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TOPSのケーキとだし巻き卵〜前編〜

尖っていた時代もいつかは醸し、まろやかになる。日々私にできることはなんだろうと思うけれど、あとのことは任せて!できるだけ好きなことをして思い残しのないように生きて欲しいし、生きていきたい。

母の夫で私の父

私には二人の父がいる、実の父つまり母の最初の夫。ややこしいので1st父と呼ぼう。
小さなレストランのコックで
「味噌カツはオレがこの街に持ってきたんや!」が口癖で、調理場で働く様子をずっと見ていた。随分前に1st父については書いているけど、この父がいたから今の仕事に就いていると言っても過言ではない。

私が中学3年生という受験真っ只中に、両親は離婚した。
「お父さんとお母さんどっちについて行くの?」という子に究極の選択に迫る。
家庭が崩壊してた。

長女という立場なのか、中学生ながらも妙に大人び、むしろ母よりも的確な判断をする私は、離婚の経緯もその後の手続きなど全てを把握していた。当時母には後に再婚する事になる彼氏がいた。結婚生活と被っていた。

多感な時期で何もかもわかっている私は、母を女として応援したい気持ちと世間体や子どもとしての立場、妹たちのことを思うと彼のことをどう整理をつけていいいのかわからなかった。

二人に気を遣い、実父とは秘密裏に会っては、見つかり叱られた。

母は、私を実父に取られるような気がしていたのだろう。
母は思っていることを言葉にするのが苦手で、感情的になり怒っていた。
私は、物事を俯瞰して見るようなところがあり呆れていた。それがまた彼女を怒らせた。そんな時にいつも仲介に入るのが今の父で2st父なのである。「いや、元々あんたが原因なんだけどな…」とは思っていたけれど。

両方をうまく取り持つ、だけど最終的には母の味方をする。それは、私のことを大人として見ていたのかもしれない。

高校生になってしばらくした時に、家族でディズニーランドに行くという話になった。

ディズニーランドには行きたかった。
けれど、どうにも家族で行くというのが引っかかっていた。

「家族とは」という言葉に迷走していた。
この頃、母は「家族なんだから」という言葉をよく言っていた。

けれど、私はそれに対して「家族って何?」という言葉を返していた。

辞書で「家族」を調べる。
同じ家に住み生活を共にする、配偶者および血縁の人々。

同じ家には住んで生活は共にしている。
しかし、当時母の配偶者でもなければ血縁でもない。

この家族という言葉に苦しんでいた。
私は一人だけ
家族旅行でディズニーランドに行くという
高校生なら飛びつくようなアクティビティをしょうもない自分のしがらみに囚われ、行かないという判断をした。

高校1年生初めて3泊の一人きり。
母には「部活を休めない」と言ったと思う。
でも、私が一緒に行くと母と口論になったりして、妹たちが楽しめないのではないかと思っていた。
結果、行かなくてよかったと思う。

今ではよく覚えていないけれど、お土産で買ってきてくれたものを今でも記憶が強く残っているから。

衝撃のTOPSのケーキ

東京土産は岐阜の片田舎に住んでいる私には、見たことも食べたこともない、TOPSのチョコレートケーキだった。
この楽しげな箱にまず「何これ!」
西城秀樹がこんな壁の前で歌ってた!
カツオ節かと思ったらチョコが削ってある!
田舎娘は、テンション爆あがり。
いつもは、家族には斜に構え私はいいわ、とか言ってるのに
TOPSを前にしたら抑えきれない。
早く!早く食べたい!!!

TOPSキングスチョコレートケーキ

何これーー!カリカリした何かが入ってる
「ローストクルミやぞ、」30年後のおばさんになった私は当時の自分に伝えたい。

東京には、こんな美味しいものがあるんやーーーと感激!
当時の反抗期娘はTOPSの虜
TOPSでも一番高い、キングスチョコレートケーキで、私の底なしの反抗心は溶けたのだ。

今まで食べた中で何が美味しかったですか。
と聞かれたら間違いなく、この時食べたTOPSのケーキと間髪入れずに答えると思う。

3日間家で一人きりだった寂しさ、家族という言葉には引っかかっていたけれど家族が帰ってきた安心感と初めての東京のお菓子という期待値が加味されたのだと思う。

2nd父は、岐阜の人だったが関東の中高一貫校に行き、大学まで東京で過ごしていた。東京の美味しいものをよく知っていた。
そんな、東京の話を聞くのも本当は好きだったけれど、何せ年頃の私は反抗しないといけないものだから、聞きたいけれど、素直に聞くわけにはいかなかったのだ。

だけど、ケーキを目の前にしたら食べないとは言えないわけで、この時に家族で食べたTOPSのケーキは一生忘れられない味になった。

そんな私も大人になり、就職で家を離れ、結婚して離婚して子育てを経験して、当時のように反抗心はなくなり、普通の関係になっていった。

2nd父は、母よりも私のことを理解してくれていると思う。
私もひとり親になり、仕事をして子育てしていくには、両親の力を借りずには生活していけなかった。
たくさん、たくさん心配もかけたし、世話をかけた。

ただ、子どもの成長と共に、いつ頃から実家に行く頻度は減り。
なんとなく疎遠というか足が遠のいていた。

そんな時に母から電話があった。

「お父さん、病気で」

えっ?

