「N=1発想」について考える
先日、敬愛する木村石鹸工業株式会社の木村さんのツイートに(勝手に)とても共感というか、インスパイアされた点を感じたので脊髄反射的に反応して、考えが未だまとまらないうちに下記のようなツイートをしてしまいました。
木村さんのツイートは、作家の高橋源一郎さんが『さようなら、ギャングたち』という作品を書かれた際に、同じく作家の吉本隆明さんたったひとりに向けて書いたというもので、そのことにシビレたわけなんですが、同時にふと、この「たったひとりのために」というフレーズが、昨今マーケティングの領域でにわかに人口に膾炙している「N=1」発想と同じことを言っているようでいて、根本的にちがうもんだよな、と感じたのでちょっと考えていみました。
N=1発想という言葉は、多くの場合「たったひとりが欲するもの」に応える、ことや、「たったひとりをどんな気持ちにさせてあげるべきか」を考え抜くこと、が、最大公約数的ニーズに応えることより大事だよ、という意味で用いられいるのではないでしょうか。
それは、たしかに間違ってないと思います。
誰にでも好かれようとして八方美人になってしまい、結局誰からも愛してもらえない製品やサービスがあふれる今の世の中で、熱心なファンが愛してくれる製品やサービスを考えようとすると、「たったひとり」に深く目を向ける姿勢はとても重要なことです。
しかし、「たったひとりが欲するもの」に徹底的に応えることは、そのひとに何をもたらすのでしょう。もちろん、そのひとはとても満足するでしょうし、すごく喜ぶと思います。
けれども、そのひと自身は何も変わらないのではないか、と考えてしまいました。
「意味のイノベーション」という概念を提唱したロベルト・ベルガンティは自著『突破するデザイン―あふれるビジョンから最高のヒットをつくる』で、人々を魅了するイノベーションとは「贈り物」であるべきだと言いました。相手のことを本当に大切に想って贈り物をするなら、相手に何が欲しいかなんて聞いてはいけないし、相手の好むもの以上に自分自身が本当に愛してやまないものでなければ相手も愛してなんてくれない、とも言っています。つまり、相手が好む贈り物はすぐに理解され、満足されるだろうけれども、相手にとっては贈り物をされる前の自分と比べて何ら変化することはないのです。
相手のことを想い、相手がより人生を経験するのに役立つ贈り物はいったい何かを必死に考え抜いたうえで、自分自身も心から愛することができるものを贈ることは、ひょっとしたらすぐに相手には贈り物の真意を理解してもらえないかもしれないというリスクもあります。
しかし、合理的で安易に相手を喜ばせるものではなく、相手の人生に責任をもつような覚悟で、自分自身が信念と勇気をもってする贈り物こそが、大切なひとの人生をより豊かで幸せにする可能性があるんだ、とベルガンティは考えているのです。
話を戻して、高橋源一郎は吉本隆明が欲するものに迎合しようとして自身の作品を書いたのでしょうか。
あくまであたし自身の何の根拠もない推測に過ぎませんが、そんなことではないでしょう。おそらく、当時の高橋源一郎にとっては「この作品を通して作家としての自分が何を言おうとしているか」「社会に何を問いかけようとしているか」を理解し、評価されなければならなかった相手が吉本隆明だったのでしょう。(すみません、何の根拠もありません。)
しかし、それがあからさまな方法(提案)だと意味がないのです。高橋源一郎は、相手の望むものではなく自分自身が本当に良いと信じることを作品として贈り、吉本隆明はそれを読んで次のように絶賛しました。
「現在までのところポップ文学の最高の作品だと思う。村上春樹があり糸井重里があり、村上龍があり、それ以前には筒井康隆があり栗本薫がありというような優れた達成が無意識に踏まえられてはじめて出てきたものだ」
作品という「贈り物」を介して、贈り手と受け手の間で互いに本気の提案と解釈が行われたわけです。
つまり、N=1発想という言葉が本来意味するものは、「たったひとり」が欲するものを聞いてそれに応える、というような安易なことではなく、
誰が自分にとって本当に大切な「たったひとり」なのか
その「たったひとり」に対して何を提案することが、そのひとを今よりもっと良い状態にしてあげられるか
その提案は、自分自身が信念と責任を持つことができるものか
を、覚悟をもって決意することなのではないでしょうか。
そんな覚悟は、生半可なことでできるものではないでしょう。それは個人レベルであれ、企業・組織レベルであれ、同じです。
だからこそ、必死に考え抜く。考え抜くための材料(データ)を集める。意思決定に関わる多様な関与者間で深く深く解釈を行う。信念をもってこれだと思える何かを見つける。そして、勇気をもって決断する。といった一連の営みを、半端じゃない気持ちで深めないといけないわけです。
ながらくマーケティングやデザインの世界では当たり前とされてきた、広く「顧客の声を聞く」タイプのユーザーリサーチから得られたニーズに応答していく製品開発やマーケティングのアプローチが行き詰まりを見せる中で、本当に大切にしたい「たったひとり」を深く扱うN=1発想は、これからその重要性を増していくでしょう。
しかし、N=1発想が意味するものが何だと捉えるか。
広く浅くではなく、深く絞り込むことにこそ真価が問われるのがN=1発想のキモだからこそ、言葉が示す意味、コンテクストについても、少し丁寧に考えてみました。
ちなみに、このまとまらない論考を書くにあたって学術的には「N=1発想」がどのように扱われているのかについて調べてみたのですが、残念ながら「N=1発想」とそれに類似するタームでの学術研究や学術的な定義について書かれたものは見つけることができませんでした。
ですので、あたしのこの論考もきちんとした学術定義や議論を引いたものではなく、あくまで単なる私論に留まっています。
けれどもN=1発想が志向しようとしている「たったひとりのために」というアプローチについては、きっと近接する研究があると思います。
折を見て、もう少し深く考えてみようと想っています。
現時点では、こんな中途半端で個人的なレベルの考え事ですみません。
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