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『ポスト・サブカル焼け跡派』’70~’80s部分

キャロルから星野源まで。‥‥といっても、いわゆる普通の音楽批評ではなく、社会学的アプローチ。メディア環境の中で各アーティストが時代にどう「ハマった」のか? 

貫かれているのは、「'70年代以降、音楽を含むサブカルチャーは政治・社会との接続を拒否した形で存在し、しかも常に男性優位であった」という目線。ミュージックシーンについて語るとき、'80年生まれの男性がここまでジェンダーを論点にするのは出色です。

たとえば'70年代。矢沢永吉率いるキャロルは、グループサウンズのようなザ・芸能界な音楽でもなく、それに対するカウンター(ex.はっぴいえんど)でもなく、はたまた前時代の政治的な音楽(フォーク)でもない分野をつくった。つまり、「あらゆる政治性から切り離された避難場所」「ヤンキー的コミュニティ」としてのロック。

ほぼ同時期、沢田研二は、海外のグラムロックをキッチュに記号化・消費財化。矢沢の「成りあがり」や沢田研二の詞を手がけた糸井重里は、マッチョイズムを封印してサブカルチャーの門戸を広げた。

'80年代のアイコンは? 「意味からの解放」を芸風としたタモリ。フライデー社襲撃のような凶暴性と「たけしくん、ハイ!」のような少年性をあわせもったビートたけし。
 
このように、'70~'80年代、一億総消費社会化が進む中で、「オトコノコ」にとっては多様なキャラクターが用意され、楽しく遊び続けられるサブカルチャー空間が提供される一方、そこでは女性を「鑑賞する・消費する」視線がよりいっそう強まっていったのではないか?というのが本書の論旨。
 
松田聖子のように、生身の身体性を消臭して演じ切るアイドルはもてはやされたが、女性の生理を歌うような戸川純は「不思議ちゃん」といわれた

「男性の自意識や不能感は
 サブカル空間ではむしろ語りやすいものだった。
 なのに
 女性が自意識や不能感を表現すると
 異端とされ、揶揄や嘲笑の対象となる。
 そこには非対称性があった」 ということ。

少女文化や女性の行動様式を男性が勝手に措定してからかう現象は、「インスタ映え」や「メンヘラ」など現在も拡大傾向にあると著者は述べている。
 
'80年代に “ 鑑賞された ” 女性たちの自意識のゆくえ。'90年代以降、松田聖子はアメリカに進出したり自ら曲を作ったりして「アーティスト」をめざし、戸川純は徐々に活動が閉塞し自殺未遂も。どちらももがいている。

一方で、小泉今日子は男女雇用機会均等法的な流れとシンクロしたのでは? 男たちと軽やかに対等に渡り合えるイメージを最初から作れたのでは? という指摘も興味深い。
 
随所にハッとさせられる鋭い批評だと思う。‥‥が、'80年代までは、私自身は生まれてないかほんの子どもだったので、自身で体験した世代の方に読んでもらって感想を聞きたいところ。'90年代以降についてもメモしていきたい。

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