インタビュー: 僕たちは対話で変われます ~ 小山 裕晃 さん
小山裕晃さん。宮城県の島に生まれ、20歳で東日本大震災に被災したあと船乗りとして海に漕ぎ出し、語学留学やバックパッカーの旅も経験。
「だけど、震災よりも船上生活よりもしんどかったのは、自分自身の弱さなんですよ」と言います。
弱さに打ちのめされ自分を傷つけていたという小山さんですが、今の表情は晴れやかです。これまでのお話を聞きました。
聞き手:イノウエ エミ(2020年11月取材)
◆ 信号機ができると事故が起きる?!
―――気仙沼市大島のご出身。三陸海岸に浮かぶ「島」ですね。
はい。僕が子どもの頃は、島から出るときは船に乗って渡っていました。震災がきっかけになり、今は気仙沼への橋が完成しています。
―――子ども時代の大島は、どんなところでしたか?
人口3,000人くらいののどかな島です。小学生のころ、島に初めての信号機ができたんですよ。小学校の前に。そしたら、一週間に二回事故が起こりました。
―――え?
信号機に慣れてなくて、逆に事故になっちゃうんです。島あるあるじゃないかな(笑)。
ものすごくいいところですよ。本当に気さくで、人と会うときも約束の時間とかない世界。帰省するとお世話になったそろばん塾の先生に必ず会いに行くんですけど、ふつうにアポなしです。「帰ってきたよ~」と、ふらっと訪ねる感じ。
―――そんなあたたかい大島で育った小山さん。よく泣く子だったとか。
すっごい泣き虫でしたね。ぼく、4人きょうだいの末っ子なんですよ。上から、11歳、10歳、7歳差の兄姉がいて、めちゃくちゃにやられてました。
―――年も離れているから、かわいがられたんじゃないですか?
今振り返るとホンットそうなんですよ! でも、当時はまったく気づけなかったですね~。
◆ 短所ばかりに目が向いていたころ
2011年3月1日、高校の卒業式の日に友人たちと。
中学高校のころは本当にきょうだいが大嫌いで。家に帰るとすぐさまゲームの世界に入り込んでました。
―――ある意味、反抗期みたいなものだったんでしょうか。
それもあるかもしれませんね。兄姉も若くてそれぞれ抱えてるものがあって、お金がかかるのに二校目の専門学校に入りなおしたり、自傷行為とか‥‥。僕はもっと子どもだったので、そういうのを受け入れることができなかった。短所ばかりに目を向けて、ずっと心を閉ざしていました。
―――学校や友だちとの関係はどうでしたか?
友だちとは仲が良かったし、学校は楽しかったです。でも、心の奥の思いまで表に出すことはなかったと思います。内にこもってる「陰キャ」だったなーというのが自己評価ですね。
とはいえ、家の外ではふつうに明るい人間に見えてたんじゃないかな。生徒会もやってましたし。
―――おお、明るくて健全なイメージですね。
勉強が苦手だったので、入試にプラスになるようにというのもあって‥‥(笑)。
今思えば、絶対に公立高校に行かなきゃ! と思い込んでいたのも、兄たちが私立に行って大変だと親からさんざん聞かされていたからなんですが。
―――無意識のうちに、親御さんの期待に応えようとしていたのですね。
はい、それで公立の水産高校に進みました。そこでは、高校3年間のあと、専攻科といってさらに2年専門的な勉強をするんですよ。僕は漁業科といって、船乗りを養成するような科へ進む道を選びました。
―――今、日本人の船員は減っていると聞きますが‥‥。
この時代、船に乗ろうという人はなかなかいないんですよね。でも僕は実習が本当に楽しくて! そのころ家が嫌いだったのもありますし(笑)。友だちと船に乗って、ごはんも出て、太平洋の水平線を見て、毎日が修学旅行みたい。ほんと、なつかしいなあ。
―――その専攻科を20歳で卒業して、10日後に震災に遭ったのですね。
◆ 震災であたりまえの日常を失って
揺れたとき、僕は近くの歯医者さんにいて。すぐ家に帰ると、母が「津波がくる」と。それで急いで当面必要だと思うものを持って丘にのぼりました。
第一波が来て、引いて、第二波が来て。
―――見たんですね、ご自分の目で。
全部見ていました。田んぼも車も家も波に飲み込まれて、沖のほうに流されていって‥‥衝撃でしたね。言葉にできないですね‥‥。
僕の家はちょうど竹やぶに隠れて見えなかったので、大丈夫かもしれないと思いながら帰ってみると、庭に卒業アルバムやら何やら転がっていて、家の中もぐちゃぐちゃ。あー、うちまで来たんだなって。あたりまえの日常は、もうなくなっていました。
そこからは、自分の無力さを思い知る日々でしたね。
ひとまず避難所に移動すると、みんなちゃんと毛布や布団を持ち込んでスペースを確保して避難生活を始めている。僕が持っていたのは小さなカバンひとつだけ。雪が降ってきて、ものすごく寒くて‥‥。
―――島の中でも、被災の状況はそれぞれ違うということですね‥‥。
はい。でも僕は本当に恵まれたほうだと思います。たまたま島の親戚に津波の被害を受けなかった家があって、僕たち家族はそこに身を寄せることができたんです。
もちろん、電気も水道も、ライフラインは全部止まっていて、小学校のプールの水をろ過して飲むような生活でしたが、家の中で雨風をしのげて、石油ストーブもありましたから。ありがたかったです。
人とのつながりって本当に大事だなと思いました。
―――親しいご親戚だったんですか?
