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『聖トマスの夏』 (3/3)

「おい、大丈夫か?」とほっぺたを叩かれ気がついたときには、窪地から引き上げられ、池みたいに水を湛えた堀の側で寝かされていた。

「この水きれいだから吹いといたよ。さっきはビックリしたけど、血は止まったし、傷も大したことなかった」と、タケシはボクを安心させようとしている。
そういえば、耳もちゃんと聞こえている。
少しは安心したけれど、頭がガンガンしているし、息苦しい。
それに、何としても暑い。異常な暑さに思えた。
体の中が燃えているように暑い。

「今日は、これで止めにして、ちょっと休んで帰ろう」
「場所はわかったから、またいつでも来ることが出来る。お前が嫌じゃなかったらな」
とタケシが言った。

そして、ボクに水筒を渡すと背を向けて、堀を覗き込みながら淵に座って話し出した。
「さっきの話な、あれ嘘だから、忘れろ」
水面に向かって話しているようだった。
「オレな、本当は斉藤先生が好きなんだ」
「・・・」
「いつか放課後二人だけになった時、いきなり先生に抱きついたんだ」
「そしたら、先生、黙ってそのまま目をつぶったんだよ」

ボクはそこで、体内の熱が頂点に達した。

獣のように飛び起きると、背後から思いっきりタケシの後頭部を蹴り上げた。
タケシは、そのまま前のめりに水中に沈んでいった。
まるでスローモーションを見ているようだった。
タケシは、もしかしたら気を失ったかもしれない。
体に力みがなく、ヌルリと、頭から逆さまに水の中に入っていく。
不思議に水音がしなかった。

見ると、本当に魚が水中で身をくねらせるように、柔らかく、なめらかに身をよじらせると、白目でこちらを見上げたようだった。
口の端からプクプクと泡を出しながら。

ギョッとして、
ボクは、一目散に来た道を引き返した。
滑っては転び、飛んでは滑り、何度も腰を打ったが、どこにそんな力があったものか、野を駆ける獣のように走り抜け、自転車に飛び乗って急いだ。

どうしようというのか?
自分でもわからなかった。

地の底から湧き上がってきて背中に張り付いて離れない恐ろしい確信の囁きが聞こえる。
「タケシを殺してしまった」。

「あぁ。どうしよう」「神さま、ボクはタケシを殺してしまった。でも、あんな話をするからだ。ボクは許せなかった。あぁ神さま」
と煩悶を繰り返しながら、半べそかいてペダルを漕いだ。
町外れまで来ると、
「ドンドン・ドドンド・ドン」
と腹に響く太鼓のリズムに、合いの手を取るような甲高い笛の音が聞こえる。

そうだ、今日から夏祭りだった。
ボクは自転車を降り、縁石に腰掛けて頭を抱え、ジッと行列が通り過ぎるのを待った。
知った顔の人たちが、みんな祭り装束で楽しそうに通り過ぎていく。
その長い隊列が、町外れまで行ったところで、今度は折り返してくる。
長い煩悶の時間となった。
すると、行きの隊列では気付かなかったが、列の中程で斉藤先生と石田先生が組踊りをしている。

斉藤先生が踊りながら
「あら、和宏君。どうしたのそんなところで座って」と、ボクを見つけて声を掛けてきた。
ボクは、二人のその楽しそうな笑顔を交互に見て、頭が混乱してしまった。

ちょうどその時だ、背後から肩に手を掛けられた。
「カズ、どうしたんだよ。オレを置いてきぼりにしてさ」
と、タケシだった。
ちょっと川で泳いできた、とでもいうように全身濡れ鼠だが、夏休みはいつもそうだから、誰も不思議には思わない。

ボクは、そのまま硬直して背後にバッタリと倒れ、身動きが出来なくなってしまった。

誰かが、叫ぶ。
「ハクランだ! ハクラン起こしたぞ!」
祭りの行列の中から何人かが寄ってくるのが見えた。
心配そうな斉藤先生の顔もある。

ボクに意識はあり、聞こえていて、周りの状況はみんな見えていた。
だが、周りの人たちには、ボクがどこか別の世界に行くかに見えて、それを必死に呼び戻そうとしているのかもしれない。

その時ボクは、「もし今、自分の意志で決定できるのなら、みんなのいる世界に帰りたい」と思った。


(夏の了)


”人間の行動の大部分は、感覚の盲目的な欲望の命じるままに従い、星の決定にゆだねられている。”
・・・聖トマス

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