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【コンサル物語】プライス・ウォーターハウス社のコンサルティング拡大の歴史(1960年代)

1960年代、Big8(ビッグエイト)会計事務所※のコンサルティング部門の中には、大手経営コンサルティング会社(ブーズ・アレン・ハミルトン、マッキンゼー、クレサップ・マコーミック・ペイジット等)を脅かす会社もありました。

※1960年代当時、アメリカに存在した8つの大手会計事務所のことで、ピート・マーウィック・ミッチェル、アーサー・アンダーセン、アーンスト・アンド・アーンスト、プライス・ウォーターハウス、ハスキンズ・アンド・セルズ、ライブランド・ロス・モンゴメリー、アーサー・ヤング、トーシュ・ロスの各社。後にDeloitte、PWC、EY、KPMGへと統合される

今回は、システムコンサルティングを売りに成長著しかった会計事務所の中から、プライス・ウォーターハウス(後のPWC)のコンサルティング部門の1960年代の歴史にスポットを当てたいと思います。そこには、事務所の売上拡大につながっている一方で、会計事務所がコンサルティングを推進する難しさも垣間見ることができます。

1960年代にはアメリカの大企業上位500社の半分以上が大規模なコンピューターシステムを導入し、システムコンサルティングの専門家は、いわば大企業が生存するために必要不可欠なものになっていたと言われています。

そのため、コンピューターが企業の会計業務に与える影響が大きくなり、Big8を始めとする会計事務所にとって、コンピューターを利用したコンサルティング案件の数も急増していました。1960年代初頭には、すべての主要な会計事務所にMAS(マネジメント・アドバイザリー・サービス=コンサルティング)部門ができ、そのほとんどが200人以上のコンサルタントを抱えるようになっていたと言われています。

プライス・ウォーターハウスも1946年にジョセフ・ぺレジ(joseph pelej)氏がコンサルティング専門組織としてシステム部(8年後にMAS部に改称)を立ち上げていました。20年後の1966年にはスタッフ数は250人に達し、課金時間※も12倍に増えていました。プライス・ウォーターハウスのコンサルティング部門はその年の6月、ボストンに集まり20周年を祝ったそうです。

※コンサルティング会社は一般的に顧客へのサービス提供時間(ここでいう課金時間)に時間単価を掛けた金額を請求額とするため、課金時間の増加率は売上の増加率をある程度反映する指標と見込めます。

当時のプライス・ウォーターハウスが行っていたコンサルティング案件にはどのようなものがあったのでしょうか。同社の社史『ACCOUNTING FOR SUCCESS』にいくつか書かれていますのでご紹介したいと思います。

1960年代には、大規模で珍しい、興味深いコンサルティングの仕事が急増した。例えば、アメリカン・ミューチュアル・ライアビリティ・インシュアランス(保険会社)では10年にも渡るシステム開発のレビュー、インターナショナル・ニッケル(非鉄金属メーカー)でのグローバルシステムの研究などである。また、コンソリデーテッド・エジソン社(電力会社)では顧客システム(クレーム、与信、回収等)のプロジェクト、ミネラ・フリスコ社(鉱山会社)では鉱山操業計画のための数理モデル開発などを行った。

『ACCOUNTING FOR SUCCESS』

プライス・ウォーターハウスの初期のコンピュータの仕事は、コンピュータを導入すべきかどうか、導入するとしたらどのような種類のコンピュータを導入するのかという顧客の基本的な疑問に答えることが中心だったようです。競合他社であるアーサー・アンダーセン(後のアクセンチュア)が行っていたような、コンピューターの導入支援自体をコンサルティングをすることは殆どありませんでした。

このようにコンサルティング案件を拡大していく中で、会計事務所がコンサルティング案件を実践する難しさというものが出てきました。

一つは、システムコンサルティングの仕事が増える一方で、事務所の会計士の中にはそれを面白く思わない人もいたことです。この事は、コンサルティング部門を抱える会計事務所内で会計士とコンサルタントの間に徐々に緊張感を生み出していった一因になりました。

