わからないを、わかりたい

ある日、子が通う保育園の活動で、保護者が参加して子どもと共に簡単な工作をするというものがあった。
その日は私とパートナーも参加していて、イベントの中の一部の時間だったので、制作に充てられた時間はわずか5分程度。これといった説明も無いまま始まったが、どうやら事前に子どもたちは同じ物でいちど予行演習をしていて、今日は再び同じ物をつくる。その作り方を子から保護者へ教えてあげる、というような趣旨だと理解した。

配布された材料の中に、この工作の肝であるだろう素材があり、それはある飲料の廃材で、表にりんごの写真があり、裏側は無地だった。
子と、同じテーブルにいた子の友達は、その写真を見て「りんご描く!」と言い、材料のうちの一つである白い画用紙にりんごの絵を描き始めた。

作業を進めていうち、この年齢には難易度の高い工程であることが分かり始める。うまくできず、苛立ち始める子どもたち。そこに先生があれこれ手出しをしている様子が散見された。

この時点で私のテンションはかなり下がっていた。
まず、子どもが何かをトライしているとき、大人がすぐに口を出したり手を出したりせず、子どもを信頼してじっと見守ることが保育のスタンダードだとおもう。プロである保育者たちがこういう態度で普段も接しているのか、疑問に思っていた。

そもそも「全員で全く同じ形の完成物を目指して作る」という行為自体も好きではない。なぜならプロセスではなく「より見本に近い物を作れたか」という結果のみに重きが置かれるからである(そしてそれは「自分のほうが上手にできた」とか他人と比較や競争をする手段にもなり得る)。
その証拠に、作る過程で先生から「もっとこうしたほうがいい」というような言葉が聞かれたり、また親たちもそれを目指すために、せっかく子どもが試そうとしていることにブレーキをかけ、「もっとこれは長いほうがいい」「早く次の工程に行かないと」などと頭ごなしに急かすような声がけになってしまっていた。

そして、そろそろ(先生が目指す)完成形に近づいたころ、最後の仕上げに例のりんごの写真の廃材を、先ほど絵を描いた画用紙にのりで貼り付けるという工程になり、その画用紙にりんごの絵を描いた子どもたちは、当然のように廃材の無地側にのりを付けようとしていた。りんごの写真が表にくるように。もしくは単純に、りんごの写真が美しいとか、好きだと感じる心だったり、柄があるほうが素敵、みたいな感覚だったのかもしれない。

しかし、先生方の思惑としては、写真が印刷された元・表側は”商品だった過去の姿を表す俗っぽいもの”と言わんばかりの認識で、無地の白地のほうを表面にすることが正しく、同じように白い画用紙と貼り合わせることで、両面とも白色で統一することが”美しい”とされるようだった。
別のテーブルについていた先生が「あーそっち側にのり付けちゃったか、、まあいっか!」と言うのが聞こえ、それにも衝撃を受けた。

いや、どっちにのりを付けようが、子どもの好きなようにやらせればよくないか。子どもが何を美しい、素敵だと思うかは自由ではないか。なぜ写真がある方を表にしたのか、その背景に心を寄せるのが保育者や大人がすべき姿ではないだろうか。
仮にその行為が”間違って”いたとしても、そんな声の掛け方はないのでは? その言葉の裏側には「あーあ何も考えずにそっちにのりを付けちゃって」とどこかで子どもを下に見ているのではないか?
そして、そんな風に言われた子どもは「上手にできなかった、失敗してしまった」と思って自尊心が傷つくのではないか。
実際、その制作物はどっちが表になってようが外観の問題だけで、その機能に全く支障はなかった。

とはいえ日頃から園内に掲示されている制作物も「みんなで一斉に同じ形のものをつくる」だし、どうせそんなもんだよな・・・と思っていたところ、
私の目の前で、今まさにそんな先生たちと同じように、パートナーが子どもに向かってこう言った。
「のりを付けるのはそっち側じゃないらしいよ」

これまでの工程でモヤモヤがピークに達していた私は、
間髪入れずにこう言った。
「どっちでもよくない?」と。

そして、その制作物は、りんごの写真を表にしたまま完成した。
それをみんなで見せ合うような時間も特に設けられず、その後のレクで保護者が各々少し使って、イベントが終わったらそのまま自宅に持ち帰った。


帰宅してから、どうもパートナーの口数が少ない。声をかけてもあまり反応がない。こういうときは大抵、私がうかつに発した言葉が引き金になっていることがほとんどである。

すぐに揃って出かける用事があったので、さすがにこのままの空気は気まずい。何より、これだけ長い年数一緒にいて、もうそろそろ、お互いが気になったことは気軽に伝え合える関係になりたい。こういうとき彼は無言になり、シャッターを閉めて自分の世界に閉じこもってしまうのが常だが、彼には悪いが今回は無理やり、おそるおそるこじ開けた。

すると、「さっきの言葉が気になった」と。

私は何のことが全く心当たりがなく、これ以上つついたら怒るかな、、と思いつつ、相当言いたくなさそうではあったが、勇気を出してさらに掘り下げさせていただき、ようやく私の言い放った「どっちでもよくない?」が原因だったことを教えてくれた。

