誰も傷つけない世界。
「限界」を認めてから、それから。
▲「もう仕事に行けません」泣きながら訴えたあの日
業務形態が変わり、勤務時間が変わり。
普段は9時間拘束のところを6時間ほどで退勤する。
夕暮れ、満員電車に揺られて帰ってくる。
"一旦、これで落ち着いた"そのはずだったが、深く考えるとこれはこれで「そんなに楽ではない」との思いも徐々に膨れ上がってくる。
わかってはいた。
妙に割り切れない気持ちを抱えた私は、相変わらず家に帰ればボーっとしている事が多く、今のように突然自分の気持ちをどこかに書き殴りたい衝動に駆られてもそれをうまく言葉にできない。
"リアル"を遮断した、何の気兼ねもなく運用するSNSにさえ曝け出せない本音を、近しい誰かに言葉で伝えるのは、私にとって最も難しい事だ。
特に彼には・・・
また、あの時のように傷つけてしまいかねない。
▲彼を傷つけてしまった「希死念慮」の話
信用していない訳ではない。
つまりただ、私は、ますます自分がどうありたいかわからなくなったのだ。
今回はいつにも増して乱文です。
●「誰が楽になったの?」
業務軽減のために、私以外は休日を変更し、
夕方の最も忙しい数時間を上司が1人で勤務、私はオープンから夕方までの勤務で公休の変更はなし。
もう、暴言や明らかな嫌悪感を醸し出す客に会わないようにとの配慮で、勤務時間も本来8時間のところをしばらくは6〜7時間、と言う寛大な対処をして頂いた。
正直、コロナ禍以降私たちのような娯楽に関連するサービス業は決して景気が良いとは言えない。
そんな中いくら心身困憊状態とは言え、"1番忙しい時間帯の勤務を外れる"と言う事実が逆に私の重しになっている。
また、その代わりに
"出張業務には出向かなければならない"
"これまで他の人が勤務していた早朝業務を担当"
などちょっとした条件もついて、以前のように10時間以上も勤務に費やす事はなくなったが、出社時間は前にも増してバラバラになった。
上司は数時間、他の人は早朝勤務なし。
私の勤務時間や日数はほとんど変わらない。
…一体、本当は誰が楽になったのか?
私は楽になったのか?
一度湧き上がったこの疑問は湧いては消えつつ大きさを増して行く。
この仕事に携わる限り、避けては通れない道なのか?
いや、同業者の中にも、例え"会社"と言う枠組みの中にあっても自由に得意分野だけで勝負している者はいる…もちろんそこにはそれだけの努力や苦労、もしかして天性の才能なんかがあっての"働き方"ではあるが・・
暗くなる頃には帰宅するようになったものの、
相変わらず煮え切らない私の様子に、彼は「納得行ってないな?」と言う。
その通りだ。あまり納得できない。
これはワガママなのだろうか。
●希望を捨ててはいけなかった。
突然だが、私は"イルカ"が大好きだ。
イルカは前職で傷ついた私の心を癒してくれる"希望"だった。
小さい頃も何度も見ていたはずのイルカライブを久しぶりに見たのは京都水族館。
当時はまだ開業直後で、イルカたちはトレーナーの言うことを聞かず、ライブそのものは"グダグダ"で有名だった(笑)
だけど、その不器用さや一生懸命さが愛しくて、可愛くて、なぜか泣けてきて…一気にその虜となった。
フリーランスで比較的融通の効く立場だった当時、それ以降は彼と共に名古屋や和歌山や城崎、伊勢志摩などなど、数々の水族館やイルカに会える施設を巡る事が私の楽しみになった。
たくさんの感動的な"瞬間"を残しておきたくて、一眼ミラーレスや一眼レフを購入した。
年に1度、休暇を取って、大好きな彼と大好きなイルカに会いに行く、現実とはかけ離れたあの時間。
縦横無尽に飛び跳ね、泳ぎ回る被写体を夢中になって追いかける時間。
この時間を存分に楽しむためには、その先に"苦しみ"が待っていてはいけない。
楽しければ楽しいほど、その先にある苦手な仕事や嫌な仕事が嫌になる…だから苦手な事からは離れて得意分野のみで仕事をコントロールした、それほどまでに私はこの"希望"を大切に大切に守っていた。
コロナ禍で"旅行=悪"とされて以来は、将来や感染そのものに対する不安に押しつぶされ、「今はそんなことを考えている余裕はない」と無理矢理その気持ちを押し殺していたように思う。
