見出し画像

Big4コンサルティングの歴史 第2話(ファーム誕生編 19世紀イギリス)


本編(第2話)のあらすじ

21世紀にBig4と呼ばれているコンサルティング・ファームの多くは19世紀イギリスを中心に誕生した個人会計事務所を起源にしています。20世紀前半アメリカの会計事務所で名実ともにリーダーであったプライス・ウォーターハウス(後のPWC)もその一つで、1849年のロンドンで40代、50代の会計士と20代の若者によって設立された会計事務所でした。彼らの事務所はロンドンで大成功を収め、その後100年以上も続くグローバル・ファームの礎を築きました。

Big4の始まり

今でこそBig4と呼ばれコンサルティング業界で確固たる地位を築いている各社(Deloitte・PWC・EY・KPMG)ですが、どこも19世紀のイギリスを中心に個人の会計事務所から始まっています。19世紀に会計士という職業が誕生し、ロンドン市街に設立された個人事務所の中から20世紀には数十万人を抱える巨大組織(Big4)が生まれました。

会計士を生み出した19世紀イギリスとはどのような時代だったのか。イギリス史、会計史に関する本をまとめると次のようなことが書かれています。

 産業革命を経たイギリスでは様々な製造業が発展していたが中でも鉄道産業、鉄道会社の誕生は経営・会計という観点において大きな影響を与えた。何しろ扱う資金はこれまでの産業とは桁違いで莫大な金額であり、しかも鉄道という事業の特性上、初期投資に莫大な資金が必要な産業だったのです。そのため、当時のイギリスの鉄道会社は高い配当率を約束した株式を投資家に買ってもらい、株式会社として経営するところが多かった。

 1830年に乗客を乗せた最初の鉄道がマンチェスターとリバプール間で開通したのを皮切りに、鉄道は大発展をとげ20年後には9700㎞、30年後には1万6000kmもの区間が開通していた。会社も大規模化し1850年時点で最大の鉄道会社であったロンドン・アンド・ノースウエスタン鉄道には他に類を見ない1万5000人もの従業員がいた。投資家から莫大な資金が投じられるようになり、投資家に事業の成果を報告することが求められた。また潜在的な投資家を呼び込むためにも財務資料の整備と開示が強く求められるようになったことは想像に難くないだろう。

 一方で巨大産業となった鉄道会社の会計は複雑化し、投資家でさえ会社の経営や収益構造が良くわかっていなかったようだ。会計は複雑化しているにもかかわらずコントロールする法律や規則がないため、鉄道会社から報告される内容は必ずしも正しいものではないことがあった。特に1840年代にイギリス国内全体の不況の影響と合わせ鉄道会社の業績が下向きになってくると、鉄道会社の中には帳簿をごまかし不正会計に手を染めるところも出てきた。

 鉄道以外に目を向けてみると、イギリス国内では株式会社ブームが起こっていた。実はイギリスでは1720年から約100年間、法律により株式会社の設立が国王の許可制になっていたため株式会社の数が激減していた。1825年にこの法律は廃止され、そこから会社設立ラッシュが続いた。当然のことながら全ての会社で事業がうまくいくことはなく、途中で破産に追い込まれる会社も出てくる。設立会社が増えるに合わせ破産する会社も増え、1817年には2311件だった倒産件数が50年後の1869年には5倍の1万396件にまで増えていた。多くの倒産会社で破産業務の要求が増えてきていた。

主な参考文献
『会計学の誕生』(渡邉泉 著)
『帳簿の世界史』(ジェイコブ・ソール 著 村井章子 訳)
『バランスシートで読み解く世界経済史』(ジェーン・グリーソン・ホワイト 著 川添節子 訳)

このように19世紀のイギリスでは、鉄道会社のような巨大で複雑化した会社の帳簿を正しく財務報告すること、粉飾決算を見逃さないこと、増加する会社倒産の破産業務を担えること、そのような会計の専門性が求められるようになりました。それは会計士という職業の登場を待つ状況でした。そしてイギリスには会計士と名乗る人が一人また一人と現れ、会計業務を専門的に行い始めました。

