【アゼルバイジャン暮らしの日記】新年、心を濯ぐ。
2024年1月4日
「日本は大きな地震だってね」
サウナの熱気の中で、ペシュテマルというハマム用の布を、頭にぐるぐると巻いた初老の男性が、声のトーンをひとつ落として言う。
「たくさんの人が亡くなっています。」私は答えて、能登の位置関係を説明しながら、以前見たあの海辺の風景を感傷的に思い返していた。そんなふうに、私たち日本人の今年の年明けの風景には、深々とした亀裂が走った。その黒々とした疵の跡を、私はただ呆然と見つめている。そんなお正月。
休暇も終盤、あとはバクーの自宅で過ごす予定なので、私たちは海辺のリゾートホテルまで出かけた。車で30分の道のりだけど、きらびやかな中心街を抜けて街の向こう側。荒涼とした土漠の広がる海辺の道に出ると、ずいぶんと遠くに来たように錯覚する。
海辺に広く窓を取った、明るい朝食ルームは、何故かインド人たちでごった返していた。このホテルってインド資本だったっけ?と夫がたずねる気持ちもわかる。インド大使館の友人によると、バクーには今2,000人くらいのインド人口があるそうで、近年は観光客も増えており世界遺産などの観光地を歩くと、実にたくさんのインド人観光客と出会うようになった。このホテルの客の多くは、何故か男性だけのグループで、家族連れは少数派。オープン・ブッフェの朝食だったので、こういう時私は他の人が何を食べているのかとても気になる。
ホテル側が気を利かせてか、ブッフェのメニューに菜食のカレーが2種類ほど追加されていたのだけれど、あまり人気はないようで、人びとは概ね甘いトーストとミルクティーの朝食を好んでいるようだった。私は好奇心からその、じゃがいものカレーを食べてみたのだけれど、スパイスが丸のままたくさん入っていておいしく、その不人気ぶりを不思議に思った。或いは単に、習慣的に朝からカレーは食べないだけなのかもしれない。一方で、アゼルバイジャンの朝食には欠かせない、白いチーズやオリーブも手つかずでたくさん残っていて、皿に取ると少し干からびていた。私はいつも通り、トマトと卵の朝食料理(ポミドル・ユムルタ)と白チーズとオリーブを食べる。他の皆は、バタをたっぷりと塗ったトーストに、ジャムを塗ったり、チョコレートスプレッドを塗ったりして、せっせと口に運んでいる。
アゼルバイジャンでは、お茶に牛乳を入れる習慣がないので、大きなお茶のサーバーの横にあたためた牛乳が添えられていたのを珍しく思った。私たちは隣のサーバーからコーヒーを注いだのだけれど、「飛行機の中のコーヒの味がするね」と夫が言う(たぶん褒めていない)。
逆に、スパは地元のアゼルバイジャン人のお客さんが疎らにいるだけだった。皆、プールサイドの椅子に腰掛けて、みかんだのお菓子だのを大量に持ち込んで楽しそう。熱心にラップスイミングをしている彼の横で、まだ脚の痛む私は、のんびり時間をかけて泳いだ。泳ぐというよりもむしろ、水の中で手足を伸ばして、その存在をを確かめるみたいに。大丈夫、まだ手も足も動かせる。
苦手だと思っていたマッサージは、なかなか心地が良かった。すべすべのオイルで、リンパの流れを整えるような施術で、痛くない。ただいつもの常で、後半は早く終わらないかな、と思っていた。私はもちろん、だいたいの楽しいことや気持ちの良いことは好きだけれど、終始没頭できることがない。こういう終了時刻があるものは殊更で、終わりが何故か待ち遠しくなる。海の底に潜っているときも、映画を観ているときも、時計をずっと気にしている。早く終わらないかな。
サウナでよく身体を温めて、と言われたので、我々はその通りにした。一団で楽しそうに宴会(といっても果物と菓子で)をしていたアゼルバイジャン人のおじさんたちが朗らかに入ってきて、一通り自己紹介をする。そして冒頭の会話。私たちの気持ちが沈んだのを感じてか、それから、日本は素晴らしいと口々に言ってくれる。若いひとりは、宮本武蔵を尊敬していて、日本の歴史に関する本をたくさん読んでいるという。武士道などの日本の文化や日本人の精神性に、この国の人々が美を見出してくれることや、家族の絆や親を敬う気持ちなどに共通点を見つけてくれるのもうれしい。でもその多くはすでに失われているという事実が、少し私を居心地悪くさせる。そう、私の中でも。それは近代化の過程での喪失でもあるし、旧態からの自立でもある。個人の自由や少数者の権利といった、日本の古い価値観のもとで制限されてきたものを勝ち取る過程で、私たちが喪失した美徳や価値観は多い。そして私はそれを、過去の遺物として美しい純粋な部分をきらきらと崇める傾向がある。私の居心地の悪さは、その姿が投影されているように感じるからなのかもしれない。そんなことを、ゆつくり酒でも飲みながら話してみたいなと思う。この国の人々と、そのうち。
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