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没後15年、吉村昭のエッセイを読む


小説家吉村昭は、2006年7月31日に79歳で亡くなりました。今年2021年で没後15年になります。
綿密な取材と調査に基づき、虚飾を排した淡々とした文体で日本と日本人をめぐる様々な「事件」を記述する吉村昭の小説は、現在でも多くの読者に支持され、『戦艦武蔵』『高熱隧道』『羆嵐』『破獄』などの長編小説は、未だに文庫が版を重ねています。事実の重みを無駄のない文章で突きつけてくる吉村昭の小説を、読者は息詰まるような思いで読み終え、深いため息をつくことになるでしょう。

そうした緊迫感と重さが吉村文学の魅力なわけですが、数多く刊行されているエッセイからは、打って変わってリラックスして料理や酒、旅の楽しさを語る、吉村昭のもう一つの側面を伺うことができます。ここでは、現在文庫で入手しやすい何冊かを採りあげ、食と酒、旅にまつわるエッセイを読んでみることにしましょう。

『蟹の縦ばい』から

まずは『蟹の縦ばい』(中公文庫)から。1979年に単行本が出たこのエッセイ集には、「味のある風景」という章があり、料理や酒についての短い文章が並んでいます。

「私の家に函館生まれの家事手伝いの娘がいるが、彼女の家からアワビとイカを粕漬にしたものを送ってきた。アワビの方は、今まで数回どこかで食べた記憶があるが、イカの粕漬は初めて口にするものであった。(略)筒状のイカの中に、イカの脚と人参がさしこまれていて、輪切りにし醤油を少したらして食べる。実にうまい。冷酒を飲んでこれを三、四切れ食べると、幸せそのものという気分になる。」(「イカとビールとフグ」)

「食堂の主人は、毎日、川でうなぎをとってくる。現物を見せてくれたが、いい形をしている。まさしく天然うなぎである。
 骨を焼いたものを肴に酒を飲んでいると、うなぎが焼けてきた。身がしまっていて、どのような高級店で食べたうなぎよりはるかにうまい。」(「宇和島の味」)


どうです、美味しそうでしょう。宇和島市の隣、吉田町で食べたうなぎ屋の主人に取材し、うなぎとりの名人を主人公にした小説が「闇にひらめく」で、今村昌平監督が「うなぎ」というタイトルで映画化して、カンヌ映画祭でパルムドールを受賞しました。

こうして、うまいうまいと大喜びする吉村昭ですが、時にはこのような珍品も食べていました。


「私は、豚の睾丸の刺身を食べた。それは、美しい桃色をしていて、ニンニクをすりこんだ醤油につけて食べる。少々薄気味悪かったが、口にしてみると呆れるほどのうまさだった。」(「釣糸」)


吉村さんの見事な食べっぷりに感心した店主が、「二階から、釣糸をたらしておくと、鼠がかかるからね。その刺身はもっとうまいはずだよ」というオチがつくので、タイトルが「釣糸」なのでした。


『わたしの流儀』から

次は『わたしの流儀』(新潮文庫)を読んでみましょう。1998年に単行本として刊行されたこの本には「酒肴を愉しむ」という章があります。
「緑色の瓶」という文章の冒頭で、吉村さんは「今は、清酒のよき革命時代だ、と私は思っている」と書いています。うまい地酒が次々に登場して、緑色の瓶に入ったそれらを自由に楽しめるいい時代になった、という趣旨のエッセイなのですが、彼はその文章をこう締めくくります。


「うまい酒をつくってくれている人に、心からお礼を言いたい。趣味というものの全くない私には、酒を味わうことが唯一の楽しみであるからだ。」(「緑色の瓶」)

唯一の趣味が酒、というだけあって、吉村昭はかつて「酒」という雑誌の「文壇酒徒番付」で東の横綱になったことがありました。その酒量についての自己申告は……。


「たしかに私が千鳥足になったのは、焼酎をコップ十七杯飲んだ時だけで、お銚子二十八本並べたこともある。しかし、それは三十代半ばまでの、酒の飲み方も知らぬ愚かしい時期のことで、五十代になってからは酒量を制限していたので、幕内の中位ぐらいが妥当だと思っていたのである。
 その後、さらに酒量はへって、現在では十両ぐらいになっている。ただし、力士が連日稽古にはげむように、酒は毎日欠かさない。」(「酒の戒律」)
 連日稽古にはげむように、というのがいいですね。

さて、無類の酒好きにしてかつての「横綱」である吉村昭は、人生最後の晩餐に何を食べたいと思っていたのでしょうか。「最後の晩餐」というエッセイに書かれたその答えは、少々意外なものでした。


「答えはすでにきまっている。アイスクリームである。(略)
恐らく私は、少年時代、焼き芋屋で買ったアイスクリームを思い、列車の車窓に眼をむけながらアイスクリームをすくった折のことを思い起すだろう。そんな思い出にひたりながら死を迎えるのも悪くはない。」「最後の晩餐」)


『七十五度目の長崎行き』から

日本のさまざまな土地を舞台に膨大な数の小説を書いた吉村昭は、取材旅行という「旅」を続けた作家でした。北海道には150回以上、愛媛県宇和島には約50回、長崎には107回。主に取材で訪れた日本各地の紀行文を集めたエッセイ集が、『七十五度目の長崎行き』(河出文庫)です。