実際、ロンドンでは会計士が大幅に増えており、1799年にわずか11人だった登録者が1860年には300人以上(27倍)に増えました。そのほとんどは1840年以降に登録した人達でした。会計事務所も1811年には24ヶ所しかなかったのが、1883年には840ヶ所(35倍)に増えています。

その中には、ウイリアム・デロイト会計事務所(1845年 後のDeloitte)、プライス・ウォーターハウス会計事務所(1849年 後のPWC)、ウィリアム・クーパー会計事務所(1854年 後のPWC)のように20世紀にBig4となる会計事務所も誕生しています。

プライス・ウォーターハウス会計事務所の誕生

1849年12月24日(月)サミュエル・ローウェル・プライスは友人のウィリアム・エドワーズとのパートナーシップ※を解消しロンドンで個人会計事務所を始めることになりました。これがプライス・ウォーターハウス(後のPWC)会計事務所の誕生と位置づけられています。プライス28歳のときでした。

※パートナーシップは共同出資で運営される組織形態の一種です。定義調に言うと二人以上の人間が金銭、労務、技術等を出資する営利行為またはその契約のこと

当時のロンドン・ガゼット紙に告知が出ているのでご紹介しましょう。ロンドン・ガゼット紙はイギリス政府による公式な政府公報(日本でいう官報)です。

サミュエル・ローウェル・プライスとウィリアム・エドワーズの事務所解散を報じているロンドン・ガゼット1850年1月1日号の表紙
サミュエル・ローウェル・プライスとウィリアム・エドワーズの事務所解散を報じているロンドン・ガゼット1850年1月1日号の10ページ

10ページの画像の左下(枠線内)に解散を伝える記事が出ています。

お知らせ ロンドンのグレシャム・ストリート5番地で会計士業を営んでいたウィリアム・エドワーズとサミュエル・ローウェル・プライスは12月24日にパートナーシップを解消することになりました。
ここに署名します。1849年12月31日。
ウィリアム・エドワーズ
サミュエル・ローウェル・プライス

(原文)NOTICE is hereby given, that the Partnership Heretofore existing between us the undersigned, William Edwards and Samuel Lowell Price, carrying on business as Accountants, at No. 5, Gresham-street, in the city of London, was dissolved on and from the 24th day of December instant.-As witness our hands this 31st day of December 1849.
William Edwards.
S. Lowell Price.

この後1865年までの約15年間、プライスは個人会計事務所を運営していましたが、1865年、プライス44歳の時新たなパートナーシップをウィリアム・ホプキンス・ホーリーランド(58歳)と始めました。おじさん二人で始めた会計事務所でしたが、二人は若手でパートナーシップを結べる人物を探しました。ホーリーランドはかつてロンドンの大手会計事務所で一緒に仕事をした若者をプライスに紹介しました。その人物が、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンを出たばかりの24歳のエドウィン・ウォーターハウスでした。

プライスとホーリーランドは間もなくエドウィン・ウォーターハウスともパートナーシップを結び、ここにプライスとウォーターハウスが揃いました。

パートナーシップは1865年5月1日に最終決定され、3人は事務所設立で共同出資方式を採用、比率はプライスが50%、ウォーターハウスとホーリーランドがそれぞれ25%の割合でした。

ウォーターハウスはパートナーシップ契約に基づき、プライスに1,000ポンド、ホーリーランドに250ポンドを支払いました。彼らはロンドンのグレシャムストリート44番地に事務所を設立し、1899年までの30年以上その事務所を拠点にしていました。事務所名は1874年までは「Price, Holyland & Waterhouse」(プライス・ホーリーランド・ウォーターハウス)とし、ホーリーランドが引退したあとは「Price, Waterhouse & Co.」(プライス・ウォーターハウス)に改名されました。その後124年間プライス・ウォーターハウスは会計事務所として存続し、1998年にCoopers & Lybrand (クーパースアンドライブランド)会計事務所との合併でPriceWaterhouseCoopers(PWC)となります。

