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大人になりかけの僕が今、家族というものについて考えること〜石原燃「赤い砂を蹴る」を読んで〜


こんばんは。雨が止みましたね。
突然ですが、皆さんは家族ってどういう存在だと思っていますか? 仲はいいですか? それとも何か複雑な関係でしょうか?
本日は久しぶりに読書感想文のようなものを書いてみようかと思います。

テーマとして「家族のあり方」みたいなものを取り扱いました。
だからお父さんやお母さんが嫌いだ! なんて思っている方。もしくは結婚しようと思っていたり、したばかりだという方。そして暫く親とは会ってないんだよね、という方は是非是非読んでみてください!


読んだ作品は石原燃「赤い砂を蹴る」(『文學界』2020年6月号)。
何故この作品について書こうかと思ったのか。それは今作を通じて「あ、僕年取ったんだな」と23歳ながらに感じたからです笑
また、今回も少しだけ小説というコンテンツならではの面白さもお伝えしていこうかと思います。


それでは作品詳細を含めて、次の項目から書いていこうと思います!


1.一文目で惚れました。


まず今作を書いた作者石原燃さんですが、もともと劇作家をされている方のようです。
2012年から「燈座」という劇団も立ち上げており、精力的に活動されているようですね。

石原燃

(画像は https://www.kansai-woman.net/theme457.html より)

『文學界』の目次にも彼女が劇作家であることは記載されており、且つ今作がデビュー作とも記載されていました。
そのため正直読む前は「ちゃんと小説になってるの?」なんてことを考えていました。


が、始めの一文を読んでその心配は無用であったとすぐに理解します。
物語は次のように始まりました。

 ミランドポリスに着くのは、夜十時をまわるだろうということだった。
 昼の十二時半にバスに乗ってから、もう五時間以上経つというのに、やっと半分を超えたところだと聞いてめまいがしていた。
(『文學界』6月号P10より引用)

物語のあらすじを簡単にいうならば、母子家庭で育ち母が死んでしまった四十代の女性・千夏と、千夏の母の友人であり夫と義母を亡くした女性・芽衣子が、芽衣子の故郷であるブラジルに向かうという物語です。
2人はまったく異なる境遇でありながらもしかしお互いにお互いの姿を重ねながら、芽衣子の故郷で「親子」や「夫婦」などの「家族」のあり方を考えていきます。

そんな物語について、先ほどの冒頭の文章は実はズバリ、たったの2文で説明してしまっているのです。
小説というコンテンツには言葉しか用いられないため、物語の状況が理解しにくい、という特性があります。

しかし今作は「ミランドポリス」という単語によって物語の舞台が外国であることを示しています。次の文章ではその場所が彼女たちが普段から生活している場所ではなく、何らかの目的で訪れようとしていることが分かる。

彼女たちの普段暮らしている場所から多くの時間をかけなければたどり着けない遠い場所であることも、多分この物語にとっては重要なことなのでしょう。


兎に角、こうして僕はこの始めの文章によって確信しました。

こいつは面白い物語が始まるに違いない。

そうして予想通り、「赤い砂を蹴る」はとても面白い作品でした。

家族のあり方は決して1つではありえないこと。生きることの困難さ。何より舞台のブラジルが異郷の地でありながら、それでもまるで自らの故郷のことを書いているようだといつの間にか感じていたことには驚きました。



2.赤い砂を蹴って誰を追いかけるのか。


いったん話を小説というコンテンツならではの面白さというところに移しましょう。
「赤い砂を蹴る」というタイトルですが、実は本文にこの言葉は2度登場します。

「なにやってんの。早く行こう。」
 芽衣子さんの声で我に返る。いつのまにか、ふたりに遅れをとってしまっていた。
 何メートルか先をあるくふたつの背中に追いつこうと、赤い砂を蹴る。
 サトウキビ畑が途切れ、視界が開ける。
(『文學界』6月号P48より引用)

 子供たちがすぐに私たちを見つけ、駆け寄ってくる。一緒に豚小屋を見に行ったカズが私の手を引っ張る。…(中略)…芽衣子さんは正面から、もろに水を浴びて、やったなあ、と子どもたちを追いかける。子どもたちが興奮した笑い声を上げ、顔を真っ赤にして散っていく。小さな背中を追って、赤い砂を蹴る。小さな体から湯気が立つ。私たちの服も靴も、赤い砂まみれになっている。
(『文學界』6月号P73より引用)

