産後4日目にくも膜下出血で救急搬送された話①

はじめに

2019年7月に第一子を出産し、産後4日目で救急搬送され、その後3週間強入院。そこから回復し今に至るまで、の話をここでは病気にフォーカスしてダイジェスト版でお届けします。詳細版はまた追って書きたいなと。

これを書いている現在、2020年6月中旬。退院したのが去年の8月中旬なので、やっと文章にできるメンタルと体力に戻るまで10ヶ月かかった。誰かの役に立つんじゃないかと早くまとめたいとずっと思っていたけれど、当時のことを思い出す作業が辛かった。時間薬と言うけれどまさにそうで、時が経つにつれ、その日々が遠くなるのと比例して辛さも減ってきた気がする。大きな病気や事故、災害など、身体や心の大きなショックを経験した人はみんなこのトラウマを抱えているんじゃないだろうか。

ちなみに今もまだ、その病名を聞いたり文字面で見るのはしんどいのです。気軽に病気の件に触れてくる人たちよ、実は毎回結構えぐられるのでどうかそっとしといてくれ〜。テレビで脳外科モノのドラマとか再現VTRも流す前に注意喚起のテロップ入れてほしいくらい。いきなり搬送されるシーンとか、手術室の画とか突然映るのほんと勘弁してほしい。血や脳を連想させる色々も無理。赤い服は最近ようやく着られるようになった。救急車の音はやっと少し慣れた。体も心もかなりマシになったけど、このトラウマとは今後も付き合っていくことになると思う。

私の基本情報

・初産

・妊娠当時35歳、身長162cm、体重47kg(出産直前+10kg増加)

・主な既往歴は無し。30歳のとき卵巣嚢腫(良性)の摘出手術の経験あり。

・人間ドックは毎年問題なし。血圧は若干低め。たまに貧血気味と指摘されるのと、引っかからない程度に白血球の量が多いけど今回の件とは関係なさそう。とにかく普通に元気。

・仕事はメディア関係(でした)。夫はWEBメディアの編集者、4歳年下。

妊娠中は超順調。

・つわりは軽いほうでした(主に食べづわりだったので吐くことは一度もなく、食の好みは変化したけどモリモリ食べてた)。

・体重増加も問題なし、血圧も異常なし、胎児の成長も順調。

・病気、感染症なども一度もかからず。夫婦でメチャクチャ気をつけていたので、妊娠していた間、私がたまに風邪気味なことがあったくらい。

・自然分娩でした。無痛分娩とむちゃくちゃ迷って講習まで受けたけど、どんだけ痛いもんなのか試してみたい気持ちもあり、自然を選択。

・予定日から一週間遅れの出産でした。産まれたときは約2800gの平均的なサイズ。

臨月〜出産当日

臨月になってから出産までの一ヶ月は若干寝不足だったと思う。大きなお腹のために寝返りが打てず寝苦しかったり、胎動の激しさや痛みで起きたり、巨大になった子宮に膀胱が圧迫されるので夜中に何度もトイレに行きたくなったり。でもこれは多くの妊婦が経験することで、私は短時間でも熟睡できて寝つきも良いタイプだったので、そこまで気にしていなかった。

予定日から5日過ぎた日に「おしるし」(ちょっと出血するやつ)があり、翌日の夕方頃、ついに陣痛が始まる。まだ我慢できる痛みだったので、一旦床につくも、夜中耐えられなくなって4時前に目が覚める。

そのまま眠れずに朝を迎え、陣痛の間隔が10分以内になったので病院に電話するも、もう少し様子をみるように言われ自宅待機。どんどん強くなる痛みに耐えながらやがて18時を過ぎ、陣痛の間隔が5分前後になったので再び病院に電話すると、ようやく来てくださいと言われる。のんびり準備していたらあっという間に時間が経ち、陣痛タクシー(日本交通で事前に登録しておいた)を呼んで病院に着いたのは19:45頃。タクシーの中で陣痛に耐えるのが辛かった…。病院の中に入ってからも、途中、痛みで何度もしゃがみ込みながら、ゆっくりゆっくり歩いて診察室へ。内診すると既に子宮口が5cm開いているとのことで、そのままLDRへ移動。

