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ジャズギター・アルバムのライナーノーツ(2)『コンシャスネス/パット・マルティーノ』

以前書いたCDのライナーノーツを少しずつアップします。最初はギター関係のライナーをいくつか公開してみます。今回はパット・マルティーノ『コンシャスネス』のライナーノーツです。1999年、なんと20年前に書いたものです。

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コンシャスネス/パット・マルティーノ


 「リヴィング・リジェンド(生ける伝説)」ということばが最も似合うジャズ・ギタリスト(いや、ジャズ・ミュージシャン全体の中でも)は、間違いなくパット・マルティーノである。マルティーノほどに畏怖の念をもって語られ、熱狂的な信奉者を擁し、存在自体がミステリアスなヴェールに包まれた「カルト」なジャズ・ミュージシャンは他にいない、とすら言ってよい。マルティーノについてのカルト的パブリック・イメージが、いつごろからどのようにして形成されていったのか、機会があったらじっくり調べてみたいものだが、ここでは「マルティーノの何がカルトか」を、思いつくままに挙げてみよう。

 まず何と言ってもこれ。「パット・マルティーノは顔がカルトだ!」
 あ、いきなり外しちゃったかしら。しかし、やはりあの何かに憑かれた目と鶴のように細い体躯が、ミステリアスなイメージをぐっと高めていることは否定できないはず。これが整形後のジョージ・ベンソンみたいな流し目系だったり、あるいはハリー・アレンみたいな熊のプーさん風だったり、もしくはジョージ・デュークみたいな「ヒグマ出没注意」タイプだったり、はたまたパット・メセニーみたいに縞シャツのそこらのにーちゃんぽかったりしたら、マルティーノ伝説は成立しなかったのかもしれない。まあ、世の中には「サン・ラ系カルト」というのも存在するわけで、痩せていなければカルトになれない、というものでもないのだが、マルティーノの音楽のストイックな雰囲気に、あの体型とあの目つきはあまりにもぴったりなのだ。

 次はやっぱりこれでしょう。「パット・マルティーノは境遇がカルトだ!」
 彼が70年代末に脳動脈瘤をわずらい、手術は成功したものの「ギターを弾く」という行為が一時まったくできなくなり、苦闘の末に奇跡的なカムバックを果たした……という事実は、本人にとってはカルトどころの騒ぎではない、あまりにもハードな体験だったろう。カムバック後にマルティーノ自身が語った記憶喪失とそこからの復活の過程は、まさに感動的なヒューマン・ドキュメントだった。個人的な記憶をたどってみると、僕が大学生だった70年代後半の時点で、マルティーノは「とんでもなくうまいギタリスト」ではあっても、現在のような神格化はされていなかったのではないか。なかなか新作が出ず、「脳の病気で再起不能」とか「記憶喪失で行方不明」とかの噂が流れていた80年代に、マルティーノに対する神話的な伝説がじわじわと熟成され、カムバックとその後の報道によって「伝説」が完成した、という気がするのだが、どうなのだろう。もちろん病気は不幸なアクシデントに過ぎないわけで、そのことによって彼の音楽(特に病気以前の音楽)を特権化するのは無意味なのだが……。

 そして当然、これ。「パット・マルティーノは音楽がカルトだ!」
 マルティーノの演奏を聴いたときに感じざるを得ない、息詰まるような緊張感と切迫感、覚醒と陶酔の間をさまようかのような異様な感覚は、一度はまってしまった人間を中毒にさせてしまう。ジャズ・ギター史の中でのマルティーノの位置づけは、ホロウ・ボディのギターと太い弦による伝統的「ジャズ・ギター」のセッティングと奏法を極限まで推し進めることによって、60年代後半のジャズの変革に対応しえた希有なギタリスト、ということになるだろう。そういう意味で、マルティーノは同年代で出身も同じフィラデルフィアのジョージ・ベンソンと並び称される存在だ。しかしどちらもウェス・モンゴメリーとグラント・グリーンをアイドルとし、非常に類似したラインを弾くことも少なくないのに、ベンソンとマルティーノの音楽から聴き手が受ける感触の違いといったら! 

