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[インタビュー] ハビ・マルティネス、自身のキャリアを振り返り

2012年に当時クラブ史上最高額(4000万ユーロ)でばいやんに加入し、今年で8年となるハビ・マルティネス。
スペインの村で育った幼少期から、ビルバオでの成長、ばいやんでの栄光など、これまでの彼のキャリアを語ってくれた。
スポーツ分野を中心にサングラスなどのアイウェアなどを展開するブランド「オークリー」のアンバサダーを彼は務めており、今回のこのインタビューが実現するに至った。
【記事リリース日: 2020/9/25】

—— 以下、翻訳 (インタビュー記事全文)

ハビ・マルティネスさん、あなたは10番(ゲームメーカー)のポジションで再びプレーしたいという思いはありますか?
ふー、そこで僕がプレーしていたのは、随分昔の話だね。僕は、ストライカーとしてサッカーを始め、後に10番になったけど、ユースでは良い選手はいつも前線に置かれるものだ。ただ、今では、6番(ボランチ)でもセンターバックでも非常に満足している。僕の強みはディフェンス力だからね。

あなたを6番(ボランチ)として起用してくれた監督がいたということですね?
いや、これはそういう成り行きだったね。僕はキャリアを重ねるごとに、徐々により後方のポジションで起用されるようになっていった。(2006年の)アスレティック・ビルバオに加入当初、僕は、古典的なボックス・トゥ・ボックスの選手であり、今日の僕よりもオフェンスの自由度が高かった。何点かゴールを決めることもあったね。でも、(2011-12シーズンに)初めてディフェンスに起用してくれた監督がいた。それが、マルセロ・ビエルサだった。

彼(ビエルサ監督)の下でプレーするというのは、どのような感じでしたか?
練習方法や話し方など、彼は独特なものを持っている。体力の限界まで絞らせるような監督だ。彼は選手の全てを発揮させる術を熟知しており、選手たちを最高レベルに育て上げることができる。しかし、彼からはスポーツ面で多くのことを学んだだけでなく、僕は人としても自分自身が成長できたと実感するね。サッカーについて一言も触れずに、彼は1時間ずっと話すこともあった。その時の彼は、人生についての話だけをしていたね。

その後(2013-14シーズンから)、あなたはペップ・グアルディオラの下でプレーしました。ビエルサが、グアルディオラにとって師範のような存在だと感じたことはありましたか?
ペップの下でプレーしていた時、彼は何度も僕のところへ来て、ビエルサの時はどうだったのかを尋ねてきた。彼はビエルサがどのようにトレーニングを行なっていたのか、どのように選手と接していたのかを知りたがっていた。しかし、こうした尊敬は双方向のものだ。ペップはビエルサを称賛する。そしてまた、ビエルサもペップを称賛する。僕はある試合を覚えている。それは、バルセロナとビルバオが対戦した試合だった。(ビルバオのホームスタジアム)サンマメスで行われた、夕方、雨の中の試合で、ビエルサとペップが顔を合わせることとなった。戦術的に見て、ただただ信じられなかったね。今まで見たサッカーの中で、最も美しい試合だった。

その試合を観たのですね?
後日、テレビでね。

こういった試合は、ピッチ上でも美しく感じられるものなのでしょうか?
いや、プレーする時はそうした事は考えないね。僕はただプレーするのみだ。試合後によく、「今日の出来は?」とか「今日のチームの連携は?」とか聞かれるが、一度もきちんと答えられたことはない。僕はプレーに集中し、他の物事に対し全てのスイッチをオフにしているからね。

しかし、あなたのポジションであれば、ピッチ上でのあらゆる出来事に対し、注意を払っておかなければなりません。
当然、そうだね。だが、僕は個々の選手たちのプレーを見ている訳ではない。僕らの任務は、チーム全体の秩序を保つことだ。6番(ボランチ)の選手にとって最も重要なのは、終始集中力を維持することだ。絶対にスイッチを切ってはならない。たとえボールが遠くにあったとしても、しっかりと考え、そして予想しなければならない。ボールを持った選手が次にどう攻めてくるのか、ということを。