キング通りの角にあった入居当時のクイーンズアシュアランスビル。プライス・ウォーターハウスは1階から3階までを確保し、1899年までここにとどまった

ところで、ウォーターハウスがプライスとホーリーランドにそれぞれ支払った金額1000ポンドと250ポンドは今の日本円ではどれぐらいでしょう。1860年代前後のイギリスポンドを現在価値で置き換えてみるとだいたい1ポンド5万円という相場で考えられるようです。弱冠24才の若者が少なく見積もっても6000万円を超える金額を支払ったというのは信じがたいですが、ウォーターハウス家はたいそう金持ちだったのかもしれません。

ポンド現在価値の参考
https://finance.yahoo.co.jp/brokers-hikaku/experts/questions/q1018435525
https://spqr.sakura.ne.jp/wp/archives/827

会計士という職業は新しい職業でしたが成功すれば収入面で相当稼ぐことが可能な職業でした。プライス・ウォーターハウス会計事務所の拡大に伴い、プライス、ホーリーランド、ウォーターハウスのパートナー3人の収入もかなりの額になっていました。

1870年に会社で上げた14,677ポンドの利益を1869年1月のパートナー契約に従って分配すると、プライスは7,788 ポンド(49分の26)(現在の日本円で約3億9千万円)ホーリーランドは4,193 ポンド(49分の14)(同、約2億円)、ウォーターハウスは2,696ポンド(49分の9)(同、約1億3千万円)の収入を得ていたことになります。プライス・ウォーターハウスのパートナー3人の年収は当時のイギリスの階級別と比べても、高位聖職者、高級医師、法廷弁護士といった高貴な職業の平均年収(1,000〜2,000ポンド)を凌いでおり、プライスにいたっては中小貴族、大商人、大銀行家の年収(10,000ポンド)に迫る程でした。

プライスは窯元業の息子で、若い頃に地方都市ブリストルで会計士になりました。大きな報酬を得ることができるロンドンに移り、やがて自分の事務所を設立し会計士として成功しました。リージェンツ・パークのヨーク・テラスに住居を構え、会計士引退後はファーナム・ロイヤルにカントリーハウスを持つような裕福な人生を送りました。

ウォーターハウスはプライスより20歳年下でした。彼の父親はリバプールで綿花の仲買業で成功し、一家はかなり裕福な暮らしをしていました。彼も会計士として成功し39歳のときにはこちらの大邸宅に住むほどの収入を得ていました。

彼らの会計事務所は19世紀のイギリスで成功を納め、その後世界中で100年以上繁栄し続けます。

■参考資料
『近代イギリスの歴史』(木畑洋一/秋田茂 編著)
『TRUE AND FAIR』(EDGER JONES)


19世紀Big4の仕事

1850年代~60年代に一気に増えた会計士ですが、彼らの仕事の多くは会計知識を活かした破産処理と帳簿管理でした。

当時は株式会社ブームでしたので、イギリス国内では沢山の株式会社が設立されましたが、それは破産する会社の増加も伴い、1860年代には1万社を超える会社の倒産がありました。その破産処理を会計士が担っていました。

また、会計の知識や技能が、急速に拡大するビジネスにまだ浸透していなかった時代でもあったため、経営者に対して帳簿のつけ方を指導することを求められてもいました。そのため、今日のBig4が担っているような会計監査の仕事はまだ少なく、多くの会計事務所でも監査から得る収入というのは数パーセントに過ぎなかったようです。

プライス・ウォーターハウスでも、早くから会計士として活動していたベテラン会計士のプライスは自然と倒産処理業務からかなりの割合の手数料収入を得ていました。一方、若手のウォーターハウスの方はプライスよりも後の時代になって会計士の世界に入ったため、破産業務にはあまり関わっておらず報酬の大半は会計業務・帳簿管理から得ていました。こうしてプライス・ウォーターハウス会計事務所ではベテランと若手がうまく仕事を分担し事務所の運営を行っていました。

