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『革命前夜』 須賀しのぶ

バブル期、日本の爛熟した雰囲気と面倒な家族に嫌気がさして、ただ一心にピアノを弾きたいと東ドイツに留学した真山は、着いた早々、大使館の外交官から昭和天皇の死を知らされる。彼は「単に元号が変わっただけだ」とうそぶくが、その死をきっかけに始まった平成という時代、日本が長く停滞することを私たちは知っている。どこか不穏な予感を与える、物語の幕開けだ。

ベルリンの南200キロ、東ドイツの都市ドレスデン。第二次大戦末期、連合国による激しい空襲に遭ったのは日本と同じだが、木でできた家屋を焼夷弾で焼き尽くされ、更地から再建された日本とは違い、ドレスデンは石づくりの町だった。共産圏に繁栄はなく、戦後40年以上経ってもそこここに剥き出しの瓦礫が残る。無彩色の町を真山は見降ろし、たたずむ。

食べるのはハムや豆の缶詰ばかり、天井は雨漏りで変色し窓を閉めても隙間風が吹く東ドイツの生活。人々は西側の世界の豊かな物資に憧れ、亡命者が後を絶たなかった。

物質的な貧しさだけではない。社会体制を守るため、政府はシュタージと呼ばれる秘密警察を組織し、あちこちに密告者を潜ませていた。

「言ったでしょ、この国の人間関係は二つしかないって。密告するかしないか」

西を目指す少女に泣きつかれて一晩泊めると、またたくまに警察が踏み込んで彼女を連行し、部屋は乱暴に捜索され、自分にも監視の目が注ぐ。社会にみちた閉塞感と猜疑心。共産圏の暮らしとはこういうものだったのか、と背筋が冷えた。

しかし、おもしろいのはそんな閉塞したこの街に、さまざまな国の若者が集まってくることだ。

何もない街に、あるいは何もないからこそ、人々は音楽に至上の価値を認めるのか。いつどこででも演奏会がひらかれ、聴衆が集う。

ハンガリー、ベトナム、北朝鮮からの留学生。そして日本人の真山。

この国で生まれ育った友人たちも、軍隊で過ごしたり市民活動に携わるなど、独特な経験をもっている。

抜きんでた才能と多様なバックグランドをもつ若者たちの間で激しく揉まれながら、徐々に自分の音を失い、苦悩する主人公。

世界の若者や、歴史を生きてきた人たちが何を抱え何に縛られて生きてきたか、ひるがえって日本に生まれた自分のなんと幸せに(=生ぬるく)生きてきたことか‥‥。

驚愕し打ちのめされる彼の姿に、日本のあまちゃんである私も自分を投影せずにいられない。

作中、音楽の描写や用い方は緻密に熟考され、かつエモーショナル。

バッハの平均律。リストの前奏曲。大戦を生きたダイメル氏が書き遺したバイオリンソナタ。

ページをめくっても実際に音楽は聞こえてこないのだが、物語の中で欠かせない役割を果たしていると感じる。これが小説を読む喜び。クラシックに詳しい人ならばより楽しめるだろう。

やがて、灰色の町の奥底に溜まり続けていたマグマが噴きだし、革命前夜がやってくる。

世の嵐と呼応するように、真山たち音楽を志す若者の運命も激しく変転していく。

しかし、彼らはただ巻き込まれ、ひねり潰されるだけではない。

炎と叫び、創造のための破壊。

長らく死に瀕していた街が産声を上げるとき、彼らが手にするものとは。

いわゆる「小説の定石」を押さえて書かれているので、「この人とこの人はこうなるな」とか「コイツ、なんか怪しい」のような予感はだいたい大枠で当たるのだが、ディテールが想像をはるかに超えてくる。何より、歴史を俯瞰しものすごいダイナミズムで書ききられた作品で、後半は読むだけで息切れがするようだった。

人は歴史と社会に縛られた存在である、
しかしその中で、
人は強く激しく生きることができる。
そんなことを思った。

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