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元不登校の実話②正木さん(仮名)の場合。後編


ご覧いただきありがとうございます!

吹田市でフリースクールなどを運営しているNPO法人トイロです!

不登校だった人たちが社会人になってどのような仕事をして、どのような人生を送っているのかを知りたいという要望が多かったので、18人の元不登校だけど社会人の方とお話しました!

今回は、文房具メーカーに勤め、母でもある正木さんのお話をお届けしています!

こちらも併せてご覧ください!

では、正木さんとその妹に一体どんなことがあったのでしょうか。

では、最後までご覧ください。




私がいなくなればいいと思っているに違いない。



私が学校に行かなくなって、家族の幸せがひとかけらもなくなった。

私のせい。

妹の人生もめちゃくちゃ。

私は荒れに荒れている状態にいながら、そんなことを考えられるほど冷静な所がありました。

壁に穴をあけた数ほど冷静になっている自分が居て、それをやらざるを得ないといった部分もありました。

止められない。だめだとわかっているけど止められない。

何か不安があると、壁に穴を空けずに居られなかった。

妹の前では暴れたくなかったけど、エスカレートする自分を止められない。

家族みんなが、そんな私に居なくなればいいと思っているに違いない。

だから、自分がこの異常行動を止めればいい。

わかっている。わかっているけど、どうしていいかわからない。

だれか助けて。

私の事をいなくなればいいと思わないで。

こんなことが毎日毎日、私の中で繰り返されていました。

当時はどうしてブレーキが踏めなかったのか。

恐らく、心が幼かったからだと思います。

誰かのせい、学校のせい、家族のせい、自分の声のせいにして、現実を見ようとしなかった幼さです。

どうしていったらいいのか、何をするべきなのかと、私自身と向き合えていなかったです。




妹と話さなくなり、かなりの時間が経った。



今の私が当時しておけば良かったと思う事は、「家族とコミュニケーションを毎日少しでも取ること」です。

話をするってとても大事だなと思います。

毎日違う日常を送っているので、人間は変化します。

それは、部屋に閉じこもっていてもです。

だから、話さなくなったら、その小さな変化が積もり積もって、いつしか大きなずれになっています。

それが、私と家族の間に起こりました。

私は、私が荒れれば荒れるほど、家族から「居なくなればいい」と思われていると考えていました。

しかし、実際は、不登校になってかなりの時間がたっていたので、私との向き合い方が変わっていたそうです。

「いつか前の私に戻る。今はしたいようにさせておこう。」と。

それに気付いていれば私は変われていたかもしれないです。

当時の私はそれを「知ろうとしなかった」のが間違いだったのかもしれません。

「どうして誰もこの辛さをわかってくれないの。」
「どうして私だけこんな目にあうの。」
「どうして誰も助けてくれないの。」
「どうせ私なんか誰にも必要とされていない。」

こんなことばかり思っていました。

誰かのせいにしなきゃ、崩壊してしまいそうでした。

そして、私と妹の溝は深まっていきました。




ごめんね。



そして、私が出した結論は、私がこの世から居なくなることです。

詳しくは言えませんが、私はある事で死のうとしました。

それも妹の部屋で。

私が居なくなれば妹が喜び、解放されると思っていたからです。

それを一番に妹に知らせたくてそうしました。

浅はかな考えでした。

でも、実際は違った。

妹は泣きじゃくっていました。

かろうじて私は命を落とさなかったのです。

ぼやっとした先にある、私の胸に顔をうずめる妹と、遠くに聞こえる妹の声。

「お姉ちゃん、お姉ちゃん、お姉ちゃん。死なないで。」

どうしてそんなこというのだろう?

居なくなって欲しいんじゃないの?

辛い想いをさせてごめんね。そう思って死を選んだのに。

どうして生きていて欲しいの?



私は病院で目覚めました。

私が生きていられたのは、妹が私の朝の様子が変だと母に言っていたからです。

それを気にしていた母が、部屋でいつもと違う物音がして、部屋を覗いたので助かりました。

病室には、父、母、妹。3人が安心した表情をしているのを見て、私は涙が止まりませんでした。




その後。



半年ほど入院していました。

その間、病室で家族と会話するようになりました。

ベッドで横たわりながら自分自身と向き合う時間もできました。

そして、家に帰ったら私が何をしていくべきかを考えました。

妹にあんな辛い目を経験させた姉として。

父と母を精神的に追い詰めた娘として。

中学2年生の私として。

この先生きているのだろうかとても不安でした。

しかし、その答えは家に帰ったらありました。

そこに家族が居ました。

私は一人ではなく、家族が居る。

それが答えです。

「今までごめんなさい。心配かけてごめんなさい。迷惑かけてごめんなさい。嫌な思いさせてごめんなさい。ごめんなさい。」

中2の私の精一杯の言葉。

これからは家族と一緒に乗り越えていこうと思えた瞬間でした。

結局、中学校はいけませんでしたが、少しづつ学校から渡されるプリントやワークをやっていきました。

母や父に勉強を教えてもらいながら進めて、妹と一緒に勉強したりしていました。

高校は、通信制の高校に進学し、4年で卒業できました。

そして、短大に行き、現在の文房具メーカーに就職しました。

夫との出会いは社内恋愛でした。そのおかげで、暗い青春時代を過ごしていた分は、20歳を過ぎてから取り戻すことができました。

そして、数年後、長女と次女を授かりました。

現在は、父も母も妹も含めて、親族みな幸せに暮らせていると思います。

当時のことが何事もなかったということは決してありません。

それは私の後悔も含め、それぞれの心の傷として残っています。

しかし、私たち家族は前を向いていく事を決めたので今でもそうしています。

私のお話はこれで終わりにしたいと思います。




最後にメッセージ。



不登校の対応や、前進できた例は、人それぞれ違うと思います。

けど、私は、その中に、参考になるものがあったり、同じ状況に安心があったりと何か希望につながるものがあると思います。

私自身、高校で中学に行けなかった同級生の話を聞くことで、心の落ち着きを得ていました。

これって、当事者にしかわからないのかもしれません。



不登校を経験して私が思ったこと。

● 家族とのコミュニケーションは日常から取っておく。

● 自分は誰かに支えられていることを受け入れる。(自分だけで生きているなんてありえないので、事実を受け入れてください。家、電気、水道、ごはんなんかはただでは手に入らない。)

● 何かのせいにするのではなく、自分には何ができるか、どうしていくべきかなど、自分と向き合うようにする。(普通を求めないで。普通なんてないから。周りと比べないで。あなたはあなた。)

そして、死を選ばないでください。その前に必ず、死にたいと思っていることを誰でもいいから話して欲しいです。

最後までご覧いただきありがとうございます。



さて、これで正木さんの体験談は終わりです。

twitterでのリクエストが多かったので、引き続き体験談を紹介していきたいと思います。

次回もご覧いただければ幸いです。






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