近年、6番(ボランチ)の役割というのは、どのように変化したと考えていますか?
ダブルボランチで戦うチームというのは、今やほとんど残っていないね。ここ4〜5年は、ボランチ1枚に攻撃的な中盤が2枚という布陣が定番になってきた。しかし、サッカーのスタイルは毎年変わる。ダブルボランチもいつか復活するかもしれないね。

あなたは、バスティアン・シュバインシュタイガーとともに、バイエルンで最後のダブルボランチを形成しました。彼とプレーしてどのように感じていましたか?
信じられないものだったね。バスティは、数年間に渡り、世界最高の中盤の一人だった。彼はピッチ上のあらゆる場所に出没し、ゴールを決め、守備もこなすことができた。彼は完全無欠なMFであり、まさに機械のようだったね。そして必要な時はサポートにも回ってくれた。

それは最初から気付いていましたか?彼が自分と相性がいいこということを。
バスティとはとても簡単にプレーできたね。慣れるまでには少し時間がかかったけど、数ヶ月後には、互いに相手が何を必要としているのか、相手が次に何をするのかハッキリと分かるようになった。ピッチの外では、人間的にとてもよく似ており、2人ともかなり外向的な性格で、いつも上機嫌に振る舞った。そしてピッチ上では、2人ともフィールド全体に渡ってプレーしていたね。お互い何キロも走ったよ。

バスティアン・シュバインシュタイガーが居てくれればと、時に思うようなことはありますか?
これまで一緒に組んできた彼のことは誇りに思う。しかし、ある選手が居なくなると、他の代わりとなる選手がそこには入る。バスティはもちろんのこと、フィリップ(・ラーム)もチームにとって重要な存在だった。今で言うと、トーマス・ミュラー、マヌ、レヴィーは、ロッカールームでのチームの結束力を高めるのに非常に重要な存在となっている。しかし、彼らが居なくなると、他の選手たちがその役割を果たすことになる。それがサイクルというものだ。バスティがいなくても、FCバイエルンの中盤には質の高い選手たちがいる。

FCバイエルンでの1年目はいかがでしたか?
この移籍が僕の人生を変えたよ。ビルバオからミュンヘンへと、僕は世界最大のチームに移籍した。FCバイエルンに来れて本当にラッキーだった。そして、史上初のトレブルを達成することができ更にラッキーだと言えるね。素晴らしいチームだった。チャンピオンズリーグ優勝後のロッカールームは、大きなパーティーのようだったね。選手たちはその以前に数年間の悪い時期を経験しており、ようやく解放された気分だった。

その時のタイトルのお祝いはどうでしたか?
家族でタイトルを祝ったよ。他の重要な試合と同じく、家族はスタジアムに来場していた。僕一人だけでなく、家族全員が、ここまで来るため必死に力を尽くしてくれたんだ。母は仕事を辞めてまで、いつも僕を練習場まで送り迎えしてくれた。チャンピオンズリーグは、まさに僕ら全員のためのタイトルだった。

人口1000人の小さな村であなたは育ちました。スペインの地方生まれの少年は、どのようにしてプロサッカー選手へとなりましたか?
サッカーの血は生まれた時からずっと僕の中を流れている。仲間たちとずっとサッカーをして遊んでいた。一日中サッカー漬けだ。他のスポーツも、他の生き方も知らなかった。学校が終わると、ずっと遊んでいたよ。何時間もね。夕飯の時間になると、親が迎えに来てくれていた。そうでなければ、時間を忘れて僕らはずっと遊んでいただろうからね。他には何もなかった。ひたすらサッカー、サッカー、サッカー、サッカー、サッカーだ。幸いにも、僕らの遊び場は、我が家から比較的近い場所にあった。

その遊び場はどんな所だったのでしょうか?
芝生の広場だ。よく酷い状態になっていた。雨は多かったからね。そして、雨が降るたびピッチは水の下に沈んでいた。その場合は、そこらじゅう石だらけの畑に行かざるを得ず、坂道を登って行っていた。でも、その年齢の頃は全く気にしていなかったね。遊びたい、楽しみたいとしか考えていなかった。何かを学ぶとか練習するとかじゃない。サッカーそのものを楽しみたかったんだ。