それは私に取って、諦めてはいけないものだった。
押し殺してはいけないものだった。
今の会社では、月に取れる公休は日数が固定されていて、連続して取得はできるがつまり出勤日数は変わらないため、連休をとるには連勤も付き物になってしまう。
加えてほぼ年中無休で稼働のため、誰かが連休を取得すれば誰かが連勤になる…コロナ禍以降、人員を削減しギリギリの状態で生き残って来た今の職場環境では、とてもじゃないが「連休を取得したい」とは言い出しにくい。
私のように自己肯定感が低く、このところ失敗が続いていたような者にとっては尚更だ。
この性質を持っている者は、自己犠牲の精神でしか自己を保つ事ができないのだ。
「仕事ができないのだから」
「失敗ばかりしているのだから」
一方でパート勤務の者や上司が自由に旅行や家族との時間、友人との時間を楽しんでいる事も知っている…今考えると、彼との普段の生活すらすれ違いな自分と他者を「比べるな」と言う方が難しかったと思う。
「これを乗り越えたらイルカに会える」
これまではそれを生きる支えのようにしてきた私にとって、希望を"奪われ"、長時間の勤務や罵倒に耐え、だから「人生このまま終わって行くのは嫌だ」となどと言う被害者意識を持ってしまったのだろう。
おそらく上司には話せばわかる。
定休日を作るか、年2回の条件なしの休暇を取得したい、そう言えば会社は動くかもしれない。
良くも悪くも人間関係の濃度は高く、寄り添ってくれる会社ではあるのだから。
だが一方で、「ここまで寛大な勤務形態を取らせてもらっているのに・・・」と言う思いも同時に押し寄せ、それを口にする事は憚られるのも本音だ。
●ワガママでいいなら〜見えてきた不満の正体〜
もし、望む通りになるのなら?
そう自分に問いかけた時、どうしてもそこにあるのが
と言う思いだ。
だが、もしも誰も犠牲にならないなら欲しいものは。
・過去にトラウマのある、どうしても苦手な業務から外れたい。
・残業はなし、あるならそれなりの見返りがほしい
・旅行や趣味など、十分に楽しめる報酬がほしい
・彼との時間を存分に楽しめるだけの時間(休日)がほしい
・年2回の振り替え条件なしの長期休暇が欲しいしその際他者に気を遣いたくない
・メインとなる業務では得意分野のみ携わり、それ以外ではなるべく裏方の事務作業や予約管理・広告活動などの分野に回りたい
---------さて、"血反吐を吐くような苦労を重ねた上で今の立場を確立した同業者が聞いたら「今から殴りに行こうか!?」とYa-Ya-yahしてしまいそうな発言"をするがどうか見逃して欲しい。
いや、言うだけタダだ。言ってしまえ。
そしてみんなそうなれ。
つまりまとめると、
正直、他人を気にせず仕事に行くかどうかも、どんな仕事を受けるかやるかどうかも自分で選びたいし休みが欲しい。
自由になるお金も時間もめっちゃ欲しい。
…頼むからYa-Ya-yahしないでほしい。
なぜって、これらはどれも現実的ではないただの願望だからだ。
現状、人員は潤沢ではなく、
従業員は皆、家庭があったり、子供がいたり、何か事情を抱えていたりと勤務時間や日数に制限がある者たちばかりで、嫌な言い方をしてしまえば、どうしても"独身"の私がその穴埋めをする形に落ち着いてしまう。
"事情"を公言している者が早出をしたり残業をすれば感謝されるが、特にそれができない理由がないと思われがちな私のような立場の者にはなぜか「やって当然」の空気がある。
いや、
正直な話、私にも決して"事情"がないわけではない。
あっても「当然」の空気に気圧されて口にしづらいだけだ。
「旦那が」なら"しょうがない"のに、「彼氏」だと"私情を持ち込むな"的な話になるのは何故だろう。
どうして独身者の背景にはいつもスポットが当たらないのか不思議でならない。
仕事を蔑ろにしたいわけではない。
むしろ「彼に淋しい思いをさせている」「彼に心配をかけている」と言う現状を打破し、スッキリした気持ちで仕事に向かい、すべき事をこなして行きたいそれだけなのに。
彼は「conaが断れないのをいいことに都合よく使い潰している」と思っている。
