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TOPSのケーキとだし巻き卵-おかわり-旅立ち編

ついにファイナルステージ
前編、後編で終わるかと思ったらまさかのおかわり

これまでのお話はこちらから

準備は自分で

家に行ったらお出かけしてちょうど戻ってきたところだった。
いつものNEW ERAのキャップに赤いジャンバー、痩せてしまったけれど、どこに出掛けるにもファンキーな60代だ

どこに行ってきたの?

葬儀場の予約をしてきた

え??そうなの?確かに末期がんでお別れが近いことは察知して終活に勤しんでいたけれど、さすがに本人に気を遣って、葬儀の希望は聞くことは出来ていなかった。そんなことは思っていないのだけれど、「早く…」とあらぬ方向に汲み取られてしまうのが怖かった。

元気なうちに、財産のことやあれやこれやを片付けておいた方がいいとは言うものの実際に出来ないのは、思ってもいない方向に思い違いを生むのが怖いのだ。誰しもそうだと思う。
遺影の写真がなくて、大捜索して何十年も前の写真に無理やり合成するような写真になるのがいい例だ。

本人に葬儀社のパンフレットを見せてもらい、自分は家族葬で葬儀はそれほどお金を掛けずにしっぽりよろしく!ただ、着物みたいなのでは行きたくない。いつも通りの服で行きたいからオプション付けてあるから

ほう。わかったよ。
本人自ら希望を言ってくれるととても助かる。
その他の希望を聞くのもスムーズだ。

家族葬はこんじんまりと15人くらいでサラッとでいいんだけど、偲ぶ会をやって欲しい。

??偲ぶ会ってなに?芸能人がやるやつ??

そう、落ち着いてからでいいから。昔のダンスのメンバーとか呼んでやって。

ダンスと言ってもおそらく年相応の人が考えるダンスとは違うと思う。父は40歳を過ぎたくらいに突然、HIP HOPダンスを初め、クラブや各種イベントで披露し、ついには子ども達に教えるまでになっていた。

本人が葬儀社で偲ぶ会のオプションを頼んだもの、この町では誰もやったことがないらしい。それに、葬儀社でやるのはちょっと違うと思うから、そこんとこよろしく!

ほう、、
そりゃそうだ、こんな小さな町では偲ぶ会誰もやらないでしょ。私だって出たことないし、やったという人は疎か、「今日は偲ぶ会に行ってくる!」という人も聞いたことがない。

いや、、、無理難題。
こういう、よくわからないお題はいつだって長女である私にぶん投げられる。二人の妹に聞いても、うーん。よくわからんな。
私らは、出席するから、よろしく!

え??他人事ーーー!!!
妹はクリーニング屋さんでパートで働く妹1号と介護福祉士として働く妹2号。妹の旦那さん達も会社員だ。

まぁ、そうか。私がやるしかないか。
ちょっと困った顔を出してしまったのだろう。父は、すぐでなくても落ち着いてからでいいから。と父にしか懐かないツンデレ猫のマメちゃんと戯れている。

わかったよ。偲ぶ会で何をするか、サッパリわからないけど、やるよ。と約束をした。

笹かまぼこを食べる役立たず

そこから2日後
母から早朝に連絡があり、ちょっと呼吸がおかしいから救急車を呼んだ。誤嚥性肺炎でこれから入院すると連絡があった。

この時、介護福祉士の妹2号と医療の知識は全くないがネット検索と勘だけが鋭い私は、もうこのまま家には帰って来れないと察した。

これまでに何度も入退院を繰り返していたが、その病院では、代表家族1名しかお見舞いに行くことが出来なかった。私たちは病院に入ることは許されず、入院すると会えない状況が続き、もう会えないかも、、と思っていた。

しかし、運よく新型コロナは5類感染症になり、病院のお見舞いの規制も少し緩和され家族なら1回15分間だけなら面会が許された。

これ幸いにと、病院に駆けつけたが、初めての病室は個室で酸素マスクを付けてモニターがあり、いろんな機械が父に繋がっている。テレビドラマでよく見る光景で、言葉を失った。
ドラマと実際の家族に起こっている現象は全然違う。初めて見る姿に固まってしまい、父が苦しそうに手を伸ばしても、その手を握ることすら出来なかった。

父は急に悪くなった。と無念そうに言う
うん、でも大丈夫だよ

動揺しHPが消失しまくっている、私が言うのは説得力がない。
数分病室に滞在し、その日はすぐに帰った。

残された時間が思っていたよりもグッと縮まってしまった。

母は、付き添うことにしたようだ。
妹は通勤途中に、私は仕事の合間にと通った。
妹は、介護福祉士という仕事柄、体制移動をしたり、服を整えたりと大活躍。私は行っても何も出来ず、売店で買った笹かまぼこを食べ、どうでもいい話をして帰るという始末で、妹の活躍に比べると役立たずで不甲斐ない。

呼吸は相当苦しいようで、入院から数日経ったある日。
父がこのまま寝かせて欲しいと言っていると母から連絡があった。
泣いている様子だった。

寝かせて欲しいとはどういうことか、意味がわからなかった。

笹かまぼこ食べてる私を見て笑ってたような気がしてたけど、そんなに苦しかったのかと、自分のお気楽さが罪深い。

とりあえず、行くからと。化粧もせず、寝起きのような格好で駆けつけた。
妹たちもそこにはいた。
説明を聞くと、薬で眠らせそのまま最期を迎える覚悟だと言う。

父に会うと、
本当にみんなには、申し訳ない。苦しくて辛い。このまま寝かせて欲しい。もう起こさないで

うん、わかったよ。

先生は、私たちに丁寧な説明をしてくれた。
誤嚥性肺炎は、死因のTOP3に入るほど重篤なものだということ。体力も落ちている。
これが最後の会話になるかもしれないと言うこと。
だけど、肺炎が治ったら起きられる可能性もあるということ。

