Big4コンサルティングの歴史 第11話(大合併編 1980年代アメリカ)
本編(第11話)のあらすじ
会計事務所を取り巻くビジネス環境
1970年代のアメリカでは、本業の会計監査が頭打ちとなっていく中、大手会計事務所ではコンサルティング等の非監査業務が伸び始め救世主となりつつありました。
1980年代に入るとその傾向に拍車がかかり、会計事務所は監査をする企業から総合プロフェッショナル・ファームへと変化を遂げつつありました。1980年代アメリカにおける大手会計事務所(通称ビッグ・エイト(Big8)※)の大合併の歴史を、コンサルティングサービスの観点で見ていきたいと思います。
1980年代に会計事務所が置かれていたビジネス環境について、プライス・ウォーターハウス(後のPWC)は社史『ACCOUNTING FOR SUCCESS』のなかで三つの点を指摘しています。
一つ目は、情報通信技術の発展が会計士の仕事のやり方に根本的な変化をもたらし、コンサルティング分野等に新たなビジネスチャンスが生まれたこと。二つ目は、アメリカ企業の再編成が広く行われた時代であったこと。多くの誇り高き企業が苦境に立たされ、消滅する企業もありましたが、買収や合併を通じて乗り越えるというパターンが少なからず見られました。三つ目は、アメリカ経済の急速なグローバル化により国際的なプレゼンス強化が重要になったことです。それぞれが会計事務所の将来に多大な影響を及ぼすものでした。
特に一つ目の情報技術の発展は、会計事務所のコンサルティングサービス拡大を強く後押ししました。多くのアメリカ企業にとってコンピュータが経営と切り離せないものになってきており、業務効率化のための利用目的から、新しい事業を生み出すための利用目的へと変わっていきました。そのため、クライアントは会計事務所に対して一層広範なサービスを求めるようになり、企業のコンピュータシステムを整理し設計を行うシステムインテグレーションはその一つでした。
コンサルティング業務は会計事務所の収入に大きな影響を与え、Big8の収益に占める割合はますます大きくなっていました。1980年代の会計事務所によるコンサルティングサービスはどの程度のものだったのでしょうか。アーサー・アンダーセンのみ突出していますが、大体会計事務所の売上に占める割合は20%が平均だったようです。
1980年代のビジネス環境として上がった二つ目、三つ目の企業再編成や国際的なプレゼンスの強化に影響を受け、会計事務所自身も合併を進めることになりました。Big8の会計事務所再編を描いた『ビッグ・シックス』によると、再編成されたクライアント企業を相手にアメリカで有力な会計事務所となるには、国内に100ヶ所の事務所を持つ必要があること、国際的企業との契約を勝ち取るには会計事務所にもグローバルな組織力が求められることなどが必要とされたようです。Big8は互いの強化点を踏まえて合併の交渉相手を探っていたのでしょう。
さて、1980年代にBig8の会計事務所間でどのような合併が行われたのか確認しておきたいと思います。1983年と1990年のアメリカでの会計事務所ランキングを見ると、その間に大きな動きがあったことが分かります。
Big8(ビッグ・エイト)ランキング(1983年)
※会計事務所(監査+税務+コンサル)での売上順
Big6(ビッグ・シックス)ランキング(1990年)
※会計事務所(監査+税務+コンサル)での売上順
この10年の間にBig8事務所同士で2組の合併があり、Big8はBig6になりました。
1987年、Big8ランキング2位のピート・マーウィック・ミッチェルとKMG(クリンベルト・メイン・ゲルデラー)会計事務所が合併しKPMGを設立しました。KMGはアメリカのBig8に対抗するため設立された欧米の有力会計事務所の国際会計事務所連合体です。
1989年、Big8ランキング5位と6位のアーンスト・アンド・ウィニーとアーサー・ヤングが合併しアーンスト・アンド・ヤング(EY)を設立しました。また同年には、Big8ランキング7位と8位のデロイト・ハスキンズ・アンド・セルズとトーシュ・ロスが合併し、デロイト・トーシュ(Deloitte)を設立しました。Big8の下位事務所が生き残りをかけて行動を起こしました。合併後のビッグ・シックスでのランキングは、アーンスト・アンド・ヤング(EY)が2位、デロイト・トーシュ(Deloitte)が3位、KPMGが4位であり、合併の成果はあったと言えそうです。
