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#8 死ぬかと思った話

アメリカで危険な目に合ったことはなかった?とよく聞かれるのですが、私は人に襲われるような経験はしませんでしたし、映画みたいな銃撃戦の現場にも居合わせることはありませんでした。でも、このブライスキャニオンでの体験は間違いなく危険な目だったと断言できます。本当に、死ぬかと思いました。


Bryce Canyon(ブライスキャニオン)は、ユタ州にある。
Bryce Canyon、Zion、Grand Canyonはユタ州の南西に集中しているCanyon地帯である。世界的に有名なGrand Canyon(グランドキャニオン)よりも北西に位置し、規模はGrand Canuyonに比べてだいぶ小ぶりである。しかし、その美しさは、Grand Canyonに引けを取らず、全米では有名な観光地となっている。

今日は、久しぶりに軽く歩くつもりだった。
Bryce Canyonには遊歩道があり、1時間半ほどのコースから用意されているとの話を聞いていた。私は軽くCanyonを散策するつもりだった。

Bryce Canyonに向かうまでの景色は、私の想像を裏切っていた。そもそも、アメリカの自然自体が今のところ私の期待を裏切りつづけている。カリフォルニアの砂漠。水気のない乾いた景色。ネバダの砂漠。乾燥した荒々しい景色。ユタ州あたりになると、緑が増えてくる。けれども、緑の隙間に見える地層はやはり乾いた土の色をしていた。もっと壮大な景色だと思っていた。もっと心安らぐ大自然があるのかと思っていた。ニュージーランドとは明らかに異なる景色であった。ニュージーランドの自然はもっと瑞々しくて安らぎがある。

Bryce Canyon付近になると、標高が高くなっていった。周囲の景色は山深くなり、赤い土の上にツンツンと杉の木が立っていた。赤い土はしましまで、地層が剥き出しであった。

Bryce Canyonに入る前に、ビジターセンターに寄った。何か食べ物が置いてあったら、購入しようと思ったのだった。乾燥した気候なので、常に水は持っている。ビジターセンターに入ると、3人の職員が私を迎えてくれた。

"Hi. How can I help you?"
"Hi. How're you doing?"
"Hi. How are you?"

とりあえず、Good, thanks. と答えた。何か食べ物は置いてありますか?と尋ねるよりも先に、右側の中年男性が、「どこから来たの?」と聞いてきた。カリフォルニアからです、と答えると「どこ出身?」と聞いてきた。

日本です

と答えると、アメリカに住んでいるの?と聞かれた。アメリカにいると必ずこう聞かれる。さすが多国籍の国。いやいや、アメリカには住んでないよ。ちょっと前までニュージーランドに滞在していたんだけれどね。

100%日本人?

真中の女性が聞いてきた。そーです。100%きっぱり日本人です。

「イタリア人の血は入ってない?」

右側の男性が尋ねる。おいおいおいおいおい。今までいろいろ言われてきた私だけれど、イタリア人はなかったなー。どうやったってそうは見えないだろー。こんな平べったい顔つかまえてー。

「いやー。混じりっけなしの日本人です。」

いいえ。違うわよ。先祖に必ずどこか別の国の血が混ざっているはずだわ。」

さすが血の入り混じった国。単一民族の島国では思いつかない発想である。

「日本人は色が白くて、目が細いからなぁ。」(右側の男性)

「本当に混ざってない? Native Amricanの血とか…何かエスニックな血が」(真中の女性)

おー、エスニック! つまり、私は南方系の顔だと。そういえば、よくフィリピン人と言われたりします。

「んんー。何か…他の…」

いいかげんにしなさい」(裏手)

右側の男性が突っ込んだ。一番左側のおとなしい男性は、アクセントと顔つきからして北欧系であろう。

「僕なんかアジアの血が混ざっているんだよ。ははははー」

最後の"はははははー"がなければ、一瞬信じてしまうところだった。禿てるから髪の色はわからないが、碧眼であるこの男性。妙に顔の彫りが浅いので、もしや、と思わせる。

「で、ところで何が入り用なんでしょうか」

と3人に聞かれた。ええ、あの、何か食べ物があるかな、と思ったんです。
すると、棚から無料の非常食をくれた。カロリーの高そうなチョコバーなどの詰め合わせだった。小さな地図もくれた。地図を見る限り、散策道はくるりと軽く回るだけの単純な道のようだった。