行く先々で、人と出会い、名産を食べ、うまい酒を飲む吉村さんの取材旅行は、なんだかとても楽しそうです。実際には地道な聞き取りや図書館などでの史料調査がたくさんあるのでしょうが、やはり彼は純粋に旅が好きだったのでしょう。


「私の場合、旅行の楽しみは、夜、うまい物を肴に酒を飲むことである。長崎でも、夜、あちらこちらと歩きまわって、ここぞと思う小料理屋に入ることを繰返してきたが、二十年近く前から或る小料理屋に行くのが常になり、それ以外の店には入らない。」(「長崎、心温まる地への旅」)


この小料理屋は「はくしか」という名で、『戦艦武蔵』執筆のための取材旅行の際に見つけたとのことです。

「この店では、小鰺の刺身などが出て楽しく、それにおでんもうまい。勘定をするたびに安いのに驚き、本当にいい店だと思う。」(同)


『羆嵐』の舞台である北海道苫前町の「牧場まつり」の話も素敵です。

「牧場の一部がまつりの会場になっていて、仮設舞台がもうけられ、その前の草地に多くの町の人たちがゴザなどを敷いて坐っている。都会に住む私が意外に思ったのは、食べ物だった。牛肉が驚くほど安い値段で食べられるのである。」(「『羆嵐』の町」)

日本海に面している苫前は魚介も豊富で、雉子の肉も食べられるというのですから、いつか苫前に行ってみたい、と思ってしまいます。

「私は、編集者、カメラマンとともに、苫前町をはなれた。もうくることはないかも知れぬ、という思いがきざしたが、道ぞいの日本海をながめながら、あと二、三度はくるにちがいない、とも思った。」(同)

愛媛県宇和島近郊のうなぎ屋の話をさきほどご紹介しましたが、『ふぉん・しいほるとの娘』や『長英逃亡』などの取材で足繁く訪れた宇和島では、「鯛飯」が殊にお気に入りだったようです。

「昼食には、鯛飯を食べる。新鮮きわまりない鯛の小さな刺身を、卵、ゴマの入った汁につけ、それを温い飯の上にのせて食べるのである。
 数年前、宇和島市からの帰りに松山空港で初めて永六輔さんに紹介されたが、私が宇和島市からの帰りだと言うと、永さんは、
「鯛飯を食べましたか」
と、言った。
食べましたよ、と答えた私を、永さんはまことに羨ましそうに、
「あれって、ほんとにほんとにうまいんですよね」
と、繰返し言った。」(「宇和海」)

一刻も早く吉村昭ゆかりの地に出かけてうまいものを食べたい、と思うのは、きっと私だけではないでしょう。


谷口桂子『食と酒 吉村昭の流儀』

駆け足で吉村昭のエッセイから3冊をご紹介しました。吉村昭は全部で約30冊のエッセイを遺していますが、現在入手しにくいものも少なくないのが残念なところです。


2021年8月に刊行された『食と酒 吉村昭の流儀』(谷口桂子 小学館文庫)は、小説家の谷口桂子さんが吉村昭と妻の作家・津村節子のエッセイや小説、対談などを深く読み込み、食べること、飲むこと、旅することについての吉村さんの「流儀」を考察した、吉村エッセイのエッセンスを凝縮したような一冊です。

目次をご紹介します。

第1章 「食いしん坊」のルーツ
 一食一食が大きな関心事
 戦争と大病が、食に執着する理由
 生涯忘れなかった父母の教育
 これだけは譲れない飲食哲学
第2章 唯一の楽しみは酒
 文壇酒徒番附で東の横綱
 「酒中日記」にみる酒の遍歴
 かたく守った酒の二大戒律
 酔って、都々逸、ソーラン節を熱唱
第3章 下町の味
 日暮里―郷愁のカレーそばとアイスクリーム
 上野―洋食の決め手はウスターソース
 淺草―そばと天ぷらで一人静かに酒を飲む
第4章 旅の味―長崎/宇和島/北海道など…
 『戦艦武蔵』の舞台・長崎で百発百中の店選び
 ほのぼのとした人情の宇和島で鯛めしと朝のうどんを味わう
 各駅停車の旅で出会った北海道の想い出の味
 名誉村民となった田野畑村で海・山・畑の恵みをいただく
 晩年の故郷・越後湯沢で味わう郷土料理
 冬の福井で越前蟹と地酒を心ゆくまで堪能する
 日本全国でめぐり合った郷土の味と人情
第5章 吉村家の食卓
 毎日の食卓を支えた三百種類のメニューと献立会議
 家庭で再現した各地の郷土料理
 安住の地で得た、近所づき合いと馴染みの店
 夫婦の長い戦いとなった正月の過ごし方
 いつも人が集まった吉村家の食堂と居間


『食と酒 吉村昭の流儀』の解説で、作家の出久根達郎さんが次のように書いています。
「ここには吉村文学のエッセンスが詰まっている。これは食物と酒を話材にした吉村昭文学入門書なのである。」
 

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