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『なわばりの文化史』秋道智彌 ~古来、多様さと複雑さの中で続いてきた人の営為

世界の多様さと複雑さ、そしてその中で続いてきた人の営為を教えてくれる本。

陸地と海辺、山と川、田園などさまざまな地形をもった日本列島。人々の生業も多様だった。
古来、人は「なわばり」をもうけて自然を囲い込み、山野河海の資源を利用してきた。それは排他的な営みのようで、たとえば以下のように、さまざまな意味がある。

①乱獲防止(資源の持続的な利用)
ex アワビや海藻、柴などの漁撈や刈りの期間を制限する「口明け、口止め」

②過剰な競争の抑制やストレス軽減、かつ共同体への分配
ex 海苔、イワシ漁などの場所の抽選制

③カミと人間の住む領域を分かつ儀礼的・宗教的な境界
ex 大木を注連縄で区切ったり、山や森全体を「カミの領域」とする場合も

④支配権力や国家宗教など政治的イデオロギーによる支配
天皇家や寺社が独占的に狩猟、採集を行う「禁野」や、肉食・魚食の時期の限定

いつどこで誰を対象としたなわばりであるかによって異なる意味をもち、また同じなわばりでも時代によって意味合いが変化してゆく場合もある。
④のように権力による抑圧的ななわばりもあれば、それが結果的に①のように資源の保護につながることもある。

もちろん、なわばりは人為的なものなので、多くの争いも生んだ。
境界を巡って暴力を伴う争いに発展したり、役所や権力者に裁定・調停が持ち込まれたケースが全国津々浦々の資料に残っている。
2017年の大河「おんな城主直虎」でそのあたりがうまく活写されていたのも思い出しますね。
しかし、抑圧や争いという一面があるにせよ、なわばりは、各々の地域・生業における、自然と人間との多様なかかわりあいを示しているもの。
抽選や「カミ」のように、一見非合理に見える習俗にもそれは表れている。

また、ヨーロッパにおける「コモンズ」との対照も本書のキモのひとつだ。
「コモンズ」は、近年、資本主義の隘路を突破するため斎藤幸平らが提唱している資源利用の方策で、「万人が等しく共有する」という基本理念に立つ。

日本にも、古来、山や磯において「入会い」というシステムがある。
複数の個人や集団が、一定の領域で資源を共同利用するのだが、コモンズと違うのは、公有と私有が峻別されていないこと。

たとえば、口明けから数日は村人が排他的に漁を行うが、その後は広く開放されるとか、畑作と放牧とを組み合わせて利用している土地において、四年周期で公有と私有が繰り返されるとか。
そこには、「法の下の平等」や、「一神教の神のもとでの人間の平等」「自然は人間によってコントロールされるべきもの」といった考え方が基礎にあるコモンズと異なり、公と私を巧みに取り混ぜたり使い分けてきた、日本人独特の自然とのかかわり方がある。
(注: 便宜上「日本人」と書いたが、本書では東南アジアや太平洋の島々などの例も挙げられている。安易な「日本スゴイ」スピリットに流れてはなりません‥‥)

地域ごとに根づく慣行は、本来、その地で自然の恵みと恐ろしさとを共に享受してきた人々の知恵と経験に支えられたものである。なわばりを巡る争いすらも、その原因や経過、着地点から学ぶことは多い。
法律や科学など、近代的な資源管理や自然保護一辺倒に陥るのではなく、なわばりを排他的ではなく地域重視という観点からとらえ、21世紀に活かすべきであると筆者は主張する。

出版後20年を経て、古書店か図書館でしか手にすることができなくなっているが、傾聴すべき点にあふれた本だった。

***
本の主旨が良いのはもちろんだが、私の民俗学的なものへの偏愛は、ひとつひとつの具体的な事例にある。

・新潟県岩船のゼンマイ採集では、個人が5日間連続で採集した場所は、半永久的にその領域の利用権が独占的に認められた。本人が放棄しても3年は他人は遠慮するならわし

・群馬県吾妻の柴草刈り(肥料用)では、口明け日、「手明かり」と称して手のひらの筋が見える時間からしか始めれられない決まりがあった。

・古代~中世、所有権や行政権など土地のなわばりを示すため、土地の境界に木炭を埋める「埋炭」の慣行があった。木炭は変質することなく半永久的に残るため。

・新潟県飛島では、戦前までミズダコを獲るための「タコ穴」を個人が所有していた。これは相続や譲渡の対象になり、タコ漁を本業とする漁民はタコ穴に対して固定資産税も納めていた

などなど、こういう、細かくかつ具体的な事例を延々と読むことに喜びを感じるのですよ!!!
たぶん、これは私が個人の生活史やエピソードに異様に(?)関心があるのと同じ根っこなんだろうなと思う。

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