一方で、20世紀前半のアメリカ会計士業界のリーダーとして圧倒的な存在感を示していたプライス・ウォーターハウス(後のPWC)は、20世紀最後の10年を前に最下位まで落ちてしまいました。実は未遂に終わっているものの、プライス・ウォーターハウスの周りでは合併話が二度持ち上がっていました。一度目は1984年のデロイト・ハスキンズ・アンド・セルズとの合併未遂、二度目は1989年のアーサー・アンダーセンとの合併未遂です。どちらも未遂に終わらなければ、最強の超巨大会計事務所・コンサルティング会社が誕生していたことでしょう。
プライス・ウォーターハウスとの合併が成就しなくとも、単独一社の力でビッグ・シックスのトップを守っていたアーサー・アンダーセンは、長年に渡る社内内紛から、1989年ついに会計サービスのアーサー・アンダーセンとコンサルティングサービスのアンダーセン・コンサルティング(後のAccenture)に分離しました。
(参考資料)
『ビッグ・シックス』(マーク・スティーブンス著 明日山俊秀・長沢彰彦 訳)
『闘う公認会計士』(千代田邦夫)
『ACCOUNTING FOR SUCCESS』(DAVID GRAYSON ALLEN、KATHLEEN MCDERMOTT)
『アカウンティング・ウォーズ』(マーク・スティーブンス著 明日山俊秀 訳)
エリート会計事務所プライス・ウォーターハウスの1980's
マッキンゼーへのコンサル依頼、デロイトとの合併未遂
1980年代アメリカ。大手会計事務所8社(通称ビッグ・エイト)は、顧客であるアメリカ企業同士の合併・買収の波により大きな影響を受けていました。企業の再編は会計事務所が顧客と収入を失うことに繋がる場合があったからです。
1980年代のプライス・ウォーターハウス社の歴史を紐解き、大合併時代を生き抜いた大手会計事務所の一例を見ていきたいと思います。
1890年、ロンドンに拠点を置くプライス・ウォーターハウス会計事務所がニューヨークに支店を設立したのが、アメリカでのビジネスのスタートでした。20世紀前半は他社を寄せ付けない圧倒的な存在感であり、同社からはアーサー・E・アンダーセン氏のような巨人も排出しました(アンダーセン氏は会計士のキャリアをプライス・ウォーターハウスでスタートしました)。プライス・ウォーターハウスは、1960年にピート・マーウィック・ミッチェル(後のKPMG)やアーサー・アンダーセン(後のアクセンチュア)等に抜かれるまで、アメリカ会計士業界で名実共にリーダーであり続けました。
規模では他社に追い抜かれたものの、1960年代以降もプライス・ウォーターハウスは歴史に誇りを持ち、いたずらに規模拡大を追いかけず伝統的な会計事務所であり続けました。それはコンサルティング分野への進出が他のビッグ・エイトと比べると抑え気味であったことにも表れています。
ところが、アーサー・アンダーセンのコンサルティング重視やピート・マーウィック・ミッチェルの合併・買収による規模拡大等の戦略とは違い、プライス・ウォーターハウスの誇りというものは明確な戦略と呼べるものではなく、プライス・ウォーターハウス自身が危機感を持ち始めました。そして、1979年には経営コンサルティング会社のマッキンゼー・アンド・カンパニーに会社の戦略評価を依頼しました。
マッキンゼー社へのコンサルティングの依頼は非常に興味深いものです。この事実は、コンサルティング会社がコンサルティング会社をコンサルティングするという意味を持っており、互いに相手へのリスペクトが伴ってこそ成り立つものだったと思われます。
少し話はそれますが、この頃マッキンゼーにコンサルティングを依頼したビッグ・エイト会計事務所はプライス・ウォーターハウスだけではなく、デロイト・ハスキンズ・アンド・セルズ(後のDeloitte)もその一つでした。
さて、マッキンゼーの助言後に最初の大きな動きが見られたのは1984年でした。プライス・ウォーターハウスとデロイト・ハスキンズ・アンド・セルズは、過去に例のないビッグ・エイト事務所同士の合併という話を極秘に進めていました。
合併議論が公になってからは、巨大会計事務所の誕生のプラス面を協調する声と共に、独占的な地位に対する脅威を警戒する声が同業者から出ることもありました。
最終的にこの合併話は、両社ともアメリカのパートナー(経営陣)には支持されましたが、プライス・ウォーターハウス側がグローバルで強い発言力をもつイギリスのパートナーに反対され、立ち消えとなりました。
プライス・ウォーターハウスにとって劇的な成長が期待できたデロイト・ハスキンズ・アンド・セルズとの合併話は、消滅してしまいました。1890年にロンドンからニューヨークに進出し、90年以上経ってもなおイギリスの影響力は大きく、それがイギリスを本家とする会計事務所の一面でした。
同社の新たな競争戦略は1980年代の後半へと続いていきます。
(参考資料)
『ビッグ・シックス』(マーク・スティーブンス著 明日山俊秀・長沢彰彦 訳)
