見出し画像

端緒

何をすればいいのだろう。いや、何かをしなくちゃいけないんだ。それを考えると苛立ちがおさまらない毎日だ。この数年間でかなりの人間不信になった。それはそれまで見えなかった人間の内面が徐々に見えてきたせいかもしれない。 人間も含めてこの世は理不尽なことが多すぎる。以前に同級生がそのことに悩んでいた。だけどその頃の自分は労りの感情はあったにしろ、あまりにも幼く、彼の苦悩の本質が全く理解できなかったので、「そういったとりとめもないことで悩むのは自らを崖っぷちに追いやることにしかならない」と突き放してしまった。
自分はきれいに育った。きれいに育ちすぎた。 物事の一つ一つに 「良いこと」「悪いこと」というようにレッテルを貼りながら覚えてきた。それを親や周りの大人のせいだと思っているわけではない。ただ過去を振り返るたび、あまりの自分の愚かさにひたすら腹が立つのだ。そして、
「いい子ぶるのはもうやめよう」
次第にそう考えるようになっていった。模範的になんてなれなくていい。 これからは人からどう思われるかより、自分で悩み、考えた答えを大切にして生きていきたい。そうすれば自分を好きになれるかもしれないから。
今の自分はあまりに世間知らず過ぎるし、まだ分からないことだらけだ。これまで育ってきた環境が平和だったせいかもしれない。平和がいいという人もたくさんいるだろう。僕もそうだった。けれど、今ではそのことに疑問を感じている。うまく言えないけど、平和ぼけして本当に大切なことを見失うくらいなら、たとえ自らを崖っぷちに追いやることになったとしても真実の道を追い求めていきたい。本当のことが知りたいんだ。

人生にはいくつかの困難な壁がある。壁を乗り越えるために答えを出すことは大切なことだけど、答えだけをまるでコンピューターにインプットするように鵜呑みにして過程をなおざりにしてしまうのは固定観念を生み出す原因になってしまうだろう。
だが、世間一般ではそれを大人になるという。一端の大人になるには「現実」という名のルール、秩序を知り、それをわきまえ、そしてそれに従って生きていかなければならないのだろうか。時には諦めたり割り切ったり妥協しながら人は大人になっていくのか。もしそれが現実というなら僕は大人になりたくない。
でも、やがて時が経てば人は削られ丸くなってしまう。自然と意識が安全な方へ向かっていくだろうし、次第に規範性のなかでしか行動できなくなる。
変わらないでいるにはどうしたらいいのだろう。この意識を失わずに真っ直ぐに生きていくにはどうすればいいのだろう。妥協することに慣れ、自らを欺き偽るような人間にはなりたくない。
今できることは、自分は間違っていないと頑に自分の道をひたすら突き進む。今の僕にはそれ以上の事は分からない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?