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「熊野とは」overview①
熊野とは①~⑥で
・熊野が熊野にある理由
・熊野が聖地になった理由
を紹介しましたが、もっと短くというお話もいただいきました。
概要版をお届けします。
熊野がそこにある理由・・それは大地の営み
熊野は和歌山、奈良、三重の3県にわたる広大な面積を持つに日本最大の聖地。信仰の中心は、和歌山県にある熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社、那智山青岸渡寺)です。
紀伊半島には、
・自然崇拝
熊野詣は日本人の旅の始まり。
熊野の成り立ちを振り返る
熊野は、自然崇拝が起源。山、森、水、岩、滝、川・・が神さま。
今でさえも、信仰を理解できる自然が何とか残されていますが、当時は火山活動(熊野カルデラ)に起因する人々を圧倒する景観に加え、温暖多雨のなか折り重なる深い山々には、密林のごとく自然林が天を覆うほど生い茂り、幽妖な空気を発していました。
紀元前後になると具体的に神さまをお祀りするようになります。
熊野本宮大社の
熊野とは⑥ 「最大のピンチから再生、新しい熊野」・・神仏分離と世界遺産登録
最大のピンチ
熊野とは①~⑤で紹介したとおり、自然崇拝が信仰の原点である熊野は、日本古来の神道に仏教、修験道と相まって神仏習合の聖地として「熊野詣」「西国三十三所巡礼」と変遷をみながらも多くの人々を集めてきました。
明治時代になると熊野は最大のピンチとなります。
明治政府により神仏習合を廃止するため神仏分離令が発せられるとともに修験道廃止令が布告されました。さらに神社合祀令も出され、仏教、
熊野とは⑤ 新たな展開・・西国三十三所観音巡礼
新たな展開
平安時代に上皇・貴族の熊野御幸から始まった熊野詣は、武家に、庶民に広がり、室町時代には蟻が列をなして歩くことにたとえた「蟻の熊野詣」と言われる最盛期を迎えます。この熊野詣こそが日本人の旅のはじまり。数百年も続く歴代最長の大ブームだったのです。西国三十三所観音巡礼を入れると千年を超えるスーパーロングテールになります。
西国三十三所観音巡礼も15世紀の最盛期には、熊野詣と関わりなが
熊野とは④ 「道」・・熊野古道、聖地への道
熊野への道があるから今も昔も熊野があるのです。
人々を聖地「熊野」へのいざなう道は、修験道の開祖「役行者」がその原形を作った「大峯奥駈道」が最初の道。その後、熊野の隆盛とともに熊野古道紀伊路、中辺路が熊野詣のメインルートとなっていきます。
鎌倉時代になると新たな道が整備されます。那智と本宮を結ぶ熊野古道大雲取越、小雲取越や、高野山と結ぶ熊野古道小辺路、伊勢からは熊野古道伊勢路です。熊野古道大
熊野とは③ 神仏習合・・仏教伝来(聖地に)
写真は、神さまである那智の滝と仏教の三重の塔。熊野の神仏習合の象徴的な写真です。仏教が6世紀に伝来し、熊野は仏教を受け入れ日本古来の神道と融合していきます。
神社へ行くと権現という文字をよく見かけるかと思いますが、なんやろ?って思っている人が多いと思います。権現の「権」は「仮の」、「現」は「現われる」の意味で、一般的には神さまは、仏さまが「仮」の姿で「現れた」ものということです。もともと神さ
熊野とは② 「神として」・・祭祀する
熊野とは①で、熊野は岩、滝、川、巨木などを崇拝し、その圧倒的な景観と自然現象に「神が宿る」「神が棲まう」地として信仰されてきたと紹介しました。
紀元前後になると具体的にそれらを「神として」にお祀りをするようになります。
大斎原|熊野本宮大社
熊野本宮では、紀元前の第10代崇神天皇の時代に、熊野本宮大社旧社地の大斎原の櫟(いちい)の巨木に三体の月が降臨しました。その三体の月の真ん中が、熊野
熊野とは① 熊野がそこにある理由・・それは大地の営み
熊野ってどこ?ってよく聞かれます。熊野は紀伊半島南部のことを言い明確な境界はありません。和歌山、奈良、三重の3県にわたる広大な面積を持つ聖地なのです。日本最大の聖地。
信仰の中心は、和歌山県にある熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社、那智山青岸渡寺)です。
紀伊半島には、
・自然崇拝の聖地 「熊野」
・仏教の聖地 「高野山」
・修験道の聖地 「吉野・大峯」
・神道