『ACCOUNTING FOR SUCCESS』(DAVID GRAYSON ALLEN、KATHLEEN MCDERMOTT)
コンサルティング部門の改革
1984年にデロイト・ハスキンズ・アンド・セルズ会計事務所(後のDeloitte)との合併案が立ち消えになったプライス・ウォーターハウス会計事務所(後のPWC)は、新たな戦略を模索する中で様々な決断をしていきました。その中には半世紀以上に渡る伝統を変革するものもあったようです。
プライス・ウォーターハウスは19世紀末にニューヨークで会計士業を開始して以来、半世紀以上に渡ってアメリカ会計士業界では名実共にリーダーであり、多くの名声を得ていました。そういった歴史を歩んできたこともあってか、プライス・ウォーターハウスは非常に誇り高い会計事務所でした。
その誇りはときに高慢にも思える態度として出てしまうこともあったようです。学生の採用のためにプライス・ウォーターハウスの人事担当者がアメリカの有力大学を訪問したときのことです。
また、1980年代までプライス・ウォーターハウスが外部からの人材登用を積極的に行うことはなく、そこにも良くも悪くもその誇りが表れていたのではないでしょうか。
ところが、そのような伝統でさえも、当時の会計士業界を取り巻く環境の変化の前では変革せざるを得なかったようです。コンサルタントを初めとした多くのスペシャリストを外部から採用するようになりました。
監査収入が頭打ちになるなか、ビッグエイト※はどこも非監査業務を伸ばすことで状況の打開を計っていました。特にコンサルティングは会計事務所にとって上げ潮に乗っている時期でした。
プライス・ウォーターハウスも違わず、会社の使命は既に会計業務に留まらず、“フルサービスのビジネス・アドバイザリー・サービス“に他ならないとしていました。そして、そのためにはコンサルティングの飛躍的な拡大が不可欠だと考えていました。(『ACCOUNTING FOR SUCCESS』)
1985年、プライス・ウォーターハウスはコンサルティング会社3社と立て続けに合併し、コンサルティングの拡大に動き出しています。
コンサルティング会社と合併し、プライス・ウォーターハウスのコンサルティング部門は、情報技術サービス、システム統合メソッド、ソフトウェア販売などを軸にビジネスを展開していましたが、特に、戦略的システム計画、システム開発、データセキュリティ等の分野で業績を大きく伸ばしていたようです。
プライス・ウォーターハウスはコンサルタントの専門性を向上させるために、コンサルティング組織の再編成にも着手しました。
1980年代には国内に90以上の事務所を抱えていましたが、コンサルティング部門のパートナー(役員)が在籍していた事務所はかなり限られていたうえ、コンサルタントは在籍する事務所の営業範囲に活動が制限されることが多く、事業拡大の足枷となっていました。それを改め、アメリカ全土を12の地域(ニューヨークエリア、東海岸北東エリア、西海岸北エリア等)に分けたエリア・パートナー(地域統括の役員)の下に再編成しました。
このように外部からのコンサルタントの採用、内部の組織再編により、プライス・ウォーターハウスはコンサルティング事業を拡大していきました。その結果、社内では長らく伝統的な会計監査事業のサポート的業務と見なされていたコンサルティングも、重要な独立した業務という地位を得ることができたようです。
プライス・ウォーターハウスは1980年代にコンサルティング事業を大きく拡大することに成功しました。ただ、他のビッグエイト会計事務所も違わず、コンサルティング拡大に余念は無かったことでしょう。
ビッグエイト会計事務所はコンサルティングを中心とする非監査事業の拡大とグローバル化への対応のために再び規模の経済を目指し始めました。そして衝撃は突然起こりました。1989年5月、ビッグエイトの一角であるアーンスト・アンド・ウィニーとアーサー・ヤングは、合併により世界最大の事務所アーンスト・アンド・ヤング(EY)を作ることを発表しました。
(参考資料)
『ACCOUNTING FOR SUCCESS』(DAVID GRAYSON ALLEN、KATHLEEN MCDERMOTT)
『ビッグ・エイト』(マーク・スティーブンス著 明日山俊秀・信達郎 訳)
アーサー・アンダーセンとの合併未遂
1980年代、アメリカの大手会計事務所(通称ビッグエイト)はどこも規模の経済を追い求め、事務所を維持しようとしていました。
1980年代最後の年、ビッグエイト8社の半分が合併を実現するという大きな動きがありました。アーンスト・アンド・ウィニー(合併前ランキング3位)とアーサー・ヤング(同6位)の合併とトーシュ・ロス(同7位)とデロイト・ハスキンズ・セルズ(同8位)の合併です。合併により、アーンスト・アンド・ヤング(EY)とデロイト・アンド・トウシュ(Deloitte)となり、合併後のランキングではそれぞれ1位と3位の規模になりました。
