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これまでのキャリア(自己紹介を兼ねて)

 某私立大学で働く教員です。専業非常勤も有期雇用常勤も経験しました。現在は無期雇用常勤職ですが、今後の自分の人生とこの業界の行く末に日々あれこれと考えます。
 増加するいっぽうの校務に追われ(来年度もきっと今と同じかそれ以上に忙しい。だいたいわかっている)、このままでは日々がまたたく間に、意識のないうちに過ぎ去ってしまう……と恐怖を感じ、大学で働く身として楽しいことをしたいと思いました。その記録を書いていくのが、このアカウントです。

はじめに

 わたし自身の研究分野は人文社会科学系です。また、現在の所属はいわゆるリベラルアーツ(教養)にあたります。ふだんほとんど気にすることはありませんが、ジェンダー・アイデンティティは女性で、女性として生きています。
 この記録を綴っていくにあたり、信頼できる同僚たちと一緒に、「大学女性教員の日常」というマガジンを作成しました。ぜひよろしくお願いします。
 以下より「である調」で失礼します。

大学教員になったわけ:「先生」になりたかったのか?

 職業柄、昔からよく「先生はどうして「先生」になったんですか?」「どうして「先生」になろうと思ったんですか?」と学生たちから尋ねられてきた。こうした質問の背景には「勉強し続けるなんて大変そうなのに」という思いがあるのだろう。
 勉強すること自体はおおむね好きだが、分野(科目)による。どうしても興味をもてない苦手な分野もある。おそらく、だから小学校ではなく大学で働いているのだと思う。
 かといって積極的に「先生」になりたかったのかというと、そんなわけではまったくない。他にもいろいろなルートはあるが、わたしにとっては大学で職を得るルートが、研究する環境と研究費を確保する=好きな活動をすることができる道だった。わたしの分野での大学の仕事といえば、ほぼ「授業」か「校務」の2択。授業を担当する「先生」と学内委員会や学科業務を引き受けることで、研究室と研究費、研究日をもらえる。
 とはいえ、季節にかかわらず土日はオープンキャンパスやら入試やらで埋まっていき、長期休暇中は公開講座や学生活動の引率などをするので、年間を通して研究活動は二の次三の次になる。しかし、「先生」業をしなければ研究をすることもできない(……と、今のところそう見込んでいるけれど、どうなのだろう。そうでなくなるかもしれない)。
 いろいろな授業をする「先生」になったのはある意味、こうした業務との交換の結果であって、それを目指してきたかというとちょっと違う。「どうして研究しようと思ったんですか?」「研究職に就こうと思ったんですか?」と尋ねられれば答えられるけれど。

好きなものしかできない種類の人間

 わたしが通っていた大学の学部は社会学系で、第一志望だったが、わくわくする授業もあれば今ひとつピンとこない授業もあった。学部生なので、卒業するためには124単位を取得しなければならない。わたしは自分が興味をもった授業をできるだけ受けたかったので(さらに教職課程も履修していたので)、一般教養科目や他学科開放科目も含めて、4年間で160単位くらい取得した。しかしそのなかには、興味はないけれど卒業のためにどうしても単位をとらなければならない専門科目もあった。
 もっと本格的に「勉強」できる環境であれば、自分のしたいことを好きなだけ追求することができる。わたしは自分のことを〈向き不向きがはっきりしている人間〉だと分析していたので、大学院に入ればもっと好きなことだけをできると考えた。たった4年だけで深く学べたとは思えなかったし、大きな声では言えないが、就職もしたくなかった。。。のである。同級生やサークル仲間は続々とインターンシップやら企業説明会やらにエントリーしていたが、わたしはとりあえず流れに乗ってみるだけで、結局選考も大して進まなかった。
 ちなみに、親しい友人が卒業後に自由業や専門学校進学する人たちだったことも、「したいことを好きなだけ追求することができる」思いの保持につながった。企業への就職だけが人生じゃないよね、と。

 そんなわけで学部卒業後は大学院に「入院」した。入ったからには博士後期課程まで進むつもりだったので、前期課程(修士課程)でも就職活動を一切しなかった。それくらい、自分のしたい勉強を自分の時間で好きなだけできる5年間は最高だった。こじんまりした大学院だったので、研究業績を上げなければと追い立てられることがなかったのも良かった。
 が、「追い立てられない」ということは、逆にいえば自分でしっかり研究と将来の計画を立てる必要があるということ。正直、大学院を出たあとのことはほとんど見ようとしていなかったし、どうなるのかも知らなかった。キャリア形成のために何をするべきかもわかっていなかった。学会発表などで知り合いが増えるにつれてようやく、院卒後にどうやって生きていくかのモデルケースを知れるようになったのだった。そのときすでに、博士後期課程の真ん中……。
 好きなこと=研究を続けるためには、仕事をしてお金を稼ぐ必要がある。相応の環境も必要だ。のんびりと好きなことだけ追いかけていたら、後期課程3年間で博士論文を出すことができなかった。それでもわたしはのんびりしていて、博士課程に在籍し続け「院生」のままでいてもいいのでは……と思っていた。しかし。

「先生」の始まり

 後期課程の3年目、主査の先生から「教歴を作りなさい」と指導された。わたしが所属していた大学院は後期課程を出ると、契約期間は決まっているものの、同じ学部の非常勤で授業を各期1コマずつ担当できるのである。博士課程にい続けては、その枠をもらえない。また幸いにも同期にあたる院生が一人もいなかったので、院を出ればかならずその枠をもらえることもわかっていた。
 先生には、大学の授業を担当した実績があることは今後のためにとっても大事だよ、と指導いただいた。研究費を獲得するには、大学などの研究機関で職を得なければならない。そもそも研究機関の所属がなければ助成金にも応募できないからだ。日本では、研究するためには「先生」にならなければならない(今なら在野の道などもあるとよくわかる。当時は本当にこの業界のことが見えていなかった)。きっちり3年で博士号をとって帰国していく優秀な留学生も何人かいたので、指導教員は、こいつはずるずると院にいるといつまで経っても博論を出さないんじゃないか? と心配なさったのかもしれない。
 そんなわけで後期課程を3年で退学し、初めて「先生」と呼ばれる仕事に就いた。ここが人生のターニングポイントとなったのである。

大学教員のキャリアは見えづらい

 その頃からおよそ10年たった。いろいろな非常勤や有期雇用を経験したので、それについてはまた改めて記事にしたい。
 わたしは、女性研究者/教員の人生やキャリアプランをとても知りたい。それぞれの考えや環境、受けてきた教育などによって、人生は千差万別である。一口に大学教員といっても、立場も業務内容も違うだろう。
 しかしわたしは、他の研究者/教員たちが、どうやって生きているのか? 日々どのような仕事をしているのか? そもそもどうして大学教員になったのか? ということをほとんど知らない。共同研究の仲間も含め、同業者とそんな話をした経験もあまりない。だからこそ、自分のしていることと他者がしていることを知りたいのである。
 また、もしも今、研究をしたい・大学教員になりたい人(とくに女性)がいたら、ああ、こんな人もいるんだね……と思ってもらいたい。役に立たないかもしれないが、ひとつの例として読んでもらえたらありがたい。

★ ロザリンド・ギル著、児島功和・竹端寛訳「沈黙を破る : 新自由主義化する大学の‟隠された傷”」『山梨学院大学法学論集』(87)、2021、pp. 395-431 を読んだことも、発想のきっかけになっている。

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