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【永久保存版】ブンデス昇格以降のすべての歴代監督を、貴重な写真とともにゆるく紹介

—— 以下、翻訳 (ドイツ『シュポルト1』記事全文)

これまでバイエルンが欧州の頂点に立つまでの道のりは、数多くの監督たちによって形成されてきたものだ。その中には、早々に退任した監督もいれば、成功した時代を築いた監督もいる。ドイツ『シュポルト1』では、過去の監督たちや、彼らがバイエルンにどれだけの期間在籍したのかを振り返ってみた。


🇭🇷ズラトコ・チャイコフスキー(1965/7~1968/6) 

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1965年、FCバイエルンをブンデスリーガ昇格へと導いた。そのわずか2年後にはクラブ史上初の欧州タイトルを獲得した。1967年に、フランツ・ベッケンバウアーやゼップ・マイヤーらを擁するバイエルンが、UEFAカップウィナーズカップを制覇したのだ。

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また、チャイコフスキーは、ドイツ史上最高のストライカーであるゲルト・ミュラーのブレイクに一役買った人物でもある。彼に「太っちょミュラー」というニックネームを授けたほか、減量もさせた。

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また、チャイコフスキー自身も美味いものに目がなかった。在任中、監督はドリンクの給仕も進んで行っていた。1968年、彼のFCバイエルンで時代は終わりを迎えた。


🇭🇷ブランコ・ゼベッチ(1968/7~1970/3)

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やってきたのは、再びクロアチア人だ。ブランコ・ゼベッチは、当時のブンデスリーガ史上初めて連覇を達成した。1シーズンを通して、起用した選手はわずか13人だけだった。

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しかし、彼のあまりに過酷なトレーニングは、ベッケンバウアーやマイアーをはじめとするバイエルンのスター選手たちとの雰囲気を悪化させた。1969/70シーズン、第26節の時点でバイエルンが3位に陥り、彼は解任された。


🇩🇪ウド・ラテック(1970/3~1975/1)

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ラテックはゼベッチの後を継いだが、本来なら、彼の任期は翌シーズンからだった。そんな彼がミュンヘンにやって来たのは、まだ35歳の時だ。それまでは、ドイツのユース代表チームの監督を務め、そこでプレーしていたウリ・ヘーネスや、パウル・ブライトナー、ライナー・ツォベルら当時の教え子たちも一緒に連れてきた。

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ラテックは、クラブ史上随一の黄金時代の礎を築いた。1974年、ラテックはバイエルンを、UEFAチャンピオンズリーグの前身であるUEFAチャンピオンズカップで初優勝に導いた。このミュンヘンのチームが初めて頂点に立ったのだった。

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しかし、1974/75シーズン、バイエルンはブンデスリーガの中で史上最悪のシーズンを過ごした。ヴィルヘルム・ノイデッカー社長とも意見が合わず、ラテックは解任された。しかし、1983年にラテックは返り咲き、1987年までの間、2度目の任期を務めた。


🇩🇪デットマー・クラマー(1975/1~1977/11)

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クラマーは、1975年から1976年にかけてUEFAチャンピオンズカップを連覇し、1976年にはインターコンチネンタルカップ(現、クラブワールドカップ)優勝に導いている。しかし、彼がリーグ優勝を逃したことは、後に解任へと繋がった。

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1977年12月、バイエルンは監督のトレードに関して、アイントラハト・フランクフルトと合意に至った。先方から監督のジュラ・ローラントが、反対にクラマーが先方へと移籍することになったのだ。


🇭🇺ジュラ・ローラント(1977/12~1979/2)

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このハンガリー人監督は、FCバイエルンにゾーンディフェンスを導入した。1977/78シーズン、最後は12位に沈み、今なお残るクラブ史上最低の順位でシーズンを終えた。

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1979年の冬、ローラントは解任となる。1981年、ギリシャの強豪PAOKサロニカを指揮していた彼は、試合中に心臓発作を起こし、その後、息を引き取った。


🇭🇺パル・チェルナイ(1979/3~1983/5)

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チェルナイは、ローラント前監督のアシスタントコーチを務めていた。しかし、実はバイエルンのノイデッカー社長は、1860ミュンヘンのマックス・メルケル監督を後任にしたいと考えていた。しかし、選手たち、その中でも特に、キーパーのゼップ・マイヤーは、このオーストリア人監督をまったく望まず、チェルナイの監督就任を求めた。

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このハンガリー人監督は、1980年と1981年にチームをドイツ王者へと導き、1982年にはポカール優勝を果たした。しかし、1983年、この絹スカーフの監督は、ポカールや欧州カップ戦で早期敗退を喫し、リーグ戦でも不振に陥ったことで、シーズン終了を待たずして解任された。