コンピューターは会計士にジレンマをもたらし、脅威と機会の両方をもたらした。コンピューターのスピードと正確性は明らかだった。手作業で3,125時間、つまり約78週間かかっていた集計・検証作業が、コンピューターを使えば2時間強で完了する。コンピューターを使うことで自由度を高めた会計士は、企業の経営者に定量的なアドバイスを提供することができた。

しかし、一部の会計士は脅威としか考えていなかった。コンピューターは自分たちの伝統的な機能をなくし役割を降格させるかもしれない、会計士が統計学者や技術者などの専門家にその座を譲ることになるかもしれないと。会計士はその役割を維持するために、コンピューターが提供する処理について理解し、コンピュータの動作について知識を身につける必要があった。

『ACCOUNTING FOR SUCCESS』

会計事務所がコンサルティング案件を実践する難しさは人材にもありました。コンピューター技術の急速な発展に精通した技術者、コンサルタントを確保することは非常に難しいものだったからです。

プライス・ウォーターハウスでも事務所を構成するメンバーは会計士が中心です。ところがコンピューターの技術革新は激しく、コンサル案件を実践するには多くの専門技術者が必要でした。

1950年代には、パンチカードのスペシャリストを数人雇っていたが、1960年代のコンサルティング部門は、非公認会計士が約3分の2を占める部門となった(250人のコンサルティング部門スタッフのうち160人以上がもはや会計士ではなかった)

『ACCOUNTING FOR SUCCESS』

プライス・ウォーターハウスでは、コンピューターに精通した人材を確保するために、社内の人材を教育する方法とコンピューター会社で働く人材を採用する方法を取っていました。実際のところ、社内人材を教育するには時間がかかるため、外部から即戦力の専門家を採用する方法が良いのですが、ここでも会計事務所ならではの難しさがありました。

それはコンピューターの専門家であっても公認会計士の資格がなければプライス・ウォーターハウスではパートナー(社内での最高職位)に昇格できなかったということです。そのため、コンピューターの専門家を集めるのは難しく、特に定着させるのは困難でした。

当時のプライス・ウォーターハウスは伝統を重視するエリート集団でしたので、会計事務所の主役はあくまで公認会計士であるという考えを変えることはありませんでした。1960年代まで、公認会計士の資格を持たないコンサルタントにはパートナーへの昇格は認められませんでした。

その代わりに、MASプリンシパルという新しいカテゴリーを設け、公認会計士の資格を持たないがパートナー相当として認められる者をここに昇進させました。MASプリンシパルは、ほとんどの点でパートナーと同様に扱われましたが、パートナーシップに関する議決権は与えられていなかったため、実質的には経営に参加することは認められていませんでした。

1960年代において、会計事務所を支配するのは公認会計士だという考えは、何もプライス・ウォーターハウス固有のものではありませんでした。その考えの下では、新興のコンサルタントは自由を制限され、いわば肩身の狭い思いをしていました。これは会計事務所がコンサルティングを発展させていく様々な場面で出てくる難しさでした。

この考えを改め、コンサルタントを自由にするとコンサルティング展開の進展も早かったのでしょうが、会計事務所としての統制は取れなくなる危険がありました。プライス・ウォーターハウスはしばらくの間、公認会計士がコンサルタントの手綱をしっかり握り、コンサルタントを支配することを選択し、会社を完全に統制していました。

一方でライバル会社のアーサー・アンダーセンはこの手綱を早々に緩め、コンサルタントを自由に振る舞わせることで、コンサルティング事業を一気に拡大していった歴史があります。

プライス・ウォーターハウスの保守的な動きに比べ、超攻撃的な展開を進めていったアーサー・アンダーセンの1960年代の動きについては次回書きたいと思います。

(参考資料)
『ACCOUNTING FOR SUCCE』(DAVID GRAYSON ALLEN、KATHLEEN MCDERMOTT)


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