いよいよ出産

20時ごろ分娩台に上がる。ここからは子宮口が全開になるまでひたすら陣痛に耐えながら「いきみ逃し」をする地獄の時間。これがめっちゃくっちゃしんどかった……。やがて0時を回り、ようやく子宮口が全開に。いよいよいきみタイムへ突入!するもこのいきみがまた難しく、1時間くらいで出てくると言われていたにも関わらず、2時間経ってもまだ出る気配がなく、すっかり疲れてしまいいきむ力が弱くなり、足もガクガクに。

結局、最後は陣痛促進剤を打ち、吸引をかけ(サラっと書いたけど吸引カップを膣の中に入れるのもまた激痛!)、会陰切開し、強引に引っ張り出してもらい、ようやく子、誕生!! このとき午前3時半くらいだったので、前日の夜中からちょうど24時間寝ていない状態。お産にかかったのはおよそ8時間でした。

そこから入院生活が始まるのだが、産後5日目で退院するのが一般的なのだけど、無知な私はその間ゆっくり休めると思っていたんですよ……。それがまず大きな間違いだった。

産後1日〜3日目

出産直後は産後ハイってやつなのか、体はボロッボロに疲れているなか(よく交通事故に遭った後とかフルマラソン直後と例えられますよね)、子をしばらく見つめたり出産の余韻(痛みと疲れで感動に浸る余裕は無く、やっと終わった……という思い)なのか、そのまま寝ずに朝を迎えたのだけど、

母子同室の大部屋だったので、やっと少し眠くなってウトウト……した矢先に別の方の赤ちゃんの泣き声で起こされる、もちろん我が子もすぐ泣くので眠れない、24時間体制で2〜3時間毎の授乳があり(慣れてないから授乳だけで30分以上かかるのでその間もまとまって寝れない)、さらにオムツ替え、排泄物の処理、着替えなど慣れない子のお世話がとめどなくあり、自分の検温や血圧測定で呼ばれる、日に三度の食事でも起こされる、また子や自分の健診や検査だなんだと、とにかくめまぐるしく一日が過ぎてゆくので、全く寝る時間が取れなかったのだ。

そして、体力的な限界だけでなく、精神的にも限界がきていた。

訳のわからないまま助産師さんたちに怒られながら(勝手にそう感じてた)母乳を捻り出す作業。これが全っ然出ないうえ、出す母&飲む子が初めて同志で上手くいくはずがなく、泣きわめく我が子にオロオロ。そして母乳は出さないとどんどん胸が張って硬くなり、痛くて熱くなるのが苦痛だし、会陰切開で切って縫った後の膣もお尻も痛い(常に円座クッションが手放せない)。

子の世話も、自分の身体の変化も、何もかもが初めてで常時パニクっている中、プレッシャーとストレスで押し潰されそうになりながら、睡眠が取れないことでさらにメンタルがやられ、産後でホルモンバランスも乱れているなか、心と体が休まる時間が全くない状態。

気づいたら「産後3日間の睡眠時間がトータル3時間」という異常事態になっていた。つまり、1日1時間しか眠れていなかった。

しかし、そんな状況を想定していなかったので面会も詰め込みまくっていて、それに友人や親戚が会いに来てくれると嬉しくて、そのときばかりは一時的に疲れが吹っ飛んだ気がしていた。けど、今思えば睡眠を最優先するべきだった。

同時期に出産した友達が、出産直後の状態を「無免許でいきなり高速道路に放り出された感じ」と例えていたけど、もうまさに。今にも死んじゃいそうな弱々しすぎる新生児を目の前にして、この子を守れるのは自分しかいない……! と(思い込んでしまう)恐怖。

産後3日目、面会に来た夫の胸に顔を突っ伏して

「何もちゃんとできない……」

とボロボロ泣いたことを覚えている。

初めて入った会社で24時間怒られっぱなし、上司や取引先からのクレーム電話が夜中も常時鳴っているみたいな感覚。

さすがにこのままではヤバイ、とやっと気づいた私は、この日、大部屋から個室に移動する。また私の産院は個室でも原則母子同室だったのだけど、日に1〜2時間だけ助産師さんに子を預けて体を休める時間を作るようにした。(預けている間も授乳タイミングで呼び立てられるので、ゆっくりはできなかったのと、自分が子の世話をできないダメな母のように感じられてる罪悪感がひどかった)