当時の友人とは今でも連絡を取り合っていますか?
もちろん。よく僕のところへ遊びに来てくれるし、僕も休みの日にはできる限り故郷の村へ帰省している。引退後は、また故郷に帰りたいと考えているよ。

地元の練習場から、自身初の所属クラブであるログローニョへと加入したことで、あなたにとって、サッカーはどう変化しましたか?
監督が良くなり、レベルも上がり、より多くを学ぶことができたね。でも、楽しくサッカーがしたいという思いはあった。試合が終わるとよく母親のところへ駆け寄り聞いていた。「ママ、僕のプレー上手だった?」と。答えはいつも同じだった。母に「楽しかった?」と聞かれ「うん」と答えれば、母は言った。「上手かったよ」と。

その後、あなたは非常に早いスピードでキャリアを駆け上って行くこととなりました。15歳でスペイン3部リーグでプレーし、その翌年にアスレティック・ビルバオが700万ユーロを支払いあなたを獲得しました。17歳でプリメーラ・ディビシオン(スペイン1部リーグ)デビューを果たしましたね。その試合の様子について、どのような記憶がありますか?
レアル・ソシエダとは1-1の引き分けだった。それ以上のことは覚えていない。

本当にそれだけですか?ご自身のデビュー戦ですよ。
そのように感動的な瞬間としては覚えていないね。それが何故だかは分からない。ワールドカップ決勝もUEFAチャンピオンズリーグ決勝も同じように感じている。それらの試合の記憶はほとんどないんだ。

プレッシャーがかかっているからでしょうか?
もしかしたら、そのせいかもしれない。でも、本当に分からない。大事な試合に集中しているからこそ、全てを遮断してしまうんだと思う。

でも、ご自身の初シーズンというのは、まだ覚えているものなんじゃないでしょうか?
当時、アスレチック(・ビルバオ)は降格争いをしていた。それは何か歴史的な出来事だったね。ビルバオ、レアル・マドリード、FCバルセロナの3クラブだけは、これまで一度も1部リーグから降格したことがなかったからだ。そうしたクラブにとって、物事が計画から外れて進行した場合にはプレッシャーがかかる。17歳の時は、自分たちが思うようにプレーできていないからこそ、僕は自分に無力さを感じていた。このシーズンは、僕にとって、まさに自己啓発と成熟における修士号を取得するような時期だったと言えるね。

どのようにして、あなたはその辛い時期を乗り越えたのですか?
降格争いで最も重要なのは、ロッカールームでチームが一つになること。みんなで顔を見合わせ、支え合い、真の友情の輪が生まれていた。もしも他のクラブだったら、もっとずっと苦しんでいただろうと思うよ。

これまでのあなたのキャリアの中で、再び同様のプレッシャーを感じたことはありますか?
いや、ないね。降格を争うあのプレッシャーというのは...。本当に独特のものがあるよ。ヨーロッパリーグ出場権を巡る緊張感や、ブンデスリーガ優勝争いのそれとは全く異なる。そこに、降格争いのような苦しみや辛さはないのだからね。

決勝で敗れた後でさえもですか?
決勝で負けると言っても、負けるのは決勝の一試合だ。90分間で決着が着く。降格争いは、その負の感情が1シーズンを通して続くんだ。

しかし、過去数ヶ月を見ると、ニコ・コヴァチがあなたへの信頼を失くしたことにより、あなたは苦しんでいるようにも見受けられました。
もちろんフラストレーションはあった。ピッチ上でチームの力になれないのではと思うことも多々あった。それが一番悲しかったね。でも、いつかまた自分の時代が来ると信じていた。

ハンジ・フリック政権で、あなた自身の状況が変わっただけではありません。最初の数試合で、生まれ変わったかのようにチームが息を吹き返しました。
最も大きな変化は、かつてのように高い位置から守りに入ることだ。(コヴァチ時代と比較して)10~15メートルほど高い位置からのプレスは、実質、相手の息を止める力があるだろう。どこかで読んだのだけど、フリック監督に交代して以降、最初の4試合で3本のゴールしか許していない。それは効果が出ている証拠だね。僕たちが正しい道を歩んでいることを示している。

