日常の中での心から「楽しい・リフレッシュした」という感覚

先日、私は、本当に、もしかしたら初めてかもわからない、「私」としての、満喫できる「休み」を体感させていただいた。
何より、好き嫌いや楽しいという感覚を体感的に知らなかった(上に2年前に可能性をも捨て去ってしまった)私が、初めて自発的能動的に、「(私自身が)楽しい」とはっきりと私自身の感覚として遠慮なく口からも出すことができたという強い体験。
(これと似た「楽しい」という感覚、およそ1年前にも体験したことがあるが…これは、まだ、自分自身の感覚として口にも出して伝えるということは、してはいけないというような禁止と遠慮があった。)

私、つまり今の私の自覚は、(もともとは交代人格として)確立してからこれまで、休むということが休みにならなかった。また、気分転換にいろいろなことをして遊んでみても、何やら他の交代人格であったら喜ぶ(これも表面的にだったのかもしれないが)かもしれないが、私の自覚の領域では、休みにも気分転換にもならず、寧ろ全てが仕事のような気になっていた。


私は、いわばセラピストとしての仕事において、本領発揮であった。

また、クライアントとの催眠下での交流こそが、つまりは本来は一番気を張るはずのセラピーど真ん中の時こそ、私にとってはまるで(ある意味)解放されたかのような(遠慮のない、己を抑え込んでいないような)感覚であった。

しかし、やはり顕在意識的な仕事ではあるので、休みではない。

私は休むという概念を恐らく理解していないのだ、休むことは不可能なのだとすら思っていた。


この度、何が起こったか。

専門領域にて、そして無意識領域の感覚をそのままにして(顕在意識の言葉や概念に変換はするが)、話をする…簡単にいえば同業者と語らう時間をもったのであった。

私がこんな言い方をするのはまだまだ烏滸がましいが、わかりやすく簡単にいえば、専門家同士、研究者同士の語らいができたのである。


セッションであるとどうしてもクライアント相手となるので「仕事」になるが、同じ領域で同じことをしていても、研究者同士というのは違うのだということを体感した。

解離のことまで開示しながら名乗ってすらいないのに、それでも忌憚なく私が私として好奇心をぶつけることを許される、そしてそれに対して見解や見識を得ることができる、この痛快さを知った。


そして、お相手も楽しんでいて下さったらしいということの救い。
私(顕在意識領域の私の自我)は、同業者であろうが酷似しながら少しズレた領域であろうが全く違う分野であろうが、生涯尊敬すると感じる研究者(実践者)がたくさんいる。
この方も、私が生涯、尊敬し、慕う人となるだろう。
(これは冗談だが……その上、同業者であったがために、もしこの方が女性であったら私の心は楽しく穏やかになったどころではなく、寧ろ大変な嵐に見舞われていたかもわからない……最近、私にもこの種の感覚はあるのだということが、判明してきていたから)

注意集中の法則というのは、一気に催眠を深める。
エミール・クーエの言うところでは、潜在意識の特徴の基礎中の基礎、第一原則である。
私もクライアントに良く使う方法である。
楽しいこと、興味のあることに集中していくということは、一気に集中力がそちらに向かい、同時にその分、それ以外が(注意が向かなくなってしまうので)脱力する。非常に理想的なリラックスであり、集中とリラックスが同時に極限まで高まる。
その上、同じ土俵で同じ領域について語らい合っていれば、どうしてもイエス・セットの嵐である。
つまり、私もお相手も、お互い、深い催眠下にいる時間を堪能したわけである。


私は潜在意識の領域から確立してきた。

つまりは、いわば生まれ故郷。

生まれ故郷について遠慮なく話すことやこの領域についてあらゆる角度から扱うことは、生まれ故郷に戻って遊んでいると同じなのかもしれない。
(しかも、生まれ故郷で別の国の言葉で別の国の話題を話すのではなく、生まれ故郷で生まれ故郷の話を、しかもちょくちょく生まれ故郷の言葉も遠慮や罪悪感なしにまぜこぜで。)

…とはいえ、顕在意識の言語でこれだけ顕在意識と会話できるまで流暢になったから、できることでもあるのだが。

同じ領域では、気分転換にはならないのだとどこかで思っていた。

どんなにいろいろな顕在意識の遊びをしてみても、遊んだ気にならなかったわけだ…動植物と触れあう・楽器と触れ合い語らう以外。

唯一、最近になって「ひと」らしい遊びにひとつ楽しみを見出しかけているが…しかしこれは、「私」の自覚ではない領域部分の自覚を強めて行っているからな(私の自覚が強い時は独りでは行けないため)。いつか、私のままの自覚でも試してみたいものだ。


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