🇩🇪ユップ・ハインケス(1987/7~1991/10) 

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ハインケス(写真中央)は、現役引退後、偉大なウド・ラテックの後を継ぎ、バイエルンの監督を4年間務めた。ハンス・ドルフナーハンジ・フリック(写真右)らドイツの若手選手を擁し、1989年と1990年にはバイエルンを優勝に導いた。

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しかし、欧州カップ戦では結果が振るわなかった。1991年、ハインケスは最終的にウリ・ヘーネスによって解任された。後にヘーネスは、この決断について、バイエルンのマネージャーとしての自身のキャリアの中で最大の失敗だったと認めている。


🇩🇰セーレン・レアビー(1991/10~1992/3)

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現役時代、1983年から1986年までバイエルンで89試合に出場したデンマーク人(写真左。右はヘルマン・ゲルラント)は、国際大会での成功とは無縁だった。

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UEFAカップ2回戦では、バイエルンはコペンハーゲンに6-2の大敗を喫した。ブンデスリーガでも振るわず、チームは順位表の中位に低迷していた。1992年3月、レアビーの在任はわずか数ヶ月で幕を閉じた。


🇩🇪エアリッヒ・リベック(1992/3~1993/12)

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リベックはレアビーからチームを引き継ぎ、10位でシーズンを終えた。翌シーズン、ミュンヘンはリーグ2位となる。しかし、その年のウィンターブレイク中に、リベックは解任されてしまった。


🇩🇪フランツ・ベッケンバウアー(1994/1~1994/6)

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リベックの後任には、それまでバイエルンの副会長を務めていたフランツ・ベッケンバウアーが就任。「皇帝」が、チームをリーグ優勝へと導いた。


🇮🇹ジョヴァンニ・トラパットーニ(1994/7~1995/6、1996/7~1998/6)

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バイエルンは初めて、国際経験豊かな監督を抜擢したが、最終的には言葉の問題で失敗に終わる。トラパットーニは1997年にミュンヘンをリーグ優勝に導いたが、1998年には、記者会見で「空のボトルのように弱い」と感情を前面に出し、苦笑を誘った。


🇩🇪オットー・レーハーゲル(1995/7~1996/4)

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少しの間、オットー・レーハーゲルはミュンヘンに挑戦したが成功しなかった。ヴェルダー・ブレーメンの前監督は、新加入選手のクリンスマン、ヘルツォーク、スフォルツァ、シュトルンツをはじめ、大型補強を断行したミュンヘンの "ドリームチーム "をタイトルに導くことが期待されていたのだ。

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レーハーゲルは、 "Otto find' ich gut (ドイツ通販会社「オットー」社の宣伝文句)"のキャッチフレーズで迎えられたが、すぐに一部の選手、特にメーメット・ショルたちから批判の声が上がった。ホームでハンザ・ロストックに敗れた「オットー王」は退き、再び「皇帝」にその座を明け渡すこととなった。その年、バイエルンはリーグ戦を2位で終え、UEFAカップ制覇を果たした。

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後任として "トラップ "(トラパットーニの愛称)が復帰し、1997年にブンデスリーガ優勝に輝く。1998年はポカール優勝を果たすも、リーグ戦では、昇格チームのカイザースラウテルンの後塵を拝し、2位という不甲斐ない結果に終わった。1998年3月、彼は伝説的な怒りのスピーチを披露し、シーズン終了後に再びバイエルンを去った。


🇩🇪オットマー・ヒッツフェルト(1998/7~2004/6、2007/1~2008/6)

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続いて、オットマー・ヒッツフェルトが就任し、FCバイエルンは新たな成功の時代をスタートさせる。1999年のバルセロナでのCL決勝の悪夢を乗り越えて、2001年には遂にチャンピオンズリーグのタイトルを再び獲得したのだ。また、彼の在任期間中、ミュンヘンは4度のリーグ優勝を果たしている。2004年、ヒッツフェルトは自ら辞意をクラブに伝え、惜しまれながらも退任。


🇩🇪フェリックス・マガト(2004/7~2007/1)

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マガトは、バイエルンの監督として初めて、2季連続で2冠を達成した。2006年のワールドカップ後、ミヒャエル・バラックを中心としたこのチームは不振に喘いだ。マガトは解任となり、前任のオットマー・ヒッツフェルトがその後を継いだ。バイエルンは2007年にチャンピオンズリーグの出場権を逃すも、その翌季には国内2冠を達成。


🇩🇪ユルゲン・クリンスマン(2008/7~2009/4)

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2006年のワールドカップで『夏のおとぎ話』の立役者となった監督は、FCバイエルンにさまざまな新たな手法を取り入れようとした。また、ゼーベナー通りにあるクラブハウスの屋根の上に設置した仏像は、新たな時代の象徴となった。

