熊野詣は日本人の旅の始まり。
熊野の成り立ちを振り返る
熊野は、自然崇拝が起源。山、森、水、岩、滝、川・・が神さま。
今でさえも、信仰を理解できる自然が何とか残されていますが、当時は火山活動(熊野カルデラ)に起因する人々を圧倒する景観に加え、温暖多雨のなか折り重なる深い山々には、密林のごとく自然林が天を覆うほど生い茂り、幽妖な空気を発していました。
紀元前後になると具体的に神さまをお祀りするようになります。
熊野本宮大社の社殿が大斎原に創建されたのは紀元前33年と言われています。熊野の三社それぞれが、お祀りされますが参拝者は特定の信者が中心でした。
修験者から上皇・貴族に
6世紀になると仏教が日本に伝来し、7世紀には修験道の開祖「役行者」により大峯奥駈道の原形が形成され、修験者が多く訪れるようになります。
修験者たちは、熊野のことを全国に広めていくなか、熊野の三社は国家によって祭祀されるようになります。
9世紀には仏教を受け入れ熊野は神仏習合の地に。熊野三山が成立します。
原始的な信仰や思想に神道や仏教、熊野修験が重なり混沌とした熊野独特の思想ができていきます。
これにより熊野は浄土とされ、上皇や貴族が聖地としてあこがれ現世極楽にいたる熊野御幸を行います。
熊野という得たいのしれない幽妖な辺地への難行苦行の旅が、全ての罪が消滅するという信仰になり得たのです。
修験者が上皇たちを連れてきたのです。
法皇・上皇の熊野御幸
宇多法皇 初回(1回) (867~931年)
花山法皇 1回 (968~1008年)
・大河ドラマ「光る君へ」で今は花山天皇とし登場してます。
・熊野御幸では、安倍晴明を呼び千日修行を行う。
・西国三十三所巡礼を再興し、那智山青岸渡寺が一番札所となった。
白河上皇 9回 (1034~1129年)
・9回の御幸により熊野ブームを生み出す。
鳥羽上皇 21回 (1103~1156年)
崇徳上皇 1回 (1119~1168年)
後白河上皇 33or34回 (1127~1192年 回数は史料による違い)
・最多の御幸。熱烈な熊野信者。
・「鎌倉殿の13人」では西田敏行さんが演じていました。
後鳥羽上皇 28回 (1180~1239年)
・武士が政権を握った鎌倉時代に変わっても熊野御幸を続行。
・「鎌倉殿の13人」では尾上松也さん
後嵯峨上皇 2回 (1220~1272年)
亀山上皇 1回 (1249~1305年)
法皇・上皇の熊野御幸は計100回。
女院は計45回。
天皇は、しきたりなどで宮中から出ることはほとんどなく、自由でしかも院政で強大な力を得た法皇・上皇に強く信仰されました。
9回の白河上皇の熊野御幸により、熊野の知名度が瀑上がりし熊野信仰は熱狂的なものとなります。1000におよぶ人馬を従えたこともあったとのこと。
さらにこのころは末法思想の流行により来世の極楽往生を願い、浄土とされた熊野への参詣が拡大し、熊野は日本で最初の聖地となっていきます。
上皇・貴族から武家に
承久の乱により院政は崩壊し、熊野御幸は上皇・貴族から武家の熊野参詣に変わっていきます。
後白河上皇の時代には武家の平清盛が熊野参詣をたびたび行い、平家の繁栄は熊野権現のご利益であるまで言われました。
源平合戦で勝利し鎌倉幕府を開いた源頼朝は、奥羽東征の必勝祈願に名取市の熊野神社へ、鎌倉幕府の鬼門である朝比奈峠に熊野の神さまを勧進します。熊野には、神倉神社の五百三十八段の石段を寄進しました。
また、那智の熊野古道沿いに実子源実朝の供養塔を北条政子が建立しています。
ちなみ奥州藤原氏の藤原秀衡もよく熊野参詣を行っています。
武家から庶民に
このように時の権力者である上皇・貴族のトップから武家のトップに熊野信仰は引き継がれます。時の権力者たちが、「熊野」「熊野」になれば、現代のようなメディアのない時代には、最高のブランディングであり「熊野」は庶民に拡散していったのは必然です。