ありがとう、と手をあげてビジターセンターを去った。外は晴天。レストランで腹ごしらえを済ませてから、Canyonに向かった。

Bryce Canyonは赤土の世界だった。赤土の絶壁の頂上には、人の形に見えなくもない、風化した土の塊が至る所に乱立していた。あれが自然の力によって作られたのかと思うと、大いなる自然の力の神秘さを感じずにいられない。焼けるような日差しから、サーモンピンクの鮮やかな絶壁の影に入ると、空気はいきなりひんやりとする。土に触る。軽く触れただけで、ボロボロと壁が崩れた。温かいと思っていた赤土は冷たかった。

赤土の壁、赤土の地面、赤土の上に立つ杉の木たち。
背の低い杉の木はどれも焦げていて、その周囲の葉はきつい日差しに当たって紫色に反射していた。目がおかしくなりそうだ。それにしても、なぜ隣り合わせた木の一方は焼け焦げた姿をしていて、一方はそうでないんだろう。あまりの熱さのせいで木々が地味に焦げたのだろうか。

ここは異質の世界だった。からりと乾いた空気は、パラパラと降ったにわか雨もすぐに乾かしてしまう。私は自然への畏怖を感じながら歩きつづけた。足元は崩れやすく、水路のように窪んだ道は乾ききっていた。

ふと、数匹のアリが歩いているのに気がついた。実は、私はアリが大好きなのである。アリを発見したら観察せずにはいられない。以前、マレーシアで葉切りアリを発見して、どれくらいの顎の威力があるのかと指でつついてみたら、ザクッと噛まれてしまったことがある。やつの顎は強力で、ぴんと立てた指に体が垂直になるほどだった。引っ張っても、頭がちぎれそうになっても離れないのだ。しかし、今、私の目の前で隊を率いて歩いている黒いアリは、日本でよく見かけるクロオオアリにそっくりだった。まさかこんな熱い気候のところにクロオオアリもいまい。アリはたくさんの亜種があるので、その名前のすべてを覚えるのは容易でない。私は調査隊のアリがこの辺りにいるのなら、コロニーも近くにあるかもしれないと付近を調べた。

彼女達のコロニーは大きく、朽ちた倒木の中に作られていた。
入り口付近は、敵の侵入を防ぐためのアリがウロウロしている。一生懸命、巣から砂を運ぶアリ、遠くから餌となる小さな昆虫を運ぶアリ。とりわけ魅力的なのは女王アリであるが、彼女はコロニーの奥で大事にされているのでお目に掛かることは出来ない。私は他にもコロニーはあるだろうかと思いながら緩やかな小道を上がっていった。時々、調査隊を発見しては足を止めて観察した。

私は愚かだった。
足元に注目しすぎていて、天候が変わったことに気がつかなかったのだ。
頂上へ到達する手前を歩く頃には黒い雨雲が立ち込めていたというのに。

ぽつり、ぽつり、と大粒の雨が降り始めた。大粒の雨は瞬く間に豪雨となった。見る見る乾いた赤土が湿っていく。濡れた土の匂いが、私を不安にさせた。崩れやすい赤土が、泥土へと変わっていく。くちょくちょして歩きづらい泥土をのろのろと登り、ふいに頭上に何もなくなったところで、ふと周囲を見渡す。

何もない、まっ平らの空間がそこにあった。所々に立つ木は散漫で、大きな空の下で360°に広がる空間が私を取り囲むだけだった。辺りを見回す。けれども、平ら過ぎてどこが道なのかわからない。どれも道に見えるし、どこにも道はないように見えた。私は道に迷ってしまった。今来た道も、どこだったのかと思わせるほど、平らな景色は私を混乱させた。

大粒の雨が激しく降りつづける。崖の向こうに見えなくなるまで広がる赤い景色。それは果てしなく、自分を無力だと思わせた。どこまで行けば、私は帰れるんだろう。ここで迷ったら、本当に帰れない。アメリカは巨大なのである。私はあまりにもこのBryce Canyonを甘く見ていたことに今、気がついた。たかが散歩道と思っていた。1時間半で帰れると思っていた。地図を信じていた。今、地図は役に立たなかった。地図が雨に濡れてボロボロになっていく。