父も母も私たち娘達も
もう、これで会話を交わすのは、最後だという覚悟でお別れの言葉をそれぞれ言った。

まちでは賑やかにお祭りが行われていた。

父は、葬儀は事前相談してあるからと葬儀社の名前と、偲ぶ会もよろしくと私に念押して眠りについた。

偲ぶ会の期待値がすごい、しょうもない会になってしまったら祟られるんじゃないだろうか。少し心配になる。だって、やったことないし、偲ぶ会に出たこともないから。でもまぁ、なんとかなるでしょう。

そこからは、本当によく寝ていた。
お酒を飲んで、リビングでいびきをかいて寝てる、元気な時の父と同じ寝息で安心する。
母は、連日付き添いをするため、妹と交代で母にお弁当を作って届けた。
たまに連絡ミスで母の元にお弁当が2つ届けられることもあった。

母からは、「作る立場から作ってもらう立場に変わり、お弁当は幸せな気持ちになります」と慣れないLINEでメッセージをくれた。

逆さ富士とTOPS再び

容態は徐々に安定してきたある日、私は東京へ日帰りで出張に行った。
その日はよく晴れた日だった。
富士山が見えるだろうな。起きられたらお父さんにも見せてあげたいな。
と思い新幹線に乗り込んだ。

奇跡の一枚が撮れた。

何かを期待をさせる、縁起のいい逆さ富士。

そして、東京で用事を済ませ、思いの外早く仕事が終わった。
あ、この時間ならケーキが買える!TOPSへ向かった。

私が絶頂反抗期の頃に父が買ってきてくれた思い出のTOPSのケーキ
父は食べられないけれど、父を囲んでみんなでまた食べたい。チョコレートケーキを買い、新幹線に乗り込んだ。

狭い病室で全員が集まるのは、規制が緩和されたといえども難しく、病院に来たら、各自が父の横でケーキを食べた。

病室で食べたチョコレートケーキは、変わらず美味しかったけれど、涙と鼻水でちょっぴり塩味が効いていたかもしれない。さらに家族の思い出のケーキになった。

浦島太郎玉手箱を開ける!

そこから数日後、ずっと献身的に付き添っていた母はどうしても畑の様子が気になり、畑作業に行っていた。私が仕事の合間に行くと、先生が父を診断し、起きていた。
えぇ、、、もう話せないと思っていたのに起きてるーー!!!

肺炎はすっかり良くなったので、起きてもらいました。と先生は言う。

来た!逆さ富士の奇跡✨

もう二度と話せることはないと思っていたから、嬉しいです!!と先生に伝え。
あ、、、お母さん!!お母さん今、畑に行ってるけどずっと泊まってそばにいたんだよ。ちょっと待って呼ぶから!と母に連絡した。

ごめん。目覚めた最初が私で、
あと、もう起こさないでって言ってたけど、よくなっちゃったからさ!

あまりの嬉しさに1週間寝ていた浦島太郎のような人に対して玉手箱をこじ開け、信じられないくらいの情報量で捲し立てるように話した。浦島太郎は、1週間寝ていたダメージで筋力は弱り、歩くことも難しくなってしまったけれど、短い会話をしたりコミュニケーションが取れるのは、生き返ったような感覚があった。一度はお別れを告げたけれど、また会話ができる。

お父さんが寝ている間に出張行ってね。新幹線から逆さ富士の写真が撮れたんだと言い、もう操作は出来ないであろうスマホの待ち受けに設定して見せた。TOPSのケーキも買ってきてね。ここでみんな交代で食べたんだよ。と話すと、そうか、そうかと頷いた。

食べることは生きること

調子のいい時はプリンやヨーグルトを食べられることもあった。母のために持って行った弁当に興味を示し、私が持って行ったミルクスープを食べたい。と言うこともあった。

父が食べてくれると嬉しくて、作った私たちも幸せな気持ちになる。
ただ、ミルクスープに関しては、冷蔵庫の残り野菜をぶち込んだ適当なものなんだ。まさか、食べるなんて思わなかったから、もっとちゃんとしたものを作るよ。
どんなものなら食べてくれるだろうかと妹と共に試行錯誤した。

父がかつてダンスをしていた時のメンバーがやっているジェラート屋さんがあることを思い出した。食べれないかもしれないけれど、食べなかったら私が食べればいいやと病室に持って行った。

モーリーのジェラート買ってきたけど食べる?

というと食べるとうなずく。口に運ぶとどんどん食べて、1カップ全部食べた。
私が半分食べるという思惑は見事に崩れたけれど、私はいつでも食べられるからヨシとしよう。

私は、父との残りわずかな食の時間で、人間の食の本質について教えられた。家族の思い出の味、体験もアップデートできた。

残りの数ヶ月は満足に食事をする事が出来なかった。点滴で栄養摂取をしているとはいえ、口から食べると言うのは人間が生きるために大事なことで、食べるところを見ると「生きたい!」という意欲が感じられた。

私たちは、少しでも食べられるものを工夫を凝らして作り、それに応えるように食べるのを見ることで歓喜したり、さらに何を作ろうかと楽しみになる。食べたものに興味を示し、それについて会話をする。思い出を話す。
父は何を思い、食べていたのだろう。
美味しいは味の良し悪しだけじゃない

TOPSのケーキも実の息子が作っただし巻き卵、モーリーのジェラート、父は食べられなかったけれど、妹と私が母のために作ったお弁当を食べる姿を見て、自分が旅立った後も私たちがいるから大丈夫と思ってくれたら幸い。

父が最後に私に残してくれたものとして宝物になるだろう。

令和5年6月9日永眠

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