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あの人と人とハイキング

ニュージーランド旅日記 第13回
ニュージーランドでは何度か山(丘)に登ったのですが、ロード・オブ・ザ・リングの景色が普通に広がっていて、太古の人々もこの景色を見て今の私と同じように感動したのだろうかと思ったものです。
さて、Nickとのハイキングはどんな様子だったのでしょう?


彼のむせ返るような匂いが私の服に移るのではないかと心配だった。私は彼の運転する助手席に座っていた。窓を少し開ける。ああ、神様、私は今、息が出来ません。

私とNickはWhangareiのダウンタウンから車で数十分の小高い山までハイキングに行く途中だった。ハイキングはNickが定期的に行っているエクササイズの一つで、私が山岳部に在籍していた話をしたら、「じゃあ、明日行こう」という話になってしまったのであった。まぁ、いい。ニュージーランドに来て一個も山に登りませんでしたなんて、山岳部の皆さん会った時どんな顔をしたらいいのかわからないもの。

「今朝、タバコを吸ってきただろう。かずこ? 」

いいや。吸ってないよ。持ってもいないよ。しかも、私はかずこじゃないよ。

「あー、たぶんボクの匂いだ。ボクは君の匂いかと思ったよ」

匂うのはお前だろーーーーーー!!!!!しかもタバコの匂いじゃないだろーーーーーー!!!!!

Nicはいつものように、ボンボリのついた毛糸の帽子を被り、首には緑と赤と黄色のチェックのマフラーを身につけていた。そのマフラーから、強烈な匂いがしてくるのは、気のせいなんかじゃなかった。今日は30年前から着ているという黒のシャツにスリットの入った単パン(ブルーのブリーフが丸見え)、足元は黒のゴム長靴という身ごしらえ。

先ほどから彼は、私に丁寧に車の運転の仕方を教えてくれていた。それはそうだ。彼は日本で言う、自動車教習所の先生なのだ。ちなみに私は既に運転免許は持っているし、運転もしている。

「ドアは静かに閉めなくちゃいけないよ。不必要に車がダメージを受けるからね。それからドアのロックはしないこと。もしも事故に遭って鍵のところが壊れちゃって開けられなくならないように。ブレーキは静かに踏むんだ。ガンと踏めばそれだけ車もダメージを受ける」

うん?急ブレーキは後続車に対してキケンなんじゃないの?

「君はよく知ってるね。そのとおり。君は正しいよ。それから、クラクションを鳴らすときは、こんなふうに鳴らしちゃだめだ」

(ブーーーーーー!!)

「いいかい?これは失礼にあたるし、不必要に人の気分を害するから良くない。軽く、本当に軽く鳴らすのが一番スマートなんだよ。こんなふうにね」

(プッ!)いいかい?こんなふうだ。(プッ!)これなら失礼にならない(プッ!)(プッ!)(プッ!)軽く押すだけで(プッ!)いいんだよ(プッ!)(プッ!)(プッ!)

何度も鳴らせば失礼だろーーーーーーー!!!!!

「よーし。ここのショップで濃いミルクを買うよ。僕はいつもここに立ち寄るんだ。毎回だよ」

Nickが小さな商店の駐車場で車を停めた。商店はとても静かだった。Nickは濃いミルクを片手に延々と喋りつづけた。商店のオーナーはメガネをかけたり外したりして、それとなく「もういいよ。帰ってくれよ」というサインを送っている。私もあんまり遅い出発になると、下山の時までに日が暮れてしまうのでないかと心配になった。

「Nick、私達、もう行かなくちゃ。」

オーナーはやっと開放されたと言わんばかりに腰を反らせて「じゃあまたね」と言った。Nickは店を出るときもずっと話を続けていた。山へ到着するころには、私は「おーけー」しか言わなくなってしまっていた。だって、何か言う隙を与えてくれないんだもの!

山はとても静かだった。Nickを除いて。
聞いたことのない鳥の鳴き声、七色の美しい鳥、大きなカウリの木、湿った土の匂い、そして、Nickの臭い。おいおいおいおい。山の匂いがNickの臭いにかき消されているよ。たまんねーな。Nickは相変わらず喋りつづけいていた。喋るので息が出来なくて、登りながら息も絶え絶えになっている。だいじょうぶ?Nick?

「ボクは大丈夫だよ、かずこ」

のーりーこーーー。何度言ったらわかるんだ、このオヤジは。そのうちNickが、「ボクの前を歩きたい?」というので、喜んで前を歩くことにした。ああ、新鮮な空気。私は鼻の穴を広げて、思いきり山の匂いをかいだ。なんのためらいもなく呼吸ができるということを神様に感謝した。

途中で、朽木が倒れている景色に遭遇した。なんて美しい。緑の陰に横たわる巨大な朽木のその幹は、うねるように入り組んでいた。あまりの美しさに私はカメラのシャッターを切った。すると、背後から「あああああああ!!!」というNickの叫び声が聞こえた。

「ボクがシャッターを切るよ。君はあの幹の前に立ってくれ。え?もう撮っちゃったの?なんでーーー?次は必ず撮ってあげるよ。そのほうがいい。景色だけ撮るなんて、フィルムの無駄だよ。フィルムを買ったんだったら、その中の全部に自分が入っていなくちゃ」

いいや。私は自分の顔が嫌いだから、写真なんかに撮られちゃまずいんだよ。それを見た人がショック死するかもしれないでしょう?

