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エモい読書法のすヽめ 〜辻村深月『スロウハイツの神様』を題材に〜


お久しぶりです。大学の卒業論文も終わり、クラウドファンディングについてもひと段落つきました、小説家の齋藤迅です。

今回は小説をそのストーリー性だけでなく、小説ならではの楽しみ方で楽しめる読み方をご紹介して同じような読書法をする仲間を増やしたい!
そもそも素敵なコンテンツが無数にある中でわざわざ小説を読むのであれば、小説でしかできない楽しみ方をしなきゃもったいない!

そんな思いからこの記事を書いています。
書かれた事柄からより多くを読み取り、そうして登場人物たちとより近い距離まで行くことができるような。そんなエモい体験を読書によって皆さんが得られるよう、テクスト分析という概念を下敷きに解説していきたいと思います!

題材とする小説は、僕の通う大学の先輩である辻村深月さんの『スロウハイツの神様』です!
因みに小難しいキーワードなんかは一切使わずに解説していきますので、その点はご安心ください。

1.辻村深月『スロウハイツの神様』



さて、まず『スロウハイツの神様』について、その粗筋を確認しておきましょう。上下巻に分かれた作品ですのでそれぞれについて、「BOOK」データベースから粗筋を引用させていただきたいと思います。


人気作家チヨダ・コーキの小説で人が死んだ―あの事件から十年。アパート「スロウハイツ」ではオーナーである脚本家の赤羽環とコーキ、そして友人たちが共同生活を送っていた。夢を語り、物語を作る。好きなことに没頭し、刺激し合っていた6人。空室だった201号室に、新たな住人がやってくるまでは。(上巻)

莉々亜が新たな居住者として加わり、コーキに急接近を始める。少しずつ変わっていく「スロウハイツ」の人間関係。そんな中、あの事件の直後に百二十八通もの手紙で、潰れそうだったコーキを救った一人の少女に注目が集まる。彼女は誰なのか。そして環が受け取った一つの荷物が彼らの時間を動かし始める。(下巻)


今回は既にこちらを読んだ方、そしてネタバレがあっても気にしないよ、という方に向けて記事を書かせていただきます。

ですから「まだ読んでないからやめてくれ〜!」という方はひとまず上からamazonに飛んで購入してください。
もちろん、ここで本を買ったからと言って僕に1円でもお金が入ることはありませんから、その点はご安心を。笑

辻村深月さんといえば『かがみの孤城』が昨年、読書好きの方々の間で多く読まれていたことを記憶しています。
デビュー作『冷たい校舎の時は止まる』は漫画化もしていますし、短編集『鍵のない夢を見る』では直木賞を受賞されました。

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(辻村深月さんの写真/新潮社著者ページより)


そんなわけで、小説家として世間から十二分にその実力を認められている方の1人であると言ってまず問題はないでしょう。
読書を普段しない人にも名前が知られている稀有な小説家の1人でもあります。

作品と辻村さんについてのお話はこの程度にしておきまして、いよいよ本題に入っていきます。



2.『ダークウェル』の作者は誰か。対比関係が明かしていたその存在。


「チヨダ・コーキの小説のせいで人が死んだ」その日の天気は、快晴だった。(上巻P9L1)

作品はこのような一文で始まります。
チヨダ・コーキことコウちゃんは、今作品における最重要人物の1人です。そしてまた、この事件というものも作品を通じて1つ重要な意味を持つものとなっています。
事件についての説明があった後、作品は次にこのような文章で環のことを紹介します。

赤羽環はキレてしまった。
それまでずっと、もうずっと我慢していたはずだったのに、唐突にキレてしまった。急に我慢できなくなって、視界がぐらぐらして、するするっと自然に爆発した。(上巻P15L1)

この文章は章題にもなっていますよね。なかなかにパンチの効いた、記憶に残る文章だと思います。と同時に環の人間性を一言で端的に表し切っている。

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小説に限らず、特殊な技法を用いない限りは物語は基本的に、その筋における中心的立ち位置を務める登場人物(分かり易く言えば主人公でしょう)がまず登場します。
この作品においてもそれは同様で、チヨダ・コーキと赤羽環という2人の中心的立ち位置にいる人物が登場しています。