…あんな風に泣いたり、落ち込んだりしている私を1番身近に見ていれば当然だ。
私だって、彼が辛い思いを抱きながら仕事をしていたならそう思ったし、憤っただろう。
実際、彼の鬱による退職前はモンスターペアレントよろしく彼の勤務先に電話でもかけて、どの立場からかよく分からない申立てをしたい衝動に駆られた。
▲彼の退職・転職の話
彼とて、楽しそうに働いている私を見て「都合よく使われている」などと憤ることはないのだから。
--------ただ、もう一方で、今の会社に限らず私が属する業界全体では、「それが当然」「こんなもん」。
そう言う"風潮"がある。
(その事実を象徴するかのような出来事がつい最近起こったので、これについては次回触れたい。)
●仕事は好きです。でも業界の体制が大っっ嫌いです。
自己犠牲が当然。この業界、こんなもん。
以前からこの風潮に疑念を抱いているのだが、
突き放した言い方をすれば「腐敗した」業界自体のブラック体制はもうこの先も変わらないし、不景気とは言え多様な働き方が容認されつつあるこの時代にそぐわないこの業界はいずれ働き手がなくなり、特に店舗型の業務はこのまま衰退してしまうのではないか?と危惧する同業者も(口にはしないが)多いであろうと推察している。
今時、私のような働き方をしている"先輩"を見て、
「この人みたいになりたい」
「この会社で働きたい」
なんて思う"イマドキ"の若い世代がいるのだろうか?
私ならお断りだ。
そもそも小学生の頃から根性論は苦手だし、「勝ち進む」とか「競い合う」「苦労すべき」と言う概念が嫌いだ。
"自分は自分"でいられない場所が大嫌いだ。
"マイペース"を尊重されない環境が嫌いだ。
そんな思いを持った少女だった。
そんな私にとって、
時間に追われ、マニュアル通りである事を求められるこの仕事は何とも窮屈に思える。
いつも「自分は二の次」。
親の死に目に会えなかった事を誇らしげに語る古き悪き"先人"の蔓延るこの業界では、他者のために自分を犠牲にするのが「あたりまえ」。
自分や家族を蔑ろにしておきながら、他者の幸せを願うと言う一生分の矛盾とサービス業の闇を凝縮した世界だ。
だからなのか、同業者で"穏やかな人"を滅多に見かけない。
---------きっとみんな、仕事が嫌いな訳じゃない。
ただ、夢や希望を打ち砕かれ、自分を押し殺した果てに闇へと飲み込まれてしまっただけなんだろう。
私自身、仕事そのものは嫌いではない。
単純だが、お客様からの"喜びの声"や心からの「ありがとう」を頂き、充実感や達成感を得る事もある。
自分のできる事でお金を稼ぎ、人を幸せにもする。
本来はとても良い仕事だと思う。
ただ、歪んだ、もはや宗教的な「お客様第一」思想が産み出した無意味な拘束時間や実は深い意味のない謎の風習や非効率的なルールなど肌に合わない独特の風潮は受け入れ難い。
この業界は、まともに向き合おうとすればするほど私の嫌いな物や苦手な物が溢れ、その先には深い闇が広がっている。
よほど自分を強く保っていられなければ続かないし、我を強く持たなければ自分や自分の大切な物を守れない。
そして常に「無理をしてまで続けたいのか?」ともう1人の自分に問われる
…もはやシンプルに「向いてない」。
それは認めた上で、どんな仕事であっても家族や友人との時間、1人の時間、趣味の時間…など、その人にとって"どんな時間に重きを置くか"はそれぞれであるが、できるだけその重みは平等であってほしいものだ。
それに見合った報酬ももちろんあって欲しい。
なのにこの仕事のほとんどが薄給である事も問題だ。
社員だとしても手取りは少ない。
パートだとすると時給は安く、結局身を削って長時間を仕事に割くこととなりがちだ。
そして大切な物や人、時間を守り通すための要望は、ほとんどの場合が「甘え」と一蹴され、フェードアウトして行く。
もはや「趣味を楽しみたい」とか「家族との時間を大切にしたい」と言う"希望"は何の意味もない。
この仕事が好きで続けたいと思っても、プライベートとの両立が叶わない。
こうして去って行く者がほとんどなのではないだろうか?