「それはボクだよ。誰もボクを欲しがらないのは、ボクが醜いからなんだよ」

実際、Nickはそれほど悪い見てくれではない。54歳とは思えない若さだし、毛糸の帽子も単パンも、それなりにセンスがあると私は思っている。

その後、Nickは黙ってしまった。私達はしばらく黙々と歩いていた。汗ばんだ肌に、風が気持ちいい。突然、"Shit!(クソ!)"とNickが叫んだ。なんだなんだ?木で引っかき傷でも作っちゃったの?

「ボクはあの店で、長いこと話してたよね? 」

うん。ずいぶん長いこと話してたと思うよ。

「くそ!たぶん、お店の人は早く帰ってくれって思ってたよね? 」

さぁねぇ。そう思ってたかもね。

「くそ!俺はバカだ。バカみたいに見えただろう?まったく馬鹿げてる。俺はバカだ」

そうでもないよ。私はそうは思わないよ。

しばらく背後から、Nickの「くそ!」という台詞が聞こえていた。かなり後悔しているらしい。

そして、ついに頂上まで到達することが出来た。途中、小休憩を入れて約一時間。私達は家から持ってきたオレンジに齧りついた。思っていたより喉が乾いていたみたい。オレンジの果汁が喉を潤す。ああ、美味しい。ハッと気がつくと、私のTシャツがオレンジの汁だらけになっていた。手も糖分でべとべとしている。うわー、またシャツに染みを作ってしまった。この間、リンダに「のりこにはよだれかけが必要ね」と言われたばかりだというのにー。Nickはそれを見て"That's alright."と人事のように言い放った。まぁ、たかがオレンジの汁だしね。いっか。

頂上からの景色は、「これぞニュージーランド!」と叫びたくなるような景色だった。明るい緑色の隆起した大地、小さな町、点のように見える牛の群れ。海の向こうには、青空に秋雲が浮かんでいた。もう、少しだけ日が傾き始めていた。淡い青空はすっかり秋の色で、小さな頃、母の機嫌を損ねる前に帰ろうと寺の鐘を聞きながら、ほとんど泣きそうになって家路を走った記憶が頭をかすめた。地球のどこへ行っても、結局空は一つだねぇ、とつくづく感じた。

「そろそろ車に戻って、お茶を飲もう」

とNickが言った。そうだ、暗くなる前に帰らなくちゃ。日が落ちるのは早いからね。

私達は半ば走るように下山した。そんな中でも、もちろんNickは喋りっぱなしだ。別れた奥さんのこと、弁護士のこと、近所に住むポリネシアンの女性のこと、以前好きだった女の子のこと、Nickのフラットに住んでいた悪い子達のこと。もー、トピックは瞬く間に変わっていくので、返事をしようと思ったときには、既にNickは他のことを考えているとう有様だった。そんな彼がいきなり、

おしっこしたい

と立ち止まった。おいおい、54歳のおやじの台詞かよ。まぁいいけど。

「女の人はこんなふうにおしっこをするだろう?(といって、しゃがんで見せる) もしもおしっこがしたいなら、君もしていいよ、そのへんで。絶対に見ないから

うそだね。絶対に見るくせに。
私は彼の立ちション姿などに興味はないので、とっとと先に下山することにした。背後からNickの声が聞こえる。

「おしっこしなくちゃいけないよ!!」

その声を無視しつつ、Nickが心配しない程度まで下りつづける。
しばらくすると、Nickが大急ぎで下ってきた。大きな岩に腰をかけて彼を待っていた私を見て、彼は嬉しそうに「待っててくれたの?」と言った。

下界に到着すると、既に日が暮れていた。薄暗い空に、針のように細い月とそのそばに明るい星が一つ煌煌と輝いていた。きれいだなぁ。

Nickの注いでくれた紅茶は、薄暗い空間で湯気がたっていた。私はNickのとりとめもない話を聞きながら、紅茶をすすり、自分の手の臭いが既にNickの臭いになっていることに気がついた。すごい、触ってもいないのに、どうして肌に臭いがつくんだろう。

帰りの車の中で、窓を開けようとする私に、Nickは容赦なく「寒いからダメ。風邪をひいてしまうよ」と言い放った。私は出来るだけ浅く呼吸をしながら、帰りの車の中を堪えた。

車の窓から、針のように細い月を見上げると、月があざけるように車をおいかけてくるのが見えた。

<余談>
しかしながら、Nickはその日、シャワーを浴びていた。
今まで固まっていた髪の毛は、だまになっていなかったし、トイレに行った時にシャワールームが濡れているのが見えたから、彼はシャワーを浴びていたのだ。しかし、あの臭い。あれは一体、なんの臭いなんだろう???

(つづく)


NZの濃いミルクというのは、米国でいうところのFull Milkで、日本で言うところの…なんだろう?温かい紅茶にそのミルクを注いだら、バターのように固まった脂肪がカップの中でクルクルと回転しながら溶けていったのを今でも思い出します。美味しかったなぁ。手は臭かったけど。

次回は、せっかくのワーキングホリデーを有効に使わない手はないと、カフェでバイトをした時の模様を書いてます。

#ニュージーランドでハイキング #息が止まるほど美しい景色 #景色だけで泣ける
#何者でもない私 #ということは何にでもなれる

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