いえ、母とはよく付き合いがあったようですが、僕は母と一緒でなければほとんど話したこともないくらい。家が大嫌いだと思っていたけど、結局は家や親に守られていたんですよね。
◆ ろうそく囲んで話し、初めて自分と向き合った
震災にあって、「自分で決めて、努力して進む」という経験がほとんどなかったことに気づかされました。人から言われたことをしてきただけだった。だから、意見があっても言えないんですよ。
―――どういうことでしょう。
たとえば家の片づけも、母は「まず道の釘を拾って」と言う。僕はぐちゃぐちゃの家の中に早く手をつけたいと思ったけど、言えない。自信がないんですよね。口に出せないまま、不満ばかりを募らせていました。
ある日、家族の前で爆発してしまって‥‥。
―――ワーッとなってしまった感じですか? お母さんはなんて?
僕の気持ちを受け止めてくれました。「おめえの言うとおりだ、自分も気が張ってた」と。
―――すばらしいお母さんですね。
それから、夜になると一本のろうそくを囲んで、いろんな話をして励まし合って。そんなの初めてでしたね。
―――家族とじっくり話す機会って、意外とないですもんね。
どれだけ自分が殻に閉じこもっていたかわかりました。こんな価値観もあるんだなと気づいたり、これから何をしたいか、どんなふうに生きたいか考えるようになって。
あのとき、親や親せきと対話して、初めて自分とも向き合えたんだと思います。目標ができて、自分の役割も持てた。
―――目標と役割?
「帰るのはあの家だ」と家族で決めたんです。仮設住宅には入らないと。
その目標ができてから、毎日燃えていましたね。鍬で泥をかいて‥‥。
そして僕は、家族が家に戻れたら、家族から離れて自立しようと決めました。家族に守られるのではなく、自分の力で生きてみたいと思ったんです。
◆ 「自分の力で生きる」船出
―――高速旅客船「ビートル」でお仕事をされていたそうですね。船ではどんなお仕事を?
飛行機でいうと、副操縦士みたいな感じですかね。一等航海士です。
―――運転士さんなんだ。すごい! ビートル、私も釜山に行くとき、乗ったことがあります!
わ、そうなんですね。うれしいです。
―――福岡人には馴染み深い船ですが、小山さんは単身福岡に来て、さみしくなかったですか?
全然! 当時は、簡単に帰れないくらい実家と距離があったほうがちゃんと自立できる気がしてましたし(笑)。
先輩にも韓国人の代理店スタッフにも、本当にみんなにかわいがってもらって。仕事だけじゃなく遊びもたくさん教えてくれて、休みの日にも韓国に行って遊んだりしていましたね。もちろんビートルに乗って(笑)。楽しかったなー。
―――その楽しかった日々に、自分で終止符を打ったんですよね。
3年ほどで退職しました。豪華客船の航海士になる夢があったんです。多くの人と関わりたい、そして世界の人々に震災を伝えたいという気持ちがありました。
じゃあまずは英語を勉強しなきゃと、カナダの語学学校で約1年。
帰国して、大きな船に乗る経験も必要だなと思い、国内をぐるぐる回る貨物船で仕事を始めました。
―――大きな貨物船だったんですね。
はい。三か月に一度、休暇で実家の島に戻るような生活ですね。
―――えっ。三か月、船の上?
はい、荷役や食料補給のために寄港しながらも、基本的に男性ばかりの乗組員10人。職人気質でガテン系の船員たちに毎日もまれた2年半でした。
―――すごい人生経験ですね。
僕の未熟さゆえに、たくさん失敗もしましたけど。
―――20代の人が未熟なのは当然。2年半も続いたなんて、すごいと思います!
愛猫の「おさゆ」ちゃんと、九重“夢”大吊橋にて。
◆ 「黒ばかりのオセロでも、ひとつ白をおいたらひっくり返るよ」
―――27歳で、いったん船から降りたのは?