そしてまた結びにおいてもこのことは同様であり、エピローグではスロウハイツの面々の物語内現在の様子が語られた後、次のような文章でコウちゃんと環の話が始まります。

三十代の赤羽環の、今現在と、これからの話をしよう。(下巻P472L1)

物語はスロウハイツを出て離れ離れになっていたコウちゃんと環が再会する場面で閉じられます。
このように分かり易く『スロウハイツの神様』はコウちゃんと環を中心に据えた物語となっています。

しかしそれにも関わらず、多く語り手が視点を寄せているのは環の友人である狩野壮太なんです。

このことについては僕は、作品を読んでいる間中ずっっっっっっと何故だろうかと不思議に思っていました
もう本当にずっとです。誇張をしているわけでもなんでもなくてずっっっっっっっっっっっっっっっっっっっと考えていたんです。

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※こんな可愛い感じではなくのたうちまわって考えていました。


はじめは2人の関係を外部から描いていくことに、辻村さんの狙いがあるのだろうかと、そう考えていました。
だけど読み進めていくうちにどうやらそういうわけではないぞと、そう確信していきます。その確信の一因となったのが、例えば下のような展開です。


狩野壮太は漫画家の卵。彼は作中で漫画家として成功するまでは実家に帰らないと述べています。
しかしある時、作中にふと狩野が実家に帰っている描写が出てくる
その描写が出てきた当時は「あれ?」というくらいのものです。
しかし、物語は段々とチヨダ・コーキ作品と同等か、それ以上の作品である『ダークウェル』を描いているのは誰か、という所に着目していきます。

というのも、『ダークウェル』の原稿がスロウハイツの誰かに向けて届いたのです。だから、その作者が何者なのか、ということに焦点が当てられていく。
もう分かりましたよね? 以下、下巻の文章を2つ、参照していきます。

……会計は、奢りたがる公輝を強引に無視して割り勘にした。実を言うと、狩野は結構金持ちだ。(下巻P68L4)

実を言うと、ここ結構一人で来るんですよ」(下巻P68L10)

コウちゃんはスロウハイツの住人にとって、また物語世界を生きる一般的な人々にとって雲の上の存在です。特にクリエイターの卵が多く住んでいるスロウハイツの住人にとっては、タイトルにあるような正に「神様」のような存在。
そんなコウちゃんと狩野は、心話文と会話文という違いこそあれ、同じ言葉を発しています。これが何を意味しているのか。


端的に述べましょう。
ここで狩野が『ダークウェル』の作者であること、環を凌ぐ才能の持ち主であること、そしてそれらを秘していることが明らかとなっているのです。
才能を明らかにしているコウちゃん。才能をひたすら隠し続けている狩野。
この対比はこの2つの文章によって見事に表現されています。


これが多く、狩野の視点によって物語が語られている理由だと言って間違いないでしょう。今作はコウちゃんと環の話、そして『ダークウェル』の謎を中心に筋が進展しておりますから。

このように書かれていることの対比関係を知ることが、まず1つ、小説作品を理解する上でキーワードとなってきます。
『スロウハイツの神様』ではこの対比関係が特に分かり易く、天才クリエイターとして作品序盤からその圧倒的存在感を示してきたコウちゃんと、そのコウちゃんが認め憧れる『ダークウェル』の作者であることを隠している狩野の対比が、同じ言葉を口に出すか(表現するか)心のうちで留めているか(表現しないか)で象徴しているんですね。

ただ狩野が結構金持ちなのは何故だろう、ということからその直後に同じような言葉でコウちゃんが何か言っているぞ、というところまで考える。
そのことによって、物語の途中にして仕組まれた作者の意図に気がつくことができます。


こんな読み方できたらカッコ良くないですか?


