”障害”の捉え方、対等なコミュニケーションー日本点字図書館にて感じたこと

日本点字図書館に行ってきた。
インターネットで用具の購入などには利用させていただいていたが、高田馬場はなかなか遠く、直接行ったことは1,2回しかなかった。

この度、眼球使用困難症の扱いで視覚障害としての手帳が未取得であっても、利用可能なサービスや情報提供くらいはできるかもしれないと教えていただき、予約をしていたのだった。

内容も内容で非常にありがたい、濃いものだったが、それ以外で、私が感じたことがあった。

それは、非常に言語化しにくいことなのだが、

例えば、私はここで、「視覚障害者」として、日常困っていることやら苦労していて使い方や工夫を凝らしたいことをひたすら訴えたが、それに対して、もちろん親身に応えてくださる。のだが…その上で、別に教えるようなわけでもなくサービスを案内するとかいうわけでなく、「うちの同じ部署に当事者(視覚障害)のスタッフで、そういう携帯電話の音声操作とかPCのナレーター機能、マウス操作をしなくても済むショートカット機能だとか、詳しいスタッフがいるんですよ。その人と一度話してもらうと有力な情報が得られるかも…良かったらまた、お時間作って来てもらったら、お伝えできるかもしれません」(しかも最終的には、あちらから調整してご連絡しましょうかと言ってくださったので、日点側から連絡をいただき日程打診していただくことにしたのだが)
というような言い方だったり、「当事者の方たちはやっぱり『こういうことで困る』『こういう場合は自分のルールで、これはこうと決めている』とかおっしゃいますね」だとか、とにかく「訓練する側」「される側」ではない、要するに、障碍者側、健常者訓練士側、ではなく、あくまで国語が得意な人は漢字の扱いをこうしているなーだとか、そんな感覚なのだ。
「当事者」という言葉自体は使うが、それすらも「当事者」「健常者」の枠を感じさせない。

また、例えばここで私は、点字図書館の点字教室や対面朗読サービスの案内を聞いたのだが、
これに関しても、あくまでどこにでもある一般の図書館の利用案内をするかのように対応してくれる。
もちろん、そこではこちらの視覚がない分、説明の仕方なども視覚障害者でもわかりやすいような説明の仕方をしてくれたり同意書の署名ひとつにしてもサポートしてくれるのだが、
「視覚障害のある利用者」ではなく、あくまで、ただの「当施設利用者」という感覚。

点字教室の説明をしてくれたとき、担当者がどうやら当事者のかただった(別れ際まで実は気付かなかった)のだが、説明を終えた後、では失礼しますという時、それまで全般を説明してくれていた晴眼のスタッフさんが「では〇〇さん(点字教室担当者さん)をそこまでお送りして…」と(つまりその担当者さんとの間のやり取りだけではなく)私にもわかる形で言葉で発し、担当者さんもそこで「あ、でもこの壁伝って行けば大丈夫、ですよね」(実は私はここで初めてこの方も当事者さんだったのかと気付いた)「あ、この部屋ちょっと机や椅子やらちょっと狭くてですねー…そう、そう来てもらって、つまづかないように(笑)」「あ、ありがとうございます。じゃ、(ここまでくれば)この壁沿いに行けば大丈夫ですねー」などと、まるで当たり前のようなその場その場のさらりさらりとしたやりとりをする。

私が帰るときにも、図書館の建物の外まで誘導してくださり、「あとは大丈夫です、ありがとうございました」という言葉を交わしていたのだが…、日点は高田馬場駅の戸山口からが一番近く、誘導ブロックもずっと繋がっているらしいという情報が頭にあって、私はこの時、早稲田口から来たので、ちらりと「私は今日、早稲田口から来たんですが…戸山口の方が近いんですか?」と聞いてみた。
すると、「はい、戸山口のが断然近いですね‥‥戸山口まで一緒に行きましょうか?(笑)」
「あ、いえいえ!…難しい(曲がったりする)、んですか?」
「あーいや…ちょっと待っててくださいねー」
と、言うなりさっと建物の中に入ってしまい、少し待っていると、
「よし、上着着て来たんでちょっともこもこしてますがどうぞー」とまた即座に私の手が握ることができる位置に腕を当ててくださり、何と…そのまま戸山口まで連れて行ってもらってしまった。

この文字上では伝わらないかもしれない。
が、ともかく、「提供する側が提供している」とか「見える側、できる側がサポートをしている」感覚が一切ないのだった。
ただただ、当たり前の人間関係の中で、ただただ、「目の前の人間」に対して誠実に在る、というだけの感覚。別に視覚がないからこの人はできないわからないから補う、ですら、ない。
もちろん「施設スタッフ」と「利用者」ではあるけれども、それでもただただ施設スタッフが利用者と対等に関わっている、というだけ。

支え合い、補い合いの世界がそこにあった。

「この人は見えていないからこうだからどうだから…」でなく、例え初対面の相手であっても、ただただ「その人」と関わる。

そこにいろいろな忖度はなく、ただただお互いがあるがままの形を築く。
化学反応を計算したりコントロールしようとするではなく起こった化学反応がそのままそこに在る。どちらが何ができなくて何がなくてどんな助けサポートが必要で、とかいう話ではない。

「あ、腕で誘導した方がいいですか?(必要なサポートの情報を聞く)」と言うのと、「ではお名前、生年月日よろしいですか(事務に登録の必要のある情報を聞く)」というのと、まったく同じレベルのようなのだ。
それと同時に、私は利用者として、利用できる情報を相手に聞き、引き出す。
お互い同じことをしているだけ、というような感覚。

「視覚障害」という言葉(概念枠)がはびこってしまっているがゆえに、「この人は目が見えていないから…視覚障害者だから…」というような認識が潜在的に優位に立ってしまうことが非常に多くなっている。
が、社会的にはどんなに「名前がついている」ような状態を持っていようがいなかろうが、そこにいるのは「その人」なのだ。

国語が得意な友人相手に「この人は文系だから……あ、私は計算が得意だからお会計の割り勘計算の時は手伝ってあげなきゃいけないかな」などなどという感覚が優先には来ないだろう。
寧ろ、自分の得意なことが当たり前のように先に出てきて、相手がどうあれ「自分」がそこに在って、損得なしに割り勘計算をきっと始めることだろう。
文系だろうが理系だろうが視機能に頼っていようが頼っていなかろうが、それは「その人」のごくごくごくごく僅か僅かの一部、一面に過ぎないのだ。

どちらもどちらで「社会が勝手につけた名前」などとらわれず、相手と関わっているのは社会ではなく「自分」である。
自分があるがまま自分らしく、ただただ「相手」とコミュニケーションすれば良いわけだし、自分のできること、できないことを表明していけば良い。
そしてそれを表明するとき、もしも相手が耳が聴こえなければ、声(言葉)で表明したところで相手に伝わらないのだから、(自分が相手に伝えるため、伝えたいために)筆談なり手話なり身体全身でジェスチャーしてみるなり、「相手とのその場でのコミュニケーション」を築いていくことだろう。
そしてこれは何を考えるでもなく、自然に自分の内側から湧いて出てくるものでしかないのだ。


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