きっかけは結婚です。同時期に、父が亡くなったんですね。それで僕は、父になろうとしたんだと思います。毎日家に帰ってくるような‥‥。
でも、うまくいかなかった。フリーランスでやっていこうと、それこそ徹夜を続けてがんばったんですが、挫折して。
その時期は本当にしんどかったですね。僕は22歳で自己啓発の教材と出会って、一生懸命勉強して投資もして、それを活かして実生活でいろんな挑戦もしてきました。
なのにどうしてダメなんだろう?と、これまでのすべてが否定されたような気持ちになって‥‥線路に飛び込みたいと思ったり。
―――えっ。
自己防衛でしょうね、感情が麻痺したような状態だったと思います。
―――そこから、どうやって‥‥。
やっぱり、まわりの人たちのおかげですね。
対話を重ねて、自分の中の思い込みや一人で抱え込んでいたものを解放することができた。「だんなさんはこうでなきゃいけない」とか「目標を達成しなきゃ」、「仕事には一切プライベートや私情を持ち込んではいけない」とか‥‥。
―――対話の中で印象的だった言葉はありますか?
「結婚してなかったら何がしたい?」「今ほしいものは何?」そんな問いかけからやりとりを重ねて、“自分” を認識できるようになりましたね。
「小山くんは今、オセロの黒い面ばかりを見つめている。でも、ひとつ白を置いたら全部ひっくり返るんだよ」と言ってもらったのもよく覚えています。今でも、悩んだり苦しんだりしたときによく思い出す、僕を支えてくれている言葉です。
◆ 自己開示できるようになりました
―――その後、鹿児島に移って今もお住まいですね。
はい。鹿児島と種子島・屋久島を結ぶフェリー「はいびすかす」で働くためです。それと同時に、鹿児島で「カフェ会」を始めました。
―――引っ越してすぐに? まだ知り合いもほとんどいなかったのでは?
だからこそ、かもしれません。いろんな人とかかわっていきたい、それが僕にとって大切なことだから。今はネットやSNSもありますし、気軽に始めましたよ。
鹿児島は本当にいいところ! あたたかいです。人も、気温も(笑)。
―――オセロの黒ばかり並べていた時期と比べて、変わったことはありますか?
自己開示できるようになりました。
たとえば、上司や同僚に「休みの日は何してるの?」と聞かれたら、「カフェ会やってます」と答えられるし、自分の価値観やプライベートについても心置きなく話せるようになりました。
以前は言えなかったんです。自分ではとてもすばらしいことだと思っていても、人に「そんなの何が楽しいんだ」とか、否定的な反応が返ってくるが怖かったんでしょうね。
―――初めて「カフェ会やってます」と言ったときのお相手の反応、覚えていますか?
「小山はすごいね、宮城から九州に来てそういうことして。なかなかできることじゃないよ」って。
―――わー、うれしいですね!
はい、本当にいい人で。仕事とプライベートは別とはいうものの、自分がやっていることを応援してくれる人、理解してくれる人がいると、気持ち的にすごく楽になりますね。
信頼関係ができていたから自己開示できたし、応援してもらえたんだと思います。
―――信頼関係を築いていくにはどうしたらいいんでしょう。いろんな職場や学校、ご近所などに通じるテーマですが。
かんたんに言うと、相手の視点になってみることですね。相手の視線の先と自分の進みたい方向に重なる部分があれば、関係を作っていく手がかりになります。
◆ 自分を責めないで。僕が気さくな相談相手になります
―――これからやっていきたいことはありますか?
以前の僕と同じように悩んでいる人に寄り添っていきたいです。
いろんな人と出会ってわかったんです。以前の僕のように自分を責めたり、家族やまわりの期待に応えようとして苦しんでいる人が、すごくたくさんいるんだなと。
―――自分を責めるのは苦しいですものね。
本当に。だって、人はいつでも、そのときそのときでベストを尽くしているはずなんです。過去の自分を責めるのは、弱い者いじめと同じじゃないかな。「自分なりにベストを尽くしてたんだな」と認めてあげるところから始まると思います。
―――なるほど~。今、心に響きました。
ありがとうございます。本を読んだり、何か講座のようなものを受けたりするのもいいけど、やっぱり、対話の力ってすごく大きいですよね。自分自身の心と体の状態を認識して、思考の習慣を変えていくには、信頼できるパートナーとの対話が一番じゃないかと思います。
僕自身、それで変われたという実感がありますから、今度は僕が提供していけたら。
―――小山さんに気軽に相談してOKですか?
はい! 気さくな相談相手になれたらうれしいですね。僕も何かと、いろんな人に相談しながら生きています(笑)。
(おわり)
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▼小山さんの連絡先(LINE)はこちらです。
https://enqc.jp/c/cf/unqq55bq
記事を読んだ。とお声掛けください!
すぐにお返事いたします。
◆ 編集後記
気さくな雰囲気と笑顔が印象的な小山さん。10代のころを回顧したお話とは裏腹に、今の小山さんは相手の良いところを自然に見つけ、自然に褒めてくれる印象です。幾度も苛酷な経験に見舞われても、人はこんなに強くしなやかに生きることができるんですね。みなさんもぜひ、小山さんのお話を聞いてみてください。そして小山さんに相談してみてくださいね。 (イノウエエミ)
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