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彼の指揮の下、FCバイエルンは一度もリーグ首位に立つことはなく、チャンピオンズリーグではFCバルセロナに敗れて敗退。チャンピオンズリーグ出場権すら危ういかと思われた時に、解任となる。ユップ・ハインケスが後を継ぎ、シーズン終了まで指揮を執った。


🇳🇱ルイ・ファン・ハール(2009/7~2011/4)

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前途多難な滑り出しとなったが、ファン・ハールはバイエルンに新たなプレー思想を与え、国内ダブルを達成したほか、チームをチャンピオンズリーグ決勝に導いた。

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翌シーズン、タイトル防衛に失敗し、DFBポカールは準決勝で敗退。第29節のニュルンベルク戦で引き分けた後、"鋼鉄のチューリップ(ファン・ハール氏のニックネーム) "は解任され、シーズン終了までアシスタントコーチのアンドリース・ヨンカーが暫定監督を務めた。


🇩🇪ユップ・ハインケス(2011/7~2013/6)

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ハインケスがその後を継ぎ、バイエルンでの再挑戦を許された。その理由の一つには、ウリ・へーネスの良心の呵責があったことが挙げられる。彼を呼び戻したことで、ヘーネスは過去を悔いることもないだろう。2012年、出場する3つの主要大会すべてで準優勝に終わったFCバイエルンだが、2013年にはクラブ史上初となるチャンピオンズリーグ、ブンデスリーガ、DFBポカールの3冠を達成した。


🇪🇸ペップ・グアルディオラ(2013/7~2016/6)

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続いて、長年バルサの監督を務めてきたペップ・グアルディオラという絶対的なスター監督が就任を果たした。このスペイン人監督の下、FCバイエルンはかつてないほどブンデスリーガを圧倒し、グアルディオラはDFBポカールでも2度優勝している。しかし、チャンピオンズリーグでは、毎年チームは準決勝止まりだった。


🇮🇹カルロ・アンチェロッティ(2016/7~2017/9)

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ペップ・グアルディオラの後を継いだイタリア人監督は、初年度をリーグ優勝で飾る。この優勝で、彼はドイツ、フランス、イングランド、イタリアのリーグすべてでタイトルを獲得した史上初の監督となった。その翌年、アンチェロッティはチャンピオンズリーグのグループステージでパリ・サンジェルマンに3-0で敗れたことで解任された。


🇩🇪ユップ・ハインケス(2017/10~2018/6)

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ウィリー・サニョール暫定監督は、72歳のユップ・ハインケスが4度目の挑戦をする前、短期間だがチームを指揮した。FCバイエルンは見事にリーグ優勝を果たしたが、チャンピオンズリーグ準決勝でレアル・マドリードに敗れた。そして、DFBポカール決勝のフランクフルト戦で1対3の敗北を喫し、ハインケス監督の最後の試合を勝利で飾ることはできなかった。


🇭🇷ニコ・コバチ(2018/7〜2019/11)

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バイエルンを相手にポカール優勝を果たした後、選手時代にバイエルンで34試合に出場したクロアチア人が、監督としてミュンヘンに帰ってきた。だが、彼は就任当初からプランBでしかないと考えられていた。だが、コバチは、その逆境や秋の危機に挑んだのだった。

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ブンデスリーガでは、一時、ドルトムントとの勝ち点差は9ポイントもあったが逆転優勝し、ポカール決勝ではライプツィヒを3-0で下してダブルを達成した。だが、チャンピオンズリーグだけは、ベスト16でリバプールに敗れて敗退し、失望に終わった。

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だが、彼の下では、ゲーム内容の成長はほとんど見られず、パフォーマンスは説得力に欠け、いくつかの不可解な采配もあった。19/20シーズン序盤、コバチは苦境に立たされる。アイントラハト・フランクフルトに1対5で敗れた後、11月3日に「相互合意」のもと、解任となった。


🇩🇪ハンジ・フリック(2019/11〜2021/5)

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前任のコバチ監督の退任を受け、暫定監督に就任したフリックは、バイエルンを復活させた。コロナによる中断期間中、フリックが正式監督になることが発表され、2023年までの契約延長を行った。

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【追記(2021年5月25日)】

バイエルンは、フリックの今季限りの退任を発表。また、後日、ドイツサッカー連盟より、ドイツ代表監督の就任が発表された。数々の感動をありがとう、ハンジ!!!

▼元記事
https://www.sport1.de/fussball/bundesliga/2017/09/vorgaenger-von-niko-kovac-die-bayern-trainer-seit-1965#id=E9B45983-BDF2-4830-ABB7-A7B26B7282F1


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