途端、彼は激昂して(それでも自分なりに抑えていたように思う)、
「完成図も知らないくせに」「先生がそう言ったのをそのまま伝えただけだ」「そんなことを言っていたら協調性がない変なやつに育つ」「ルールを無理やり逸脱させようとしている」と次々と口にした。

正直、(そんな風に感じ取る人もいるのか・・・!)と衝撃を受けた。
とはいえ感情をぶつけてしまった面もあったし、私の一連の心の動きは伝わっていないわけだし、そもそも子ども観や保育観についてほとんど対話してこなかったな、、と反省もした。
まずはじめに「無自覚に傷つけてしまってごめんね」と謝った。

そして、発言の意図を説明し、
「とはいえ、もっと言い方があったと思う、ごめんね。」と伝えた。
すると彼はこう返した。
「だったらそれを人に言ったりやらせたりせず、自分の中だけで完結させてほしい」


わからなかった。
それから今日までずっと考えているけど、
考えれば考えるほど、理解ができなくなっている。
たしかに、私は自分の考えが自分の中で最高になってしまっていて、相手の考えを推し量る余地が欠けていたのかも、、ということは、確かに思った。
けれど、私は相手にも、違った考えをもっと教えてほしいと思うし、そこからあたらしい気づきをもらって、変化してゆくことは受け入れたいと思っている。それすらも、押し付けがましいことなのか。


家族でも夫婦でも友達でも、考えや価値観は違って当たり前で、わかり合おうなんて思っていない。
「ちがう」ことを認め合う。そのために対話を重ねて「そういう考えもあるんだね」とお互いを尊重し合える関係が理想だ。
(あくまで理想で、実際は全然できていないのが現実ではあるが)

彼にとっては、自分のなかでひっかかる部分を、誰にも打ち明けず自分で我慢したり飲み込んでいく作業が通常運転なのだろう。だからそれを、相手にも求める。

そして何より気になったのは「みんなで一斉に同じことをやる行為」に何の疑いも持たず、少しでもはみ出そうもんなら彼にとっては「変なやつ、協調性がないやつ」と認定されてしまうのか。あれだけ日頃、テレビやYouTubeで『何か一つに特化した”変なやつ”』の番組やタレントばかりを好み、インディペンデントな芸人や経営者をリスペクトしているかのように見えたのに。自分の子どもだから?それとも、子が女性だから・・・?

もしくは「子ども」という存在の捉え方が圧倒的に違う可能性も考えられる。極端に言うと、私にとっては『あらゆる感性が大人よりよっぽど敏感で、世界に対する見方がフラットで、可能性に満ちた頼もしい存在』なのだが、
彼にとっては『大人がケアして、手取り足取り教えてあげて、まだ何もわかっていない弱い存在』なのかもしれない。もちろん、どちらの側面もあるとは思うが、根本が違う気がしている。


もうひとつ、彼の言う”変なやつ”とはどんな人を指しているのか。
その翌日に、市井の人々が多数出てくるテレビ番組を一緒に観ていたとき、ぱっと見た印象で「うわ〜独身っぽいな・・・」「⚪︎⚪︎(地域名)っぽいわ〜」「⚪︎⚪︎線(路線名)の人たちとは仲良くなれないわ〜」などと発言していた。そういう人が、変なやつなのだろうか。

地域や婚姻の有無や見た目の情報だけで簡単に差別、偏見を持ってしまえる人なんだろうか。こんなこと言うタイプだったっけ。それとも彼は変わっていなくて、私のほうが、以前より敏感に感じ取るようになっただけなのか。(もちろん私にも、さまざまな方向で無自覚に差別や偏見をしてしまっている部分はあると思う)

パートナーは、住まいは今の地域から離れたくないと何度も言っている。教育や就職に有利という趣旨の発言も過去にしていたが、
都心で生まれ育ち、都心に住み続け、結婚して子どもがいる自分は
「変なやつ」ではないという認識なのだろうか。

少し前、私が「海外に住むのも興味がある」という旨を話した際、「欧米はアジア人差別がすごいからキツイらしい、子にそんな思いはさせたくない」と言っていた。差別されるのは嫌だけど、差別するのは良いのだろうか。


彼の性格上、そして今の多忙な生活を彼が続けている以上、互いのさまざまな考えや価値観について、そして子どものこれからについて、ゆっくりと対話できる時間は訪れないように思う。(本当は月1でもいいからそういう時間が欲しい。子どもが産まれる前から何度も提案しているが、いまだにそれは叶わない。言い合いになったときは、私と意見交換すると自分が否定されたように感じる、どうせ自分が悪いで話が終わるから話す価値がないと言われてしまい、しつこく言い出しにくい部分もある)

この数日で生まれた、彼に対するたくさんの疑問。
あの日以降、この件において直接話せていないから、一方的な誤解もきっとあるだろう。
だとしても、もしかしたら根本的に、なにか決定的に、どうしようもなく違っている部分があったとしたら、それが一人の子どもを育てていくうえで、どうやって折り合いをつけていくのか。
子どもがまだ自分で判断できない年齢のとき、自分の意見を言いづらいとき、進学や引っ越しなどお金がかかる決断をするとき。

私たちは一体、どうやって同じ道を歩んでいくだろう。

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