いや、見事な対比ですよね。
「どこで」「誰を」「何のために」「追いかけて」「赤い砂を蹴る」のか。
タイトルが「赤い砂を蹴る」というものである以上、この比較にこそ物語の主題があるといえるでしょう。

でも実はこれ、やろうと思ったら似たようなことを映画やドラマなどの映像で行えるんですよね。
じゃあ何がどう小説らしい面白さを表現しているのか。

それはいくつも考えられますが、第一に構図が完璧に一致することです。
今回わざわざ僕は引用文の「、」や「。」など句読点ごと太字にしました。それは何故か。恐らく作者が両者の対比を意識させたいがために、全く同じ書き方をしたのだろうと、そう考えたからです。

映画やドラマ、漫画に比べて小説は容易に同じ表現を作中に登場させることが可能です。それは文章=言葉というものがそもそも再現性のあるものとして存在するからであろうと思われます。
その言葉ならではの特性を活かした表現は、もちろん小説という「言葉」を扱う表現の醍醐味なのではないでしょうか?



ところで、引用した文章は両者とも行為主が語り手でもある千夏です。
それぞれの場面で追いかけていた人物たちを、千夏がどのように作中で表しているのか。それを知ることはきっと物語をより楽しむために有効なことであると思います

是非試してみてください。



3.大人と子ども、それぞれにとっての家族とは。


話を戻して「赤い砂を蹴る」の感想を語りましょう。

本作を通じてずっと僕が考えていたのは、「やっぱり親って勝手なんだよな」ということです。
主要な登場人物である千夏も芽衣子も、形は違えど親や夫の身勝手さに振り回される人生を送っています。

勝手に生きて勝手に死んでいく親。
かと思えば、自分に辛く当たっていた義母が芽衣子に「最期は芽衣子にみとって欲しい」などとも言ってくる。

「親」や「家族」の問題に一度でも苦しんだことのある人ならば、多分僕と同じ思いを抱くことだろうと思います。
だけど僕は、次の言葉でハッとしました。

「なんか思いだしちゃった。あの人の身体が警察から帰ってきた夜にね、私、娘に言ったのよ、お父さんの良いところだけ覚えていようって。だけど、あの子、私は無理、お父さんのことは全部忘れる、お父さんのことでいい思い出なんかないって言うのよ。」
(中略)
「でも、あの人はあの人なりに、ユリのことかわいがっていたのよ。」
「しょうがないよ。子どもには親を嫌う権利があるんだから。」
(『文學界』6月号P70,71)

これは芽衣子が夫が死んだ時にした娘との会話を千夏に話しているシーンです。

それまでも芽衣子は、夫に自らがどれだけ苦しめられてきたかを語っていました。だけどその夫が死んだ時に出てきた言葉が上のものだった。
僕はこのことに「これが家族か」と感じたのです。

そして同時に、大人が人と付き合うということと、子どもが人の輪の中にいることの違いを感じました

どういうことかと言えば、それは芽衣子と娘のユリの発言の対比です。
芽衣子が自身に暴力を奮っていた夫をそれでも許そうとしたのに対して、娘のユリはただ拒否の姿勢を示した。

僕自身、離婚してから好き勝手にやっている(少なくとも僕にはそうとしか見えない)実の母親に対して、ただ拒否の姿勢を示していました。
だけどこの文章を読んで、大人として、社会の一員として誰かと関わっていくということは、そう単純な一義的なものではあり得ないのだと感じました。


もちろんこの文章を読んだ今も、じゃあ母親と連絡をとろうなどという気分にはなりません。
だけど改めて、今のままでいいのか。家族ってなんなのか。人と関わるってどういうことなのか、ということを考えさせられたように思います。

「赤い砂を蹴」った千夏が、物語の中でどのように変化していったのかということが、僕にそれらを教えてくれました。



4.終わりに


久々の読書感想文がまさかの3,000字を突破してしまいました。
長い文章にお付き合いいただき、ありがとうございます。

本当はもっともっと突っ込んだことを書きたかったのですが、これ以上はネタバレのオンパレードになってしまいそうだったので、ここら辺で失礼させていただきます。


家族、というものは難しいものだと思います。
昔から感じていましたが、今後は自身が家族を築き上げていく立場なのだと考えると、よりそのことを実感として感じられます。

今回はそんな中で、1つ答えではありませんが、何かを示してもらえたような気がしました。千夏の感情の機微に触れることで家族に対する考えが少しだけ深まったように思います。

本来なら知ることのできない誰かの心を知れる。
なんだかんだと言って、小説の良さでこれ以上のものはないのかもしれません。

それではまた。
読んでくださりありがとうございました。


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