そして、ついに聞いてしまった。雷の音

私は心が縮み上がった。
標高の高いまっ平らな空間に私が立っていたら、何が起こるだろう。山頂での雷は、上から下へ行くとは限らない。下から上へもいくし、横から横へといくこともある。私は出きるだけ安全な場所を探そうと焦った。雷雲がここからそうは遠くない空でゴロゴロいっている。私は横穴を探した。しかし、無情にも辺りは不毛な平らな景色だけが広がるだけであった。自分の身を隠す場所すらないところに来てしまった。遠い空を見る。ただひたすらに黒い雨雲が続いていた。雨が私の体温を奪っていく。雷の音がどんどん近づいてくる。私は逃げなければならなかった。しかし、平らな空間のどちらに行ったらいいのかもわからなかった

とりあえず、目の前の藪の中へ逃げ込んだ。藪は雨をよけてくれない。それでも、雷に当たるよりはマシなのだ。木の下は危ない。はたと気がついた。私はまったく愚かである。今まで横目にしてきたあの焦げた木々たちは、落雷に当たった木だったのだ。見れば、至るところに焦げた木々がある。私が身を隠している藪でさえ焦げていた。つまり、このBryce Canyonは四方八方に雷が走る場所なのだ。私はあまりの恐ろしさに体が震えた。恐怖のために体が震えたのは、産まれて初めての経験だった。これは何に対する恐怖なのだろう。死ぬかもしれない。私は、死に直面している恐怖に震えているのだろうか。いや、そうではない。人なんかの小さな力ではどうすることも出来ない、自然の激しさに畏れを感じているのだ。大きな自然の中で、私はあまりにも無力だった。

冷たい雨にどんどん体温は奪われていった。私は最悪の事態を考える。行動食はある。水もある。もしも一晩をここで過ごした場合、何が起こるだろうか。あまりにもこの遊歩道を甘く見ていたため、自分の名前をどこにも残してこなかった。そもそも、名前を記すためのノートなど入り口には置かれてなかった。ビジターセンターの人達も、私が帰ってこなかったことなど知る由もないだろう。何より、私はこのCanyonに生息する動物のこともよく知らなかった。こんなところで一晩を過ごすのはあまりにも危険だった。気温がどれだけ下がるかも見当もつかない。何か最善の策はないだろうか。私に出来る、最善のこと。私は震える手をもう一方の手で押さえながら考えた。暗雲の立ち込める太陽のない空では、西も東もわからない。

パリパリパリパリッ!!!!

私の頭上で、空が破れるような大きな音がした。激しい雨。恐い!!

私は雷の光とその音との感覚が、次第に近づいてきていることに気がついていた。つまり、雷との距離はそう遠くないことを示している。私の不安は的中した。表現しきれないほどの大きな音と共に、私の右肩の向こうで青白い稲妻が落ちた。

逃げよう、今すぐ!

私は走った。今来たと思われる方向へ。雷とは反対の方向へ。足元がどんなに悪くても、とにかく走った。遠く!出来るだけ雷から離れるんだ!早く早く早く早く!私は走った。背後の雷から遠ざかるのだ。早く早く早く。雷雲よりも早く私は走れるだろうか。私は後ろを振り返りたくなかった。立ち止まりたくもなかった。走って走って、転ぶのも厭わずにとにかく走った。両脇に焦げた木が見えたとしても、かまわず走った。私は泣きたくなった。

しばらく下って行くと、雨脚が弱まってきた。前方に青空が見えた。見覚えのあるアリのコロニーがあった。私は道に迷ってなかった。ちゃんと戻ることが出来た。雷は未だにゴロゴロいっていたけれど、目の前の青空が私の命を保証してくれているかのように見えた。私が歩いてきた道は、流れの激しい川と化していた。泥水が流れていくのを眺めながら、自然の激しさを目の当たりにした気持ちだった。

空気が暖かくなってきた。濡れた体もすぐ乾くだろう。
生きててよかった。死ななくてよかった。

私は雲の切れ目に見える青い空を仰いだ。心は感謝の気持ちでいっぱいだった。

何に対しての感謝なのかは、わからないけれど。

(つづく)


この時、私はやみくもに山を下ったのですが、ポーンと弾き出るように山から飛び出たら、なんと自分の車が停めてある駐車場に出たのです。駐車場は晴れていて、頂上の雷とのギャップに狐につままれたような気持ちになりました。

その後、私はモーテルに売っていた絵葉書を見て、ブライスキャニオンが落雷で有名なこと、そして土が赤いのは鉄分を多く含んでいるからだということも知りました。生きて帰ってくることが出来てよかったです。

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