他の人ももしかしたら、「これ狩野が『ダークウェル』の作者なんじゃない? だって金持ちって言ってるよ」くらいはいうかも知れません。
でも「ここはもしかして明示的なクリエイターの神様であるコウちゃんと、秘密にされたままのクリエイターの神様である『ダークウェル』の作者を対比させてるんじゃ……」なんて言える人はそういないはずです。

これであなたも明日から立派なテクスト分析家です。



3.スロウハイツの神様とは何者だったのか。語り手と視点の区別が導くその真相。


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さて、それでは少し話を戻しましょう。今書いていたのは作品の筋において大きな役割をなす「『ダークウェル』の作者は誰なのか」という疑問に関わる読み方でした。
しかしその疑問は何故視点が狩野に寄ってばかりいるのか、という疑問に端を発しているのです。覚えているでしょうか。少し前に僕は次のようなことを書いています。

しかしそれにも関わらず、多く語り手が視点を寄せているのは環の友人である狩野壮太なんです。

今回の記事執筆にあたって参考にしている「テクスト分析」という概念においては、「語り手」と「視点」は別物として扱われています。
具体的にいうならば、「語り手」は地の文で語っている人(作者ではありません)、「視点」は誰の目から世界を見つめているか、ということです。

そういえば、五年前に母親が死んだ時も環はそんな風だった。大学の講義中、携帯に叔父さんから何度も着信が入っていたのに気付かなかった。目の前で展開されるジェンダーフリーに関する授業を流すように聞きながら、あくびを嚙み殺し、眠気と闘っていた。適当にノートをとっていた。(上巻P15L5)

いくつかある太字の部分に注目してみてください。
例えば「そういえば」というのは環自身の実感としての言葉ですよね。でも同じ文章で「環は」と書かれているように、環のことを外側から(俗に言う三人称視点によって)描いている。

これが語り手と視点の違いです。「そういえば」と言っているのは視点としての環であり、「環は」と語っているのは作品の語り手です。

そのように考えると、「流すように」「適当に」というのは環の実感で、「ノートをとっていた」というのは外側から環を描く語り手の言葉ですよね。

さて、では「何故コウちゃんと環の物語を、狩野の視点を最も多く採用して語っている」のでしょう。
語り手が何者で、その視点は誰のものなのか。
これを知ることは物語を理解する上で驚くほどの楽しみを与えてくれます。

例えば今作の場合、タイトルにある「神様」って何だろう。ということを考えるにあたって、この語り手と視点の問題は非常に重要な意味を持ってくるはずです。
神様って何だろう。このことを考えることは、多分語り手と視点の問題に接続していきます。そうして考えていくと「あれ、もしかして題名にある神様っていうのは……」と段々と見えてくるはずです。
是非是非実践してみてください。このような視点から小説を読むことは、絶対にあなたに驚きと感動をもたらしてくれます。


実は今回のような三人称視点で登場人物の内面を描く場合と描かない場合、一人称視点で語り手以外の人物の内面を描く場合と描かない場合と、語り手と視点の問題は多層的です。
たくさん種類があるということは、作者は意図的にそれらを選択しているということ。意図があるということは、何らかの意味があります。

そんなことを考えながら読んだ小説は、絶対にこれまでの数十倍、いや数百倍楽しくなること間違いありません!



4.終わりに


長くなってしまったなか、お付き合いをいただき本当にありがとうございます!
僕がいつも楽しんでいる「エモい読書法」を少しでもやってみたいな、と思っていただけていたら嬉しいです。

今回書いたこと以外にも「エモい読書法」はたくさんあります。僕の引き出しにはまだまだ余裕がありますので、もし今回の記事を楽しんでいただけるようだったらこれからも書いていこうかなと思います。
ですので少しでもいいな、と思った方は是非是非イイネをください!
参考に続編を書くか決めようと思います。


最後にちょっと宣伝ですが、僕は2月2日に小説を自費出版しました
その記念イベントを9日(日)に行い、そこで今回書いたような読書の新しい楽しみ方を提示できればなと考えています。
ですので今回興味を持たれた方は、是非イベントにもいらしてください(^ ^)
下記サイトから予約が可能です。また予約が間に合わなくても是非是非飛び入りでいらしてください。


今年は今回書いたような、ある種分析的な読書をする仲間をどんどん増やしていきたいと思っています! それでは! 


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