 ジャズ・ギター史上屈指のテクニシャンである、ということでもこの二人は共通しているわけだが、ベンソンのイクイップメントについての話題があまり出てこないのに比べ、アマチュア・ジャズ・ギタリストたちが畏敬の念を込めてその楽器や弦の太さ、ピックの材質までも「神話」として語ってしまうあたり、マルティーノはやはり「カルト」なのだ。1弦が0.15あるいは0.16インチという恐ろしく太い弦を使い(ちなみに一般的なジャズ・ギタリストが使用している弦は、1弦が0.11~0.13ぐらい)、大理石のピックで正確無比なピッキングを延々と持続し(プラスティックやべっこうと違って材質による「しなり」の少ない大理石は、強靭な手首ときわめて正確な技術がないととても使えないはずだ)、しかも単なるスケールの上下運動ではまったくない、とんでもなく複雑なフレーズを見事に弾ききってしまうテクニックと集中力に対する崇敬を、われわれは彼の「楽器」を語ることを通じて表明してきたのだろう。もちろん、音楽は楽器演奏技術のみで優劣が計れるものではない。しかし、マルティーノの音楽は、その壮絶なテクニックがあってはじめて成立するものであり、彼の中で「技術と表現」は不可分のものとして存在しているはずだ。たとえば、セシル・テイラーの音楽がそうであるように。
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 この『コンシャスネス』は、マルティーノにとって8作目のリーダー作にあたる作品。前作『ライヴ!』に参加していたタイロン・ブラウンとシャーマン・ファーガソンに、プレスティッジ時代の『イースト』『デスペラード』でピアノを弾いていたエディ・グリーンというラインナップは、みなフィラデルフィア時代からの気心の知れた仲間であり、彼ら3人はミューズからアルバムを出している「カタリスト」というバンドのメンバーだ。コブルストーン/ミューズで、マルティーノは5枚のリーダー作を発表したが(『ザ・ヴィジット』と『フットプリンツ』は同じ内容なので1枚と数える)、ハードな緊張感と集中力という点では、『ライヴ!』と『コンシャスネス』が双璧と言ってよい。

 冒頭を飾るコルトレーンの「インプレッションズ」は、すばらしく粒立ちのいいフレーズを連射するマルティーノの至芸を堪能できるトラック。ギターによるこの曲と言えば、誰もがウェスの名演を連想してしまうが、スケールの大きい乗りのよさという観点ではウェスが優れているものの、マルティーノの「一点強行突破」的な突き詰めたプレイも壮絶なもの。今僕が聴いているソースは、新しくリマスターした音源をDATに落としたものだが、アナログに比べて圧倒的に高域がクリアになり、ピッキングの細部がありありと分かる状態で聴いても、マルティーノの演奏はまさに完璧なのだから恐ろしい。ナチュラルに音が割れるところが味わい深いエレクトリック・ピアノ・ソロ(フェンダー・ローズのスーツケース・タイプだと思う)も、いかにも70年代ぽくていい。
 2小節単位のベースの定型が執拗に反復され、そこにドラムスがポリリズミックに絡むパターンが延々と続く「コンシャスネス」は、11分を超える大作だ。ベース・ラインの音程に対してアウトなアプローチでゆさぶりをかけるマルティーノのソロの緊迫感、マイルス時代のチック・コリアを想起させるエレピのソロ、ベースの長いソロの上をパーカッション類や電気的に加工されたささやき声などが飛び交うパートの不気味さと、かなり「いっちゃってる」サウンド。続く「パサッタ・オン・ギター」は、クラシックのようなフォークのような、美しいマイナーの旋律を持つギター・ソロ。たとえばメセニーやアバークロンビー、あるいはラルフ・タウナーが演奏しそうな、繊細な優しさにあふれた演奏だ。
 ベニー・ゴルソンの名曲「アロング・ケイム・ベティ」は、軽快なテンポのジャズ・サンバ風リズム(ベースのパターンはサンバ的ではない)で。16分音符を連続させて息の長いフレーズをつむぐ、マルティーノの典型的な奏法が楽しめるトラック。このCDには、まったく遜色ない出来の別テイクが収録されているので、そちらの方もお楽しみいただきたい。ピアノレスで演奏される「ウィロウ」(ピアニストのグリーンはパーカッションを演奏している)は、ボサノヴァ・ビートに乗ってベースが下降していく循環進行のパートと、「コンシャスネス」に似たベースのパターンによる部分が交互に現れる曲だ。シングル・ノートとオクターヴ奏法を織りまぜて自在に弾きまくるマルティーノのテクニックが、ピアノなしのシンプルな場の中で一段と冴えわたる。
 速いテンポの変形マイナー・ブルース「オン・ザ・ステアーズ」でのマルティーノのソロは、いやまったくもう「すげえええええ」の一言だ。すべての音がきっちりと正確にピッキングされた腰の強い8分音符がこの速いテンポでびっしり並び、しかもそれがちゃんと「うたって」いるフレーズになっているのだから、人間の能力というものは恐ろしい。そしてアルバムの最後は、やはりソロ演奏で優しく奏でるジョニ・ミッチェルの「青春の光と影」。ちなみにマルティーノはこの曲を、カムバック後の『光と影のギタリズム』(BLUE NOTE)で、カサンドラ・ウィルソンのヴォーカルをフィーチュアして再演している。

 (April,1999 村井康司)


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