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ビアトリス・コロミーナを全部読む  第2回 「性・嘘・装飾 −アドルフ・ロースとグスタフ・クリムト−」

筆者:橋本吉史

前回の記事はこちら

今回取り上げるのは、「性・嘘・装飾 −アドルフ・ロースとグスタフ・クリムト」(2010年)である。
原題:Beatriz Colomina, 'Sex, Lies and Decoration: Adolf Loos and Gustav Klimt', Thresholds, 2010, No. 37, pp.70–81.

この論文が掲載されている『Thresholds』誌は、MIT(マサチューセッツ工科大学)の建築学部が年に1回発行している査読付きジャーナルである。建築問わず多くの分野の研究者・実務家からの投稿を募っており、毎号時代に合わせたテーマが設定されている。No.37は「性(sex)」がテーマとなっており、ウェブサイトから全論文がダウンロードできる。

さて、そもそも数ページしかない論文の要約をすること自体、野暮な試みかもしれない。特にコロミーナ特有の文章の魅力は要約によって削られてしまう部分である。時間のある方は本文には図版も多く掲載されているので一度読んでみることをお勧めしたい。

そのように及び腰ではあるが、要約によってむしろ深まる読みもあると信じ、今回もまず章構成をまとめてみる。

[本論の章構成]
(本論文には章題はなく、番号のみが振られているため、章題は筆者(橋本)によるものである。)

Ⅰ. ロースの批評におけるクリムトの不在

ウィーン分離派に対しては厳しい批判を行ったロースだが、そのリーダーである画家クリムトであるに対してはむしろ擁護をする文章を出していたことを指摘する。

Ⅱ.「建築」と「芸術」の分離

ロースの論では、「芸術」(装飾)を女性的なものと位置づけ、建築との分離を計っている。この分離がロースの目的であり、建築と切り離された「芸術」であるクリムトの絵画は批判の対象にならなかったとしている。

Ⅲ.分離派批判の象徴としてのホフマン

ウィーン分離派の代表的な建築家ヨーゼフ・ホフマンは、ロースにより長年批判の対象となっていたが、その経緯は2人の学歴などの個人的な背景が深く関わっており、むしろ結論は違えど、その問題意識(社会的な空間と私的な空間の分裂)は多く共有するところがあった。

Ⅳ. 建築家としてのクリムト
クリムトは絵画のみならず、建築に関わる仕事も多く残した。その事実からロースのクリムト擁護の矛盾を探り、ひいては彼の建築論自体の「嘘」を推察する。


論考の前提を少し共有しよう。

今回取り上げられるアドルフ・ロースを含め、近代の巨匠と呼ばれる建築家は、現代の私たちから見ると倫理観が欠如していると言わざるを得ない人物が少なくない。例えば、今や近代建築史の教科書では必ずと言っていいほど紹介されるロースの論考「装飾と犯罪」も、内容はかなり過激なものである。ロースは様々な人種や職業を引き合いに出しながら、彼らは精神的に劣っていると評価をし、彼らが好む装飾から解放された「近代人」になるべきだと啓蒙する。

「もっとも、いまだこのレベルに達していない人間と民族となると別次元の話である。私がこうして縷々説明しているのは上流階級に属する人々に対してである」*1

自らを上流階級の一員として位置付け、他の人々を様々なステレオタイプに嵌め込み、文化的に退行したものとして装飾を断罪していくこの文章を読むことは、若干辟易とすると言わざるを得ない。しかし、ロースが行った無装飾を精神的な卓越と結びつける考え方は、現代においても続いている一種の型になっていると思える。*2

この論考に限らず、ロースがこのような自論を語るに当たって、名指しで批判を繰り返したのが、同時代的な芸術運動であり団体であるウィーン分離派であった。しかし、彼はそのリーダーであるクリムトには攻撃を行わなかった。その理由を探るのが、この論文の主題である。

本論の要約に移ろう。ロースにとって芸術家とは一種の仮想敵であった。それゆえ、分離派のメンバーたちを芸術家気取りの格好をした奴らだと批判し、英国の無装飾なコートを来て、自身と彼らとの差異を主張した。クリムトは代表作である《接吻》(1908年)を筆頭に、優美で装飾的な絵画を多く製作しており、ロースの主張とは完璧に相容れない存在に思える。しかし、いつもは無名の職人により制作された実用品を支持したロースが、クリムトのウィーン大学の講堂の天井画に関する論争においては、クリムトの肩を持ち、個性的な個人を擁護している。

