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【小説 喫茶店シリーズ】 Ⅰ. 純喫茶「風車」 (vol.2)

日曜の朝、本屋さんのブックカバーで偽装された本
(その日は、ドストエフスキーの「罪と罰」だった。これは、中学の始めにリーダース・ダイジェストの定期購読者特典で手に入れた宝物の一つだった。エンジの地に金の型押しで装飾を施された立派な特別革装版で、これが欲しさに、祖母に頼み1年間の定期購読を申し込んでもらったものだった)
それといつもの、母のおにぎり3個をカバンに入れて家を出た。

ほぼ開店時刻の10時には店の前に着いた。

トントンと階段を上っていくと、踊り場で反転する際に、降りてきた人間とぶつかりそうになってビックリした。
開店早々に客がいるとは思わず、慌てて壁面に手を突き半身のまま、落ちていくように階段を降りて行く黒い後ろ姿を見送った。

そして、「なんだよ」と思いながら、初めての喫茶店に入っていった。

「あっ、やっぱり・・・」と、目を上げたその人は声を発しかけて、人違いだと気づき、そして気まずそうに「いっらっしゃいませ」と小さく続けた。

まだ二十代だと思われる女の人が一人、カウンターの中に立っていた。

気まずい感じは、こっちの方も同じで、とっさに、今出ていった男のことか?
と分かったが、このまま出ていくわけにもいかず、「初めてなんですけど、いいですか?」と言って(こんな断り言って入る客もいないだろう)中に入っていった。

その喫茶店の室内は、床も壁面も白木造りで、天井は高く、変に高すぎる天井だった。それに、手の届かない程の高いところに小さな窓が2面あって、そこから朝日が差し込み、太い2本の光線の柱が、まるでこの建物に無くてはならない建築部材の一部であるかのように、広い空間を斜めに支え、緊張を和らげているようだった。
建物の外観からは想像のつかないほど、中は明るく、清潔で、思いの外広い、そして天井が高い。
ある種、教会のような荘厳さが漂っていた。
フロアーには、白木の大きなテーブル4卓、それぞれにベンチ椅子が2脚ずつ、そして、カウンター席が6席。
それらは、あたかもチャーチチェアの趣で、整然と礼拝者を待つように置かれていた。

もちろん、客は誰もいないので、一番奥のテーブルにしようとカウンターの前を通ると、「ごめんなさいね、変な声掛けて」続けて、「ここ一人なので、お水はセルフなんです」と言って、カウンターの端に置いてあるウォーターサーバーを差した。
「あ、はい」と僕は水を持って席に着き、そしてメニューを見るまでもなく、決まり事のようにクリームソーダを注文した。(もしメニューに無かったら恥ずかしいところだったが、「純喫茶」なんだからきっとある筈だ)
彼女がそれに応えて、ちょっと「クスっ」と微笑んだ時、口元からチャーミングな八重歯が覗いた。
僕は、赤面した(と思う)が、真面目な顔して本を開いた。その本は二度目だから内容は分かっているが、のっけから、底辺に暮らす人間達の生き様がグロテスクに蠢きだし、いましも可哀想なソーニャが、初めての”その稼ぎ”から帰り、黙って銀貨をテーブルに並べたところ。

その時いきなり、思いがけない大音量で音楽が掛かった。大音響と言っていい。それも、ロックだ。

メロディーは知っている。これは『朝日のあたる家』だ。
しかし、アニマルズではない。
重いハーモニーとリードギターはもっと現代的だ。
何だろう、と振り向いたと同時に、彼女が「おまちどうさま」とクリームソーダを持ってきた。
目の前に置かれたクリームソーダ水のメロン色が、朝日のスポットライトを受けて神々しく泡立っている。
この高さがあって広い空間と、そこに響き渡る音楽がすばらしくマッチして、本当に、教会に鳴り響くフーガのようだった。

「すみません。これ誰の曲ですか?」と訊くと、彼女はそのLPジャケットを持ってきてくれた。

Geordieの『朝日のあたる家』だった。
初めて見る。(ダサい)
ライナーノーツを出して読んでいる内に、曲がコテコテのロックへと移っていき、ちょっと白けたが、
「しかし、この『朝日のあたる家』はいいなぁ」と、ジャケットを返す。
「気に入った?嬉しいわ、わたしもこれ大好きなの」と、例の八重歯で微笑んだ。
 そして、「君、高校生でしょ? ここ来ちゃいけないなんて言わないから安心して。何読んでるの、見てもいい?」と言うや、本を取り上げ「へぇー。すごい!ドストエフスキー」、「罪と罰ねぇ、読んだことないわ。どんな話?」と続けざまに言った。
その兄弟姉妹にでも言うような、屈託のない話し方と仕草がとても可愛らしかったが、あまりに顔を寄せて話すので、一人っ子の僕は困ってしまった。

「すみません。ちょっと離れてくれませんか」と、ストレートにしか物を言えない高校男子に、
彼女は「あはは」。
と笑って、向かいのベンチに腰掛けるのだった。

(つづく)

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