庶民の熊野詣は、鎌倉、室町、江戸時代と続きます。
室町時代には、旅人が蟻のように数珠つなぎで歩く様子を「蟻の熊野詣」と言われるようになり、最盛期を迎えます。
しかしながら、庶民の熊野詣は、上皇・貴族の華やかな熊野御幸とは違い、飢餓や野宿などまさしく難行苦行、命の危険にさらされたものでした。
それでも、熊野を目指した強烈な信仰の根源は
「日本第一大霊験所」
である熊野権現が
「浄不浄を問わず、貴賤にかかわらず、男女を問わず」
だれもを受け入れたからなのです。
どの時代がピークかよくわかりませんが、江戸中期には現田辺市内の宿に6日で4800人宿泊などの記載があります。
また、江戸時代以降に流行した西国三十三所巡礼ではもっと多く人が熊野を訪れた。ともあります。
戦乱の時代が終わり江戸時代になると、特に平和な元禄時代から「お伊勢参り」が人気となります。
難行苦行のすえ御利益(ごりやく)を得る「熊野詣」から、旅の開放感を味わい生きる実感を得る「お伊勢参り」が主流になります。現在の旅行と同じ感覚ですね。熊野へは、お伊勢参りのあと、西国三十三所観音巡礼のため足を伸ばすことが多くなります。
伊勢神宮から第一番札所である那智山青岸渡寺(当時は、神仏習合で熊野那智大社と同じ)にお参りした人は、当然のように途中の熊野速玉大社に参拝し、青岸渡寺から雲取越をして熊野本宮大社に参拝します。
熊野詣と西国三十三所観音巡礼は別の信仰ではなく関連性の強いものでした。
最大の危機
明治時代になると熊野は最大のピンチとなります。
明治政府により神仏習合を廃止するため神仏分離令が発せられるとともに修験道廃止令が布告されました。
さらに神社合祀令も出され、仏教、修験道だけでなく、小さな神社や自然信仰の神社が廃止されます。
昭和の熊野は、観光的にいえば、熊野三山と熊野本宮温泉郷や那智勝浦温泉の温泉、那智の滝などの信仰の起源であるダイナミックな自然があったおかげで引き続きお客さまが訪れていました。
また、熊野古道などいにしえの道は、大部分が鉄道、自動車の発展とともに林道や国道などの公道に変化し、古道として残った道は荒れ、地域の皆さんの努力で何とか残っていきます。
よみがえりの聖地「熊野」。
この2000年以上続いてきた熊野の最大のピンチを救ったのが「世界遺産登録」です。
世界遺産に登録されることで、道や神社などの構造物は文化財として保護されるとともに観光地として注目度が飛躍的に上がります。
世界遺産登録が大きなきっかけとなり、温泉などのコンポーネントや小単位の地域ではなく、再び「熊野」としてPRできるようになりました。「バラバラ」「それぞれ」のコンセプトでお客様にきていただいてた熊野が「熊野」として、まさに「熊野とは」を世界に表現できる時が再び到来したのです。それを国内外にプロモーションし、世界的な評価をいただくようになり多くの外国人が来るようになっています。
世界では「KUMANO」がすでに旅のキーワードになっているのです。
修験から始まった熊野への移動は上皇・貴族の熊野御幸で一回めのブームを迎え、庶民が熊野詣で行うようになって爆発的ブームとなります。
これこそが
「日本人の旅の始まり」
「日本人の観光の始まり」
であるともに
熊野は
「日本最初で最大の聖地」
「日本史上最も長く続いている旅の目的地」
ではないでしょうか。
また、宿や祈祷の手配、ガイドなどの「日本の観光システムの発祥」など熊野発となることがたくさん誕生しています。
まさに「日本の旅の原点は熊野にあり」です。
マガジン「熊野とは」 ↓
撮影が必要なところは許可を得て撮影しています。
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