コロナ禍で仕事が激減したあの時、
「これ幸い」とそれを言い訳に業界を去った者も少なくはないだろう。
がんばった。耐えてきた。
なのに、守ってはくれない。
こう考え、転職を選んだ者もいたはずだ。
人の気持ちや生き方は、
その時々の状況で変わっていく物だ。
なのにこの悪しき"体制"はずっと変わらない。
"順応できる者だけが生き残れる"と言われればそれまでではあるが、令和の時代においても未だ根性論を誇り、自己犠牲を美徳とする業界は、そうである事に疑問を抱き、業界こそが現実に直面し、そうである事を恥じ、そうである事を猛省してほしい。
変わらない物もあっていい。
でも、変わらない事で他人の人生を、幸せを追求する権利を奪うような事はあってはならないと思う。
●本当の願い。
先に言わなければならなかったが、この話には答えは出ていない。
そもそも「好きなものを奪われた」「大切な時間を奪われた」と言う今の感覚は、被害者意識と言われればごもっともだ。
自分で選んだのだから、と言う人もあるだろう。
この業界のやり方や常識が肌に合い、私がどうしても出来ない事や受け入れられない事を受け入れ、を難なくやってのける、そんな人間もいる。
要は"適材適所"に私が当てはまらなかったのだ。
また自分でどうするか選べばいい。
なのにどうしても、
私は自己犠牲の精神で人や仕事に接する事を手放せずにいる。
イルカに会いに全国いろんな所へ旅をしていた、あの頃も不満はあったが、実はあの頃の自分が1番"私らしい"状態だったのかも知れない。今はそう思う。
誰よりもきちんと仕事をして、苦手な事もする代わりにきちんと休みはもらう。
そのバランスをうまく保てていたからだろう。
「ちゃんと仕事をしている」と言う自信もあった。
今はどうだろう。
「やめれば迷惑がかかる」とか、「休めば誰かに負担がかかる」とか他者を気にするあまりに自我を抑え込み、結果たくさんのものを背負い込んで潰れてしまった。
慣れない業務や客層に戸惑い、失敗が続いた事で、「仕事ができている」と言う自信を持つ事もできなくなった。
自信がないから、自分の希望や辛い気持ちを上司に伝えたり、先輩に相談する事もできなかった。
もう少し早く、自分の事を、思いを、希望を話す事ができていたら、一緒に考えてくれたかも知れないし、こうなる前に改善されていたかも知れない。
上手くいかなければ話し合い。少しずつでもアップデートしながら、みんなで"誰も傷つかない世界"を作っていけたのかも知れない。
今頃そうなったいたかも知れない。
私は自分の事を話さなさすぎた。
くだらない愚痴は言っても、本当に自分が求めるものを話した事があったのだろうか。
乗り越えるは、苦手な仕事やできない仕事ではない。
仕事は続けていればいずれ身につく時が必ず来る。
真に乗り越えるべきは、自己犠牲を自分に課す自分。
「自分だけが犠牲にならなければいい」と、私はどうしても思えない。
「自分も、他人も、犠牲にならなければいい」これが私の本当の願いだ。
他者にも同じく、自分の大切な物を大切にして欲しい。
誰が誰に気兼ねする事なく、誰に対しても罪悪感を持たず、心が自由である環境を、私は望んでいるのだ。
現状では難しいのかも知れない。
ましてやこの業界ではますます難しいのかも知れない。
それでも私は、この願いを取り下げたくはない。
私が自由に、楽しく、持てる力を発揮して働く事を歓迎してくれないような会社であるなら、今の私には勤続は難しいだろう。
同じように会社の皆さんにも、自由に楽しく働いていただきたい。気兼ねをしたくない。
自己犠牲を乗り越え、
思いもよらぬ形で実現する日を私は願って止まない。
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