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【小説 喫茶店シリーズ】 Ⅱ. ドトール「新町店」 (vol.3)

「どうして?」
と一言訊くのがやっとだった。

聞こえたのかどうなのか、一恵さんは、顔を上げて話を続けた。
「お葬式の日、お父さんが彼のノートを持ってきたの。高校二年の英語のノートだった。裏表紙の裏面の下に、小さく、気をつけなければ見過ごすほど小さな彼の文字がならんでいた」

“ウェーカーは、今日は雨になりそうだと聞いただけで泣き出すような子だった”

「『小さい頃、本当にそんな子だった』とお父さんがポツポツ話してくれた。繊細な感受性をガラスの容器に入れて持ち歩くような、そんな感じだったと。彼が家を出る時、自分の痕跡を消すかのように、書いた物なんかはすべて自らの手で処分したそうで、何も残ってなかったけれど、このノートが机の裏側に落ちているのを見つけて、唯一の息子の形見だからと」

「わたし、そのエピグラフか何かが気になって、彼の本棚を片っ端から探したの。彼、読んだ本の気に掛かった箇所には、必ず鉛筆でマークしてるの。中々探し出せなかったけれど、三ヶ月位も経ってようやく見つけた。サリンジャーの『フラニーとゾーイー』の中で、母親の話の中に一瞬間だけ出てくるグラース家の四男の事だった」
「一晩掛けて読み通してみたけど、このウェーカー自体は主人公でも何でもなくて、本当に一行だけ、事のついでにその人となりを紹介してある、という程度。でも、彼は、ウェーカーのその情感溢れる感受性にこそ、敏感に反応したんだわ」
「たぶん彼自身も、この世に自分という存在を、このただの一行で紹介されたのだと」・・・。

「そして見つけたの。その本の裏表紙の見返し、丁度、カバーの折り返しに隠れているところに、彼の几帳面な字で書いてあった」
「自ら刻んだ墓碑銘みたいに」

“『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』
勝りて丈高き花婿きたる。
・・・何れか佳日、君に我が一生を捧ぐ”

「いつのものかは分からないけれど、お父さんが持ってきてくれたノートと同じ頃だと思うから、高校時代には、既にそう決めていたのね」
「いったいどうして?」

「でも、続けてその『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』を読んでわかった」
「とてもつらかったわ。読んだことある?」

「グラース家の長男シーモアが、自分の結婚式の当日、式場に現れず中止になったその後で、花嫁を呼び出して駆け落ちみたいにして旅立ってしまう」
「その理由が、君みたいな素晴らしい人と結婚できて、『幸せすぎる』からなの。そして、その後の物語で、シーモアは、妻の寝顔を見た後、幸せの絶頂で自殺してしまうのよ」
「彼、その本の至る所にマークしていて、一々その時点でシーモアに同期していく彼の心情が伝わってくるようで、もう息ができないくらいに苦しかった」
「つらくて、途中、何度も本を綴じたわ」

・・・「彼、そのとおりに実行したのよ」

それから、一恵さんはしばらく黙り込んだ。

ボクは、耳の中で時計のチックチックと刻む音がするような気がして、随分長い間、身じろぎもせずに座っていた。
10分も経った頃、一恵さんは、冷めたコーヒーを飲み、真っ直ぐボクに視線を移すと言った。

「これは、詩なの?」

「彼は、自ら詩を生きたの?」


(つづく)

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