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『おちょやん』15週 ~ 優しいお母ちゃんのように許すしかないのか

十代のころ、「♪バンザイ 君を好きでよかった~」と、恋の一番イイときを高らかに歌い上げるトータス松本のセクシーさが好きだった。まさか朝ドラであんなガチな毒親を演じるとは‥‥。「毒親」という語は安易に使いたくないんだけど、毒としか言いようのない父親だった。

9歳の娘を売り、手にした金も博打で使い果たして、息子を養うこともできず、さらに借金を重ねては娘にたかる父親。そのくせ、調子よく可愛がったり父親づらをする。

千代(杉咲花)はそんな父を「赤の他人や」と切り捨て、彼が肝臓を患って余命いくばくもないと知っても「許すとか許さないとかを通り越して、干からびた冷たいものしか残ってない」と言う。

親に対する思いを「冷たく干からびている」なんて表現する朝ドラヒロインは私が見る限り初めてで、そのときの千代の凍りついたような表情とともに忘れられないシーンになると思う。

「最低な親でも親だから最期くらい」と、周囲がやんわりと和解を促すのがしんどい。それでも、暴行罪で勾留されている先に面会に行き、これまでの恨みつらみ苦しみを思うさま本人にぶちまけることができたのはひとつの救いだったかもしれない。

自分の存立の根源にある親という存在から虐げられてきて、それを「あんなのたいしたことない」と処理し続ける人生がどんなにつらいか。
「おまえはひどいことをした、おまえを一生許さない」と言いきっていい、許さなくていいよと私は思った。

でも、間もなく父が死ぬと、心配して駆けつけた仲間たちと一緒に偲び酒を飲んで、思い出話をし、生前の写真を母の遺影の横に飾る千代ちゃんなのである。

こうやって、人は許すほうを選んでしまうのかもしれない。
「ひどいけれど、愛情深い父親だった」という物語をこしらえて周囲と共有し、【過去】にしてしまうほうが楽なのかもしれない。
これからも生きていかなきゃいけないから。
憎み続け、許さないままで生きるのもつらい。
親のためではない、自分のために許そうとするのだ。

故人に献杯して笑い泣きする風景は穏やかだったけど、「許しても地獄、許さなくても地獄だな」って気もした。
生きるのは苦しい。
だから解釈が、つまり物語が必要だ。
悲劇と喜劇が。

ま、「ここに住まわせてやれば」という一平の提案を受け入れて、畳の上で死なせてやるほどの情はかけなかったことで、物語としてはバランスをとったという感じかな。おかげで牢の中で最期を迎えたトータス松本でした。


今週これだけ千代が苦しんでいても、夫の一平がしてやれることは何もない。
それでも「あの毒父といるよりは、この荒んだ結婚生活のほうがまだマシ」とでもいうような夫婦の描写はリアルで、納得がいった。

肉親との縁が薄いという共通点をもっていても、この二人の根っこには「人の苦しみなんてわかるわけないやろ」(←京都の撮影所の廊下のシーンね。大好きだった)という感覚がある。

それは真理だと思うんだよね。
人の苦しみなんて、ほんとの意味で理解できることはない。
親子でも、夫婦でも。
だけど一人では寂しいから、ふとしたときに肩を寄せ合うのだ。

一平と千代はそんな夫婦だと思ってるから、今日の最後のイチャイチャシーン、特に千代からのキスはワタシ的には蛇足だったと思う。。。
一平の暗さとクズさはこの物語のキモであり、それを演じる成田凌の魅力にやられている私です。


それにしても、「お母ちゃん礼賛」な空気がどんどん強まるドラマの雰囲気にちょっと辟易としている。

幼いころ優しい母と死に別れ、その後父に捨てられた千代にとって、「お母ちゃん」は信仰のようなもの。
一平の生母に会いに行ったときも「“お母ちゃんのくせに”、そんな冷たいこと言うなんて」と顔を歪めて罵っていた。
一平が傷ついたことそのものより、「お母ちゃん」の ” こうあるべき ” から逸脱してる一平母が許せないというように。

先週のラストは、やんちゃを尽くした千之助万太郎が二人並んで料理屋の女将さんにお尻を打たれるシーン。
今週ラスト、千代が一平に言った言葉は、自らすすんで「劇団のお母ちゃん」という役割をも引き受けるという宣言にも似ていた。

どうやら、このドラマが描く「理想のお母ちゃん像」は、他者を受け止め、美点を引き出してくれて、愛をこめて叱り、最後には許してくれるというもので、今のところ、そこに批評的な目線が感じられない。

ま、モデルが「浪花のお母ちゃん」といわれた女優さんらしいので、しょうがない面があるんだけどさ。
あまりに古いステレオタイプで、21世紀の朝ドラでこのままいくのなら、だいぶがっかりかも。

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