二人の仕事の分担が良く分かる例があります。ウォーターハウスが担当した、とある製氷会社の仕事です。その会社は苦境に陥っていたため貸借対照表と損益計算書を作成し事業の評価をしようとしていました。そして財務諸表の作成をプライス・ウォーターハウスに依頼してきました。担当したウォーターハウスは財務諸表の作成と事業評価を取締役と総会向けに報告しました。もちろん事業はうまくいく、という評価をです。ところが結局この会社の事業はうまくいきませんでした。するとウォーターハウスはこの会社に手紙を書き、プライス・ウォーターハウスを破産処理のため清算人として雇うよう要請しました。事務所には破産処理業務に精通したプライスという会計士がいることもしっかり伝えたという、当時の会計士の生々しい様子が分かります。

破産処理や帳簿管理に加え、19世紀後半になると法律の後押しもあり、経営者は財務記録の保持について専門家の助力を徐々に求めるようになりました。やがてプライス・ウォーターハウスも会計監査人に選ばれるようになり報酬の中心となっていきました。19世紀末から20世紀の始めにかけて企業の倒産件数が減り始めたことから、新たな収入源として監査の仕事を得ることは事務所の拡大にとって大変重要なことでした。

また、法律が整備されていたといっても会計上の規制がほとんどない状態であったため、投資家も専門家の助言を求めるようになりました。投資家たちは会計士を雇って投資先の調査を行わせたりしたため、これらも会計事務所にとっては新たな収入源となりました。

プライス・ウォーターハウスはこの時代の主要産業である鉄道と金融の顧客を多く持っていました。鉄道に関しては、鉄道監査といえばプライス・ウォーターハウス、という地位を確立していました。事務所にとって大きかったのは当時の最大の鉄道会社であるロンドン&ノースウェスタン鉄道の監査人にプライス・ウォーターハウスが指名されたことでした。当時のイギリスの鉄道網は何百もの会社が互いに連結して路線を敷設していたため、路線を拡大するために鉄道会社は他社を買収することを繰り返していました。実際、ロンドン・ノースウェスタン鉄道も複数の会社が合併してできた会社であり、その後も周辺にある小さな会社を買収して大きくなっていきました。それはプライス・ウォーターハウスにとって、ロンドン・ノースウェスタン鉄道を顧客にもつことで新しい仕事が舞い込んでくる、という良い循環が生まれることに繋がりました。

鉄道ほどではないにしても、プライス・ウォーターハウスは銀行業界についても相当な顧客リストを持っていました。当時の銀行業界の会計方式は他の産業に比べて相当遅れていたことを調査によって知り、プライス・ウォーターハウスが貸借対照表を作成することになったという経緯がありました。

更に興味深いことは、プライス・ウォーターハウスが会計や監査で名声を得ていくことで、様々な仕事を引き受ける契機につながっていったということです。それらの仕事は今日の経営コンサルティング業務の先駈けとも言えるようなものでした。どのようなものがあったかというと、圧延工場での利益計算システムを確立し工場収益を報告する仕事、鉄鋼会社の工場を株式会社に転換するための支援の仕事、住宅会社の経営状況の調査の仕事、公爵が所有する不動産の財務状況の調査、などです。

こういった仕事を成功させることでプライス・ウォーターハウスは19世紀末にはライバル会社を追い抜き、ロンドンでも一流と呼ばれる会計事務所になっていきました。プライス・ウォーターハウスが破産処理業務から会計・監査業務の拡大にシフトし、重要産業の鉄道や銀行の顧客をいち早く獲得していったことがその要因の一つと考えることができます。ちなみにライバル会社、例えばウォーターハウスが会計士の見習いをしていた大手会計事務所のコールマン・ターカンド・ヤングスは1880年代にはまだ手数料の60%を破産業務から得ていたという記録が残っています。

プライス・ウォーターハウスのようにイギリスで成功した会計事務所は、投資家の要望に応じるためアメリカに進出していくことになります。

■参考資料
『TRUE AND FAIR』(EDGER JONES)

(第1話)

(第3話)


この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?