その人が手を動かせば、ちゃんとそこの景色も見えているはずなのだ。つまり、視界の中の景色はちゃんと連続しており、「見えていない穴」など存在しない。
この不思議な現象は、言語で説明できないものかもしれない。
が、ヒトはみんな、そうなっている。
「脳」の情報処理によって、視界を補正し全部埋めているのだ。
つまり、ヒトは、常に「視界の100%ものが見えている状態」のつもりになっているものなのだ。
例えばの話なのだが、網膜色素変性症という目の疾患で、視野領域がだんだんと狭くなり、(恐らく検査では真ん中の視野が欠けてきているということだろう)、目の前で通常に携帯電話で文字を打ちこんだりしているつもりなのに、なぜだか急激に誤字が多くなる、だとか、普通に目の前の物をとろうと手を伸ばして掴もうとしたのに、なぜか掴めず、目測をはずして落としてしまう、というようなことを聞くことがある。
これは、本人が「中心が見えていない」自覚があるわけではなく、視界はなぜだか普通に見えているように自覚されてしまうのだが、実際は脳の補正で中心部分が(例えばPCの画像処理で粗くなっている部分に周りの色を補正して持って来たりするかのように)歪められ、しかし連続的に映像として作り出しているため(虫食いだらけの映画のフィルムをPCで加工して観客に違和感のないように完成させているようなものとでもいおうか)、そこに手を伸ばして指を伸ばしているはずなのになぜだか当たっていない、そして画面に出た文字も見えていないことに気付いていないまま誤字になってしまっており、それにも気付くことができない、というような現象となってあらわれるわけだ。
つまり、少なくとも、(わかりやすくするため少々言葉を選ばずに書いてしまうと)僅かな視力にでも頼ることができている状態では、「見えていない割合」を本人が自覚することは非常に困難なのである。
晴眼者だって、自分の見えかたが他者と比べてどれだけ違うのかなど、わかりようがないだろう。もしあなたに「見えて」いない部分や瞬間がたくさんあろうが、自覚しようがないだろう。
ちなみに…私の場合は、どうやら周りと同じように無理やりにでも適応するために「身体」は別の反応を身につけていた。というのは、視覚に最初から頼っておらず、耳(音)や手を先に出して触って確認する方が断然すべて早く正確だったのである。しかし、それでも「脳」では、自分が見えていないなどとまるで思っていなかった。
学生時代(解離なども複雑化していて非常に難しいのだが)、さすがに独りで歩道を歩いたり信号を判断したりすることが難しいことが自覚されていた時には、傘を白杖代わりに使っていたり、一緒に歩いているヒトの気配に全集中したり、補助を受けたりしていた。しかし、それですら実は、「脳」では、「見えていないから」そうなっているとはまるで自覚していなかった。
本当に「視覚」だとはっきり痛感しそれでもだんだんと自覚して言語化できるようになってきたのは、過去30年以上の過剰適応のツケが溜まって(かどうかも良くわからないが)、「光」刺激自体に本当に耐えられなくなってきてからである。つまり、「目」自体の状態を他の人たちと同じようにしていることができなくなってから(行動障害が起こってから)だった。…いや、それまでも、眼球が光や動体に対して拒否反応を起こしてはいたのだが……かなり無理してそれ自体を抑えることをすら、自分で訓練していた。周りに変に見られる、と。
なので、大抵の場合、視覚に異常が出ても、自分では見えているのか見えていないのか、よくわからないものなのだ。
その他、「見えている」か「見えていないか」という話になると、視覚障害というのはヒトによってまるで「見え方」が違う(いや、晴眼者でも実はヒトによってまるで見え方は違う)。
光の具合によって、こういうところではこういう色のものは判別しやすいが、少し太陽の傾き(光の当たり方や周囲の明るさ)が変わったら、途端に判別できなくなっていたり(しかもそれに自分で気付いていなかったり)もする。
もしくは、微妙な角度によって見えていたり見えていなかったりする場合もある。
そもそも「網膜に写っているか」と「認識」がうまくいっているか、「判別」がうまくいっているか、は、いちいち別問題なのだ。見えているような気がしないでもないのだけれども良くわかっていない、というような場合すらある。
「見えている」か「見えていないか」で聞かれると、答えられない場合すら多いのだ。
晴眼者だって、目は良いと自負している人であっても、例えば何か、例えば消しゴムをなくしたと思って机の上や部屋中をひたすら探し、場合によっては何日も探して、しかしある時ふっと突然、いつもいつも目の前にしている(しかもそのためにくまなく探しまでした)机の上、しかも見えやすいど真ん中にあったのを発見した、などということ、案外良くある話だ。
「網膜にうつっているか」「それを脳が処理しているか」「脳が処理したものを更に意識できているか」は、いちいち別物なのである。
これは私が心理セラピストとして良く話すことでもあるが、そしてこれも「脳」処理次元の話であるのだが、
視機能に不都合が起こっている人であれ晴眼者であれ、ひとは自分の「人生の道」は見えない。
人生の道には、実は、常の瞬間、ひたすらあらゆる可能性が転がっている。実は可能性だらけの砂利道のようなものなのだが、多くのひとは、自分の人生の可能性の大半~ほとんどを見過ごしている。もしくは、人によっては、実はそれは可能性であるのに、ただの「砂利道」「歩く時に何かわからないけれども当たる障害物」「得体のしれない自分を邪魔するもの」くらいに感じながら人生の道を歩いているひともいる。
セラピストからの目線であると特に思うが、多くの人は他の人を見ながら、「この人には今こんな可能性もあんな可能性もあるのになぁ、自分を閉ざして可能性が見えていないなぁ」「この人、これを自分に不利なものだと思い込んでいるんだな。この人にとってこれは利用できるチャンス(条件)だと思うけれどな」などと感じる経験があるのではないだろうか。
セラピストの目線から見ていると、誰を見てもそういうものだらけなのだが…しかし私も私で、自分自身、見えていない可能性はあるだろうと思う。
ひとは、自分の人生の道という自分の視界にごろごろ転がっている自分自身の可能性を、大半は「見えていない」と同時に、「見えていないことにすら気付いていない」のだ。
同じ「脳」で処理をしている「視覚」「視機能」というのも、同じようなことなのである。
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