それは、1st父と同じ病気だった。
私が1st父の病気を知った時は、かなり悪化している頃で、親孝行らしいことはできなかった。

教えて欲しいこともあったし、食べてもらいたいものもいっぱいあったけれど実現できなかった。

家族って何?という私の問いがフラッシュバックしながら1st父は旅立った。

奇しくも
同じ病気なのか、、、

散歩

2nd父(母の夫)には、私たちの他に血の繋がった息子がひとりいる。
私たちが子どもの頃は、遊びに来ていたこともあったけど、お互いの生活もあり、次第に会わなくなっていた。

2nd父は、気にもしながらも私たちに気を遣い会わない選択をしていたのかもしれない。
ひょんなことから私は、その彼がお店をやっていることを知った。
彼の母、つまり2nd父の元妻がお店をやっていたことを覚えていた私は、同じ名前の店があることをSNSで知っていた。

こっそり、お店に行ったこともあった。とても手際がよく、なんとなく2nd父にも似ている。子どもの頃の面影もある。

病気がわかってからのある日、その父の息子の店のあるエリアを両親と一緒に散歩をしたことがあった。
父が、がんばってるかなと気にしている素振りがあり。

行ったことあるよ。
美味しい料理だったし、手際もよかったよ。
仲間たちと楽しげにお店してる感じだったと伝えた。

何も言わなかったけれど満足そうだった。
会わせなきゃ!絶対に元気なうちに
と誓った。

ニセの親子と本物親子の卵焼き

ある日、意を決して彼のお店へ向かった。
私とは血の繋がりはないけれど、義理の弟になる。

2nd父は、母の連れ子である私たち姉妹を、大切にしてくれた。めちゃくちゃに反抗されながらも、それはすごい精神力だと思う。
だけど、血の繋がりだけで親子関係を接続するのなら、私たちはニセの親子でしかない。

私は、本物親子の息子の店に行こうと決めた日から、どう話を切り出そうかと考えに考えた。
話をするためには、なるべくお客さんがいない時間帯と曜日を狙わないといけない。それは、飲食店のコンサルタントをしているのもあって、容易に予想はできた。

当日は、朝からドキドキして仕事にならない。
ふわふわした気持ちで1日の仕事を終え、よし行くぞ!
お店のドアに手をかけたけれど、押すのにも躊躇した。

押した!

開かない、、、

あれ?
引き戸だった、、、

暖簾に腕押し(汗)

ビールを頼む、
緊張して、お通しが来るか来ないかで飲み干す。
酔ったくらいがちょうどいい。

「お客さん、初めて?」

私「いえ、以前に一度だけ伺ったことがあるんです。今日は、ちょっとお話したいことがあって」

 と名刺を差し出し

 「この名前に見覚えありますか?」と聞いた。

「え?もしかして。。」

私「そう。私、娘です。あなたとは、血の繋がりはないけど姉になりますね」

困惑しながらも、事情を話した。
最初は、拒絶しているようにも見えたけれど、徐々に自らの話もしてくれるようになった。

彼がどこで、どんな修行をして、今どんな生活を送っているのか。
飲食店を営む彼は、ある種、私とは同業であり理解しやすかった。

今の父の現状を話し、連れてきてもいいかと話したら言葉を濁した。

抗がん剤治療で食欲がなく、食べることが難しくなった2nd父だけれど
メニューの中から、食べられそうなものを選んで持ち帰りを頼んだ。

彼は、それを父の為に持ち帰ると気づいていたと思う。
手際よくだし巻き卵を巻いている、後ろ姿をそっと写真に収めた。

最後にまた、来てもいいかと聞いた
いつでも、誰でも連れてきてという言葉に
お客さんとしてかもしれないけれど、私は父を連れて来てもいいと汲み取った。

まだ温かい、だし巻き卵を持って帰り父に渡した。
薬の副作用で味覚が鈍化しているみたいだけれど、少しだけ口にして
美味しいと言った。

”おいしい”は味の良し悪しだけではない。
どんなシーンで食べ、誰が作り、その背景が美味しさを作るのだ。

だし巻き卵の味は、父にとって心が溶ける味になっていたら幸い。

実際に父を息子に合わせた感動シーンはまた次回へ



後編はこちら

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