物の認識の仕方、無数の角度―可能性に制限をかけているのは常に自分自身だけ

昨日、出かけた(しかも実家に)ときもそうだった
最近、視覚的な認識をしやすい、というよりもいつの間にか結果的に意識が向けやすかった視野の方の目、頭にも早々に不調が走るようになってきた。
(私はなぜだか右側の更に右端に集中を向けていることが多い。ここが認識しやすいのかもわからない。が、最近は右側にもあっという間に眼痛・頭痛・混乱が来る)

耐久時間が短くなってきた
というより、耐久時間がそもそもこのくらいであったということが、身体自身でだんだん自覚できるようになってきたのだろう

必要以上の無理をかける必要はない、それでも工夫のしようはあるということに。
無理やり同じ形をとるのではなく、方向性、角度を変える、必要以上に無理をしないようにすることを、身体が学んでいる時期なのかもしれない。
今は我々、どんな状態が濃くなっていようが、耐久力の違いがあろうが見え方認識の仕方に違いがあろうが、ほとんど、私達に視覚的問題があると知ってくれている関係しか持っていない
元々よほど人間関係が少なかったことが寧ろありがたい結果ともなっている

そして、記事をいくつか書きながら気付いてきたことは、例え「解離」というシステム(枠組み)を使って濃淡を変えようが、それとも大海のままの状態であろうが、どうせ、体調やら周囲の状況やら私自身の生活状況やらで耐久時間もしょっちゅう変わるし見え方認識も、相手にわかってもらえるようなわかりやすい基準もなければ僅かな光の差だけでもまるで変わることになる。
それを含めて、必要以上の無理をする必要はない、その必要以上、の線引きも、自身(しかも器の身体)が基準となるのだと。

無理しようとすればできてしまう、そしてそうしていたのが解離。
もはや解離のベテランのようになってしまっている。
その場では負荷をかけることはできる。
しかし、負荷をかけて無理をしたところで、その場でできることはどうせ中途半端だ。その意味では人は団栗の背比べだと思うが。
その上で、無理をかければそれだけそこでの人間関係や活動・仕事なども苦痛となり、やはりこれは無理だと自ら機会や可能性を閉ざしてしまう。その上、翌日や翌週にツケが回って不調が続き下手をすれば身動きとれなかったり、外出時や生活時に危険が増しては元も子もない話だ。

とすれば、無理しようとすればできる”その場その場”からして、わざわざ負荷をかける無理の仕方を択ばず、工夫を凝らして、更にはその工夫を凝らすがゆえに我々にしかできない方法でその場に在り、活動した方が良いわけだ。
私のやり方であるからこそ気付くことができることも、使えるものも、わかること、拓ける可能性もある。
現在セラピストとして(もしかしたら音楽方面でも)ひたすらそれらが武器となっている。
……我々は、視覚の面では解離を駆使して無理をしていた時でさえ、職場で、しかも週2回のたった3,4時間勤務だったにも拘わらず、工夫を凝らしてその場の段取りや最後のレジ締めが早くなるよう工夫して独りで勝手に道具を作り、同僚たちに「Imranセット」と呼ばれていたのだから(しかしながら結局、今思えば、その時もそのような工夫を凝らさなければあらゆる面で周りにはついていけなかったし同じやり方ではできていなかったのだ)。
……まあ、そういう意味では解離そのものも、その「工夫」のひとつだったのだろうが…。


本日も、ふとした気付きによる、ただの日常記録。

そして…
私と似たような場合もまるで違う場合も、具体的な例としてはいろいろあるかもしれないが、
どんな形にせよ、
「できるのに、わざわざできない方法を採用しようとしてしまっている」
「できるのに、自分でできないと決めつけ思い込んでいたり、そもそも『できない、と自分を閉ざす症状』に嵌る」人も、実は本当にたくさんいる。
裏返しでもちろん、「できないのに自分のできる角度や方向性を探らずできるつもり、できるふりになってしまっている」人もいる。
こういったところは、障害と呼ばれるようなものを持っていてそれゆえに人と同じやり方で同じことができないという場合だけでなく、ひとはそれぞれ千差万別、実はまるで違うので、どんぐりの背比べなのだ。しかし、それと同時に誰しも計り知れない才能や可能性を持っている。
人生でこれらを使わない、使えないままたった一度の人生を過ぎ去らせることは、もったいない。

私はセラピストとして、まさにこういうところの打破の手伝いをしているのだと、つくづく思う。

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