これだけ高い位置からチームが守備をするというのは、6番(ボランチ)にとってはさほど難しいことではないと思われますが、いかがでしょうか?
僕にとっては、1対1の状況が増えたということが言えるね。そして、こうした直接の対人戦を僕は好んでいる。自分が最後の一人になることで、もしミスをすれば失点に直結する、この責任感が好きだ。だから僕は120%の力を発揮できる。全てが懸かった対人戦において、僕はより高い集中力を持って臨むんだ。

ミュンヘンに来て8年になります。玄関先から見える山々の景色は、あなたの心の拠り所になっていると言えますか?
間違いなく言えるね。僕はスペインでも非常に山の多い地域の出身だ。バイエルンへ移籍する前には、多くの人々から言われたよ。「やめておけよ、ミュンヘンなんて寒すぎるぞ」と。でも、慣れるのは決して困難ではなかったね。僕の故郷と気候がよく似ているんだ。

よく山には行かれるのですか?
そうだね、よく行くよ。現役引退後は、スノーボードのスペイン代表チームとともに様々な場所へ行きたいと周りにはすでに言っている。僕は、山を愛し、雪を愛し、アドレナリンの出るスポーツを愛しており、登山やマウンテンバイクの旅にも行くよ。山の中では自由を感じ、常に新しい発見があり、自分の体を限界まで持っていくことができる。だからこそ、今のこの、オークリーとパートナー契約は本当に嬉しいね。10代の頃はいつもスノーボードとバイクのゴーグルを買っていた。そして、今回のキャンペーンで掛けさせてもらっている度付きメガネは、選手生活とプライベートの合間のアクティブな日常にぴったりとフィットしている。

ピッチ上でメガネを掛けてプレーするあなたの姿をすぐに見られますか? かつてエドガー・ダーヴィッツがメガネを着用しプレーしていたように。
正直なところ、本当にそうしたいと思う。とはいえ、実際にメガネ着用が必要かどうかは医師の確認が必要だね。

サッカー選手としての現役を引退した後の予定は、何かお考えですか?
今は引退後の話が多すぎて。僕は31歳だ!(笑) いや、真面目に答えるね。旅行は絶対に行きたい。確かに、僕はサッカー選手として多くの場所を訪れてはいるけれど、空港や、ホテル、スタジアムは見ている。でも、市内観光をすることがないんだ。いつもとても素敵な場所を訪れているのに、全く見る機会がなく、文化に触れ合うこともない。どうしても、僕らは試合に集中しないといけないからね。でも、現役引退後に行きたい場所リストは、既に僕の中にはあるよ。

それはどのような場所ですか?
上から順番に、ニューヨーク、メキシコ、ロサンゼルス、ローマと、あとは、まだまだ本当に沢山の場所があるよ。世界は、素晴らしい場所に溢れているね。

あなたの家族は、故郷の村にレストランを持っています。それも現役引退後の選択肢の一つと言えますか?
すでに今でも、僕は時々そこでウェイターとして働いているよ。でも、お客さんはいつも僕のサービスに文句を言ってくるんだ。でも、まあそれは僕への冗談であって、サービスは抜群だ。そして、レストランは本当に素晴らしい。アルボンディガス(スペインの肉団子料理)や、豆料理、カタツムリ料理と...。信じられないかな。ここではカタツムリは食べないんだよね?

食べないですね。ほとんど見ないです。ミュンヘンにいると、スペイン料理が恋しくなりますか?
最低でも月に一度は、母が僕を訪ねてくれて、年末まで足りるんじゃないかと思うくらいの量の料理を作ってくれるんだ。それに加えて、僕自身も料理するのは大好きだ。

チームメイトのために料理を振る舞ったこともありますか?
もちろん。つい先日も、バイエルンの食堂でみんなにトルティーヤを作ったばかりだ。でも、ちょうど代表ウィークの期間中だったから、あまり多くのメンバーには振る舞えなかったね。

▼元記事
https://11freunde.de/artikel/wenn-ich-spiele-denke-ich-nicht-nach/1424731?position=seiteninhalt&seite=1#seiteninhalt

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