コロミーナによれば、ロースの論において装飾的なものは度々、女性性と繋げられ語られてきた。彼にとって近代的なものは常に男性的なものであったのである。そして、ロースは「芸術」(装飾・非実用的)と「建築」(無装飾・実用的)の間に線を引くことを目的とした。しかし「芸術」には彼は惹かれ続け、女性崇拝的なクリムトの絵画は「建築」と切り離されてた芸術であるがゆえに、批判する対象ではなかったと推察している。

「現代の衣服、現代の機械、現代の革製品、われわれが日常的に使用している物すべてには、フランス革命以降もはや装飾がない。ただし女性に関わるモノは除く。(…)現代の高価なものも、装飾の念入りな仕事ぶりや豪華さが好まれており、装飾そのものの美学的な価値はほとんどないと言っていい。だが女性たちにとっての装飾は、実際には未開人にとっての装飾と同様、エロティックな意味をもっているのである」*3

しかし、結局建築と芸術はそう簡単に分離できるものではなかった。クリムトは環状道路リングシュトラーセの開発における建築の装飾を担当しており、単なる建築から切り離された絵画を描く画家ではなかった。加えて、《ウィーン分離派会館》(1898年)は設計こそ建築家ヨーゼフ・マリア・オルブリッヒのものであるが、クリムトは原案から関わり、図面に署名をし、壁画の装飾も手がけている。

結局コロミーナは自分で出した解答である、クリムトへの無批判が「芸術」と「建築」の分離から来たという推察を否定する。もしくは、ロースはその分離に頼りクリムトを擁護したのだが、それは無理な筋であったというストーリーで論は展開する。クリムトは建築にも関わる芸術家であったし、ロースがいう意味での「装飾」をやはり体現する人であったのである。

最後の節では、コロミーナはロースとクリムトの個人的な背景の共通点が彼らを同調させたのではないかと推察する。これに関しては、論証ではなく、書かれていないことを読み解こうとするコロミーナの独自の見解である。

クリムトとロースはどちらも作品が世の中から強い批判を受けた人物であった。加えて、私生活はどちらもスキャンダラスであり、クリムトは死後モデルである女性から起訴を14件受けており、ロースは晩年小児性愛の疑いで4ヶ月の実刑を受けている。それはロースの公的な発言からは隠されていた私的な性への欲望である。この私的な欲望は近代的なモラルを説いたロースの公的な主張からは隠されてものであり、クリムトにも自身の性質との共通性を見出したがゆえに批判ができなかったと結論づける。

僕の見解を示すとすれば、この結論は歴史記述としては危ない側面を持っており、かなりチャレンジングなものだと思う。しかし、コロミーナの文章にはなんとも言えない説得感がある。実際にロースは単に彼の言う「近代人」では必ずしもなく、建築作品も単なる無装飾とはいえない不思議な魅力を持っているのは確かだろう。作家の個人的な背景と作品・論考を繋いで考えることは、読みの間違いを犯す可能性があるが、少なくとも理性的に書かれた論考の外側に目を向けていくことは、近代建築および近代的な価値観の見直しに大きく貢献するであろう。


*1  アドルフ・ロース「装飾と犯罪」1908年講演、1913年雑誌にて発刊(アドルフ・ロース『 にもかかわらず: 1900-1930』鈴木了二、中谷礼仁監修、加藤淳訳、みすず書房、 2015年、81-92頁)

*2  例えば、以下のWiredの記事でファッションのトレンドであるノームコア(NormCore)を説明する姿勢は、「装飾と犯罪」の論法にほぼ重なる。
「どんなに平凡な格好をしようが、普通にふるまおうが、自分は十分個性的でユニークな存在だと知っており、それをわざわざ他人にわかるように公表しなくてもよいと考えるのがノームコアなのだ」
https://wired.jp/2015/01/27/normcore/

*3  アドルフ・ロース「装飾と教育 あるアンケートへの回答」1924年(アドルフ・ロース、前掲書、207-214頁)



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