そしてその夜。急に寒気が全身を襲い、震えが止まらなくなるという異変が。体温を測ると35度台前半。ナースコールを押し、看護師さんに電気毛布を持って来てもらい、体を温めると一時間ほどで元に戻る。ガチガチに張って熱くなった胸を冷やすために、両胸にアイスノンを当てていたので、そのせいかもね〜という結論でその日は終わった。

産後4日目

いよいよ明日は退院日。お昼ごろに私の健康診断が行われ、尿検査と採血をするも、いずれも異常なし。相変わらず眠れないものの、体調も特に変化はなく(精神的にはずっとまいってるけど)、昼食に出た出産祝いのステーキもペロリと平らげた。

ところが夜20時頃、突如として経験したことのないとんでもない強さの頭痛が襲う。慌ててナースコールを押すが、すぐに来ない看護師さん、さらに強くなる痛み。出産以上に痛いことはもうないだろうと思っていたけど、それを上回るほどの耐えられない激痛で、痛すぎてじっとしていられず、少しでも痛みを紛らわすために頭を動かしたりさすったりしながら唸り声をあげ続けていた。

やっと看護師さんが来て体温、血圧を測るも異常は無く、とりあえずロキソニンを渡されるも、飲んで30分経っても全く痛みが治まらないどころか、痛い箇所が徐々に広がっているような、移動しているような感覚に。

看護師さん達は皆経過観察しましょう、という雰囲気だったのを、絶対普通じゃないからどうにかしてくれと頼み込み、痛みから1時間ほど経った頃、CT室へ運ばれる。ちなみにその間、痛すぎて体を起こすこともできなかったので常にストレッチャー移動。

ここから少し記憶が曖昧なのだけど、その後自分の部屋に戻ったのか、CT室の近くの小部屋?でCTの結果を待っていると、たまたま病院にいた外科担当の先生が慌てて戻ってきて

「くも膜下出血だ!」

と叫んだのが聞こえた。

くも膜下出血発症〜救急搬送

その言葉が信じられなくて、絶対そんな訳がないと思いたいのと、絶対に助からなければいけないという気持ちが湧き上がってきて、なんとなく意識を失ってはいけないような気がして、痛みに耐えながら「絶対大丈夫……絶対大丈夫……」と呪文のようにつぶやき続けていた。脳出血の場合、強い光と音が良くないらしく、また自分でも眩しさに耐えられない感覚があったので、目の上にタオルを乗せられていたので景色はあまり見えなかったのだけど、夫が焦り出しているのがなんとなくわかった。

その間、おそらく10人近くの色んな科の先生に囲まれながら、血圧計、酸素濃度を測る器具、点滴、など色々な処置をされながら救急車を呼んでもらうも、なかなか受け入れ先が見つからない。

私が出産したのは全国でも有数の小児医療専門の病院だったので、CTの設備があったことが幸運だったのだが、脳外科はさすがに専門外なので、受け入れ先が決まるまで先生たちがめちゃくちゃ焦っていたのが見えないながらも感じられたので、逆に私が冷静になれる部分もあり、こちらから処置の確認を促した記憶がある(何様……)。そんな中、脳外科に明るい先生がたまたま現場に居合わせたことも幸いし、頭を動かしてはいけないとか、血圧を安定させるための処置などをてきぱきと指示してくれていた。けれど、その先生が「くも膜下出血は死んじゃう病気だよ〜」って呑気に言ってきたのでめちゃくちゃ頭にきたのも覚えている。

そうこうしているうちに、30分以上経っただろうか。ようやく受け入れてくれる病院が見つかり、救急車の中へ運ばれる。初めてだったのでほんの少しだけ興奮しつつも、このまま死んじゃうかもという恐怖をどうにか拭いたくて平静を保つために、また意識を失わないように(あくまでなんとなく)、産院から一緒について乗ってきてくれた数名の先生たちと、運ばれている間ひたすら喋り続けていた。(本厄だったのに厄払い行っとけば良かった〜とか、子供の名前もう決めた?とか、切迫した状況と相反するほのぼのトーク。笑)

頭を揺らさないために車の速度がゆっくりだったのと、少し離れた病院だったので40分くらい走っていた気がする。その間に痛みは少し和らぎ、「今この道路を知り合いが歩いているかもしれないな、まさか私が乗ってると思わないだろうな〜」とか、「せっかく子が産まれたばかりなのに死んでたまるか、あんな場所やこんなこと一緒に行きたいやりたいんだ」とか考えていた。

<つづく>

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