1989年合併前後のランキング
実現はしなかったものの、1989年には更に大きな交渉が進んでいました。アーサー・アンダーセン(合併前1位)とプライス・ウォーターハウス(同5位)の合併交渉です。実現していれば売上が30億ドルを越える世界最大の会計事務所の誕生であり、その後のコンサルティングの業界地図も違ったものになっていたと思われますが、水と油ほど違う両社の合併は交渉開始早々から困難だと言われていました。
失敗に終わったこの合併案を追い、どういう理由で破談になったのかを見ていきたいと思います。
アンダーセンとプライス・ウォーターハウスの合併は、当時のビッグエイトが戦略上必要としていた、グローバルでのプレゼンスとコンサルティングの二つを一気に手に入れることができるものでした。
しかし、お互いが強すぎたことが合併交渉において大きな障害になったと言われています。アーサー・アンダーセンはビッグ・エイトのトップ会計事務所にして、当時世界最大のコンサルティング会社でした。かたやプライス・ウォーターハウスはアメリカで最も歴史のある会計事務所の一つであり、1890年のニューヨーク事務所設立以来、長年業界のリーダーとして名声を欲しいままにしてきました。
アーサー・アンダーセンは監査業務の獲得を、プライス・ウォーターハウスはコンサルティング業務の獲得を、それぞれが合併効果として期待していました。互いに監査とコンサルティングを補完するはずでしたが、両社のプライドとある種のエゴが、交渉を暗礁に乗り上げさせたようです。
それが最も顕著に表れたのがコンサルティングをめぐる交渉でした。
合併交渉時の両社のコンサルティングの力は、アーサー・アンダーセンの方が圧倒的に上でした。そのような状況にも関わらず、プライス・ウォーターハウスはプライドが邪魔をしていまい実力差を認めることができなかったようです。
アンダーセン側も、コンサルティング部門が合併交渉の直前に独立した別組織アンダーセン・コンサルティングとしてビジネスを始めていました。そのため、独立したばかりのコンサルタント達は、合併によって手に入れたばかりの自由を失うことを恐れました。
また、コンサルティング業務と監査業務の利益相反の問題も合併交渉の前に大きく立ちふさがりました。プライス・ウォーターハウスはアメリカでの約100年にわたる会計監査の実績があり、何社もの超優良企業を顧客に持っていました。例えば、IBM、J・P・モルガン、デュポン、ヒューレット・パッカード、ウォルト・ディズニー、シェル石油等です。IBMやヒューレット・パッカードはアンダーセン・コンサルティングのクライアントでもあり、合併後には監査部門かコンサルティング部門のどちらかが顧客を失うことになることが予想されました。
結局、コンサルティングをめぐるこういった問題が、合併失敗の原因だったと言われています。プライス・ウォーターハウスは合併による実利よりも、最終的には自社のプライドや歴史を守る道を選んだように見えます。ただし、その選択の先には、ビッグ・シックスの最下位に転落するという厳しいものが待っていました。
1907年、プライス・ウォーターハウスのシカゴ事務所で会計士のキャリアをスタートさせた男は、数年後会社を辞め、1913年に自らの名を冠したアーサー・アンダーセン会計事務所を設立しました。アンダーセン氏は事務所設立当初から、会計士の仕事は監査で終わりではなく、むしろそこから始まるのだと言っていました。最も重要なことは数字の背後にある営業の実態に目を向け、経営者に役立つ建設的な報告(コンサルティング)をすることであると。アーサー・アンダーセン会計事務所はその後急成長し、1970年代には世界最大のコンサルティング会社となり、更に1980年代にはビッグエイト会計事務所のトップに上り詰めました。そして、アンダーセン氏がプライス・ウォーターハウスを去って80年後、両社は合併の道を探りましたが、巨大になりすぎていた両社が一つになることは不可能でした。
1989年のアーサー・アンダーセンとプライス・ウォーターハウスの合併話は歴史的にみても非常に興味深いものでした。
(参考資料)
『ACCOUNTING FOR SUCCESS』(DAVID GRAYSON ALLEN、KATHLEEN MCDERMOTT)
『TRUE AND FAIR』(EDGAR JONES)
『ビッグ・エイト』(マーク・スティーブンス著 明日山